しこのますらを~舎人親王のカッコイイ生き方
天平七年(735年)11月14日、天武天皇の第五皇子で、日本書紀を編集指揮した事で知られる舎人親王が60歳でこの世を去りました。
・・・・・・・・・・
♪丈夫(ますらを)や 片恋せむと 嘆けども
醜(しこ)の益卜雄(ますらを) なほ恋ひにけり ♪
「男たる者、惚れさせてナンボや、片思いなんかするかい!…て思うんやけど、やっぱ、好きなもんは好っきゃねん。カッコ悪い男やなぁ~俺…」
万葉集に残る舎人(とねり)親王の歌です。
なんか、いいですね~
恋する者の気持ちは、今も昔も変わりなく・・・1300年も前の人に親しみを感じてしまいます。
・・・で、その片思いのお相手の返事は???
♪嘆きつつ 丈夫(ますらおのこ)の 恋ふれこそ
我が結ふ髪の 漬ちてぬれけれ ♪
「カッコ悪いとか言いながら、イケメンが告って来るから、私の髪の毛も濡れてしなやかになってもたやんか」
もちろん、濡れてしなやかになったのは、彼女の髪じゃなく、彼女の心・・・舎人親王さん、見事、射止めましたね。
ところで、この舎人親王の舎人という名前・・・
実際に、生存中にそう呼ばれていたのか?記録として残されただけなのか?よくわかりませんが、とにかく、ご存じのように舎人というのは、殿(との)入りが変化した物とも言われ、古代の天皇や皇族の身辺で御用を勤めた従者の事ですから、そんな名前を、天皇の皇子である親王につけるのか?
って、ちと疑問に思ってしまいますが、
おそらくは、舎人親王の舎人は、その役職からではなく、舎人氏という豪族からの由来と思われます。
この舎人氏というのは、朝鮮半島の百済(くだら)からの帰化人の家系と言われながらも、くわしい事はわからないのですが、当時、皇室と近しい関係にあった豪族だとされるので、ひょっとしたら、舎人親王の乳母=養育係を務めていた家柄なのかも知れません。
舎人氏の一族が、養育&後見となっている親王という意味で、舎人親王・・・って事なのかも知れませんね。
また、彼が思いを寄せ、そして、上記の歌で、おそらく「OK」の返事を返した女性の名も、舎人娘子(とねりのおとめ)・・・
たぶん、舎人一族の女性なのでしょう・・・って事は、舎人親王とは乳兄弟で、ひょっとしたら、親王の初恋なのかも・・・( ̄ー ̄)ニヤリ
それはさておき、この舎人親王・・・
親王とつくからには、天皇の息子であり、あわよくば皇位につく可能性のあった人なわけですが、彼自身は、その事をどのように思っていたのでしょう?
もちろん、本当の事は彼に聞くしかありませんが・・・
舎人親王の父である天武天皇は、9人の奥さんとの間に10男7女をもうけていますが、その奥さんにも、皇后>妃>夫人>嬪(ひん)・・・と身分の差があって、だいたい、身分の高い奥さんの子から順番的に、皇位継承の優先権がある事になりますが、
このうち嬪以下の奥さんは、地方豪族の娘が宮廷で働く中で天皇に見染められて・・・というケースが多いので、身分は低い・・・
夫人は、天武天皇の場合は3人で、藤原鎌足(ふじわらのかまたり)の娘が二人と蘇我赤兄(そがのあかえ)の娘が一人・・・いずれも臣下の者の娘という事。
で、妃の3人=大田皇女(おおたのひめみこ)・大江皇女(おおえのひめみこ)・新田部皇女(にいたべのひめみこ)は、いずれも、天武天皇の兄である天智天皇の娘・・・さらに、皇后である鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ・後の持統天皇)も、天智天皇の娘です。
舎人親王は、そんな中の新田部皇女の息子ですから、年齢的には若いものの、身分としては申し分なく皇位につける立場でした。
しかし、つかなかった・・・というよりも先に、未だ彼が幼い頃に一度事件が起きています。
そう、あの大津皇子の事件です(9月24日参照>>)。
大津皇子は、鸕野讃良皇女の姉の大田皇女の息子で、鸕野讃良皇女の実子である草壁皇子とは1歳違いの優秀な人物で皇位継承を巡っての草壁皇子のライバルと言うべき人でした。
しかし、父の天武天皇が亡くなった時には、すでに母の大田皇女も亡く、姉の大伯皇女(おおくのひめみこ)も伊勢の斎宮として奉仕していたので、そばにはおらず・・・
結局、大津皇子は謀反の疑いをかけられて処刑されるのですが、それが、天武天皇の死から、わずか半月後のスピード処刑・・・そこには、我が子に皇位を継がせたいと願ってライバルを抹殺した鸕野讃良皇女の影が、どうしても見え隠れしてしまいます(1月18日参照>>)。
この事件が舎人親王11歳の時・・・彼は、どのような思いで、事件を見ていたのでしょうね?
