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2011年11月26日 (土)

信長が指示?謎が謎呼ぶ織田信光・殺害

 

弘治元年(1555年)11月26日、織田信長叔父・信光が、那古屋城にて家臣の坂井孫八郎に殺害されました。

・・・・・・・・・・

織田信長が尾張統一を果たすまでは、織田信○さんばかりが登場するややこしい世界ですが、おつき合いのほど・・・

今回の織田信光(のぶみつ)さんは、信長の父・信秀・・・武勇に優れた人物で、はじめは、その信秀の下で、数々の武功を挙げ、天文十一年(1542年)の小豆坂の戦い(9月19日参照>>)では、『小豆坂の七本槍』の一人に数えられたほどでした。

Odanobunaga400a その後、信秀の死によって、息子の信長が、清州三奉行・織田家の家督を継いでからは、その大きな後ろ盾として信長を支え、未だ同族・織田家同志の争いが絶えない尾張(愛知県西部)国内で、ともに戦ったのです。

特に信長と敵対関係にあった尾張下四郡の守護代織田信友の重臣だった坂井大膳(だいぜん)が、信長と信光の信頼関係を分断すべく画策した天文二十四年(弘治元年・1555年)4月には、その誘いに応じたかのフリをして、信友の清州城(愛知県清須市)に入った後、逆に、その信友を殺害・・・危険を察知した大膳は、命からがら、今川義元を頼って駿河(静岡県東部)へ落ちて行ったとされます(4月20日参照>>)

しかし、こうして奪った清州城を、信光はあっさりと信長に渡し、自身は、その信長から与えられた那古屋(なごやじょう・愛知県名古屋市中区)へと入っています。

ところがです。

そんな信光の絶頂期は、その信友殺害からわずか半年後・・・弘治元年(1555年)11月26日に、不慮の死という形で終わりを告げました。
(年の変わりめでややこしいですが、旧暦:弘治元年11月26日は、西暦:1556年1月7日となります)

自らの重臣である坂井孫八郎という人物の手にかかって殺害されたのです。

甫庵信長記』によれば、信光の正室(松平信定の娘)が病弱な信光に満足できず、家臣の孫八郎と浮気していたと・・・当然の事ながら、主君の奥さんを寝取ったとあっては、もし事が発覚すれば、その命は無いわけで・・・

それで、発覚を恐れた孫八郎が、信光が、まだ事実を知らないうちに殺害して、夫人とともにかけおちして行方不明になったのだとか・・・

さらに、その孫八郎のその後については、彼が父のもとへ立ち寄った際に、「不義者」として夫人ともども成敗されたなんて事も言われます。

これだと、単純な不義密通による謀反・・・となるのですが、時期が時期だけに、様々な憶測が生まれています。

一説には、混沌とする一族内・・・この後、自らの弟をも葬り去る(11月2日参照>>)信長にとっては、織田家内で唯一とも思われる理解者だった信光を失って、信長が、たいそう悲しんだ、なんて事も言われますが、

一方では、この先、織田家のトップを目指す信長にとって、叔父・信光の力が大きくなり過ぎる事は、いつ、後ろ盾から脅威に変わるかも知れず、今の内に始末していた方が懸命だと・・・つまり、この殺害事件は、信長の指示であったとする説・・・

また、上記の通り、家内で対立していた弟・信行を、織田家の後継者として擁立したい者にとっては、現時点で、最も信長の片腕として活躍する信光を抹殺して、その力を削ぐ・・・つまり、信行指示派による暗殺との説もあります。

果たして、不義密通が、信長か、信行擁立派か・・・

謎が謎呼ぶ信光殺害・・・ただ、結果的に見れば、この後、尾張上四郡守護代の信長は織田信賢(のぶかた)を倒して織田家のトップとなり(11月1日参照>>)、さらに天下を狙う立場になるのですから、信光の死は、信長に幸運をもたらした事になるのでしょうが・・・

こればかりは、何とも言えません(><)
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コメント

「仁義なき戦い・尾張編」

何か、凄いですね!? これなら、明智勢が本能寺に押し寄せてきた最期の時にも、信長が慌てもしなかったのが実感されます。並みの武将とはキャリアが違いますよね。

投稿: レッドバロン | 2011年11月26日 (土) 23時04分

レッドバロンさん、こんばんは~

未だ信長23歳ですからね~
このあとに、斉藤道三の死もあるわけですし…

おっしゃる通り、並みの武将とは違いますね。

投稿: 茶々 | 2011年11月27日 (日) 02時41分

信光事件については、単純に考えて信長・信行とも関与はなく、徳川方(松平家)の報復なんじゃないかと考えています
信行がここまで気の回る人物なら、信長には負けていないはず。

今川家や斎藤家は正攻法で織田家を潰そうとして失敗していますが
松平勢は織田の内情に詳しかったようで、チマチマしていますが効果的な策が多いようです

ただ守山崩れなどは同族同士の暗殺合戦ですし、松平勢は特殊作戦に特化している為に管理しにくい戦力。その点を徳川家康は、家中の織田派を抱き込むため信長と同盟したふりをしつつ、三河一向一揆でこうした特殊部隊の直轄化に成功しているわけで、地味ですが年齢を考えると驚異的な政治力だと思いますし、信玄のような自家のブランド化、信長のような西洋合理主義の導入とは又違ったセンスを感じます。

投稿: | 2013年8月10日 (土) 04時39分

>徳川方(松平家)の報復…

なるほど…
未だ今川傘下の松平ですから、どこまで、おっしゃる特殊部隊が育成されていたか?が微妙なところではありますが、そういうシチュエーションも考えるみるのもオモシロイと思います。

投稿: 茶々 | 2013年8月10日 (土) 17時47分

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