しかし、その草壁皇子は、事件のわずか3年後に、皇位を継ぐ事無く病死してしまいます。
期待していた我が子を失った鸕野讃良皇女・・・「それならば…」と、その草壁皇子の息子である軽皇子(かるのみこ・後の文武天皇)に皇位を継承してもらいたいと願うわけですが、その軽皇子は未だ7歳。
やむなく、「軽皇子が成長するまで…」という雰囲気で、鸕野讃良皇女自身が即位して持統天皇となったわけです。
この時、舎人親王は15歳・・・多感な少年時代に起きた一連の流れを、優秀な彼は、一歩退いた場所で冷静に観察していたのかも知れません。
というのも、持統天皇が、亡き夫=天武天皇の遺志を継いで(2月25日参照>>)、日本初の都市計画に基づく本格的な都=藤原京の造営や、律令国家の形成、中央集権に奔走する(12月6日参照>>)中で、舎人親王は、もう一つの天武天皇の遺志であった天皇の正統性を伝える歴史書=日本書紀の編さん(3月17日参照>>)に身を投じる事になるからです。
皇位継承を争うのではなく、皇室の一員として現天皇に協力する事で生き残りを賭けた・・・さらに、かの日本書紀の内容を見る限り、彼は、かなり藤原氏寄りでもあります。
現に、後に、自分とこの血を引く聖武天皇が即位して、もはや天皇家をしのぐ勢いとなった藤原氏が、おそらく、目ざわりとなった天武天皇の孫=長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)を抹殺しようとしたとおぼしき長屋王の変で、舎人親王は率先した協力体制をとっています。
かと言って、舎人親王にまったく皇位につく意思が無かったか?と言えば、そうではないような気もします。
万葉集には
♪冬こもり 春へを恋ひて 植えし木の
実になる時を 片待つ我れぞ ♪
「冬の寒い時に、春になったら…と期待して植えた木に、実がなるのを、俺はひたすら待ってんねんで~」
という歌が残っています。
もちろん、上記の言葉通りの歌の意味なのかも知れませんが、彼が待っていたのは、「果実」ではなく、皇位を継ぐべき「時」であったような気がしてなりませんね。
しかし、冷静な彼だからこそ、血気にはやる事なく判断し、結局は、聖武天皇の皇后となった光明子(8月10日参照>>)の兄たちである藤原四兄弟に協力する立場を取り続けた・・・って事なのかも・・・
舎人親王が養老二年(718年)に『日本書紀』編纂事業の完成と、42歳の厄除けを祈願して建立したと伝えられる日本最古の厄除け寺・松尾寺
松尾寺への行き方は本家ホームページ:奈良歴史散歩「いかるがの里」でどうぞ>>
こうして、舎人親王は、聖武天皇の補佐をしながら、最終的には知太政官事(ちだじょうかんじ)にまで昇りつめ、政界の長老のような立場となったと言います。
天平七年(735年)11月14日、60歳で亡くなった時には、即日、太政大臣(だいじょうだいじん・だじょうだいじん)に昇進し、後に、息子の大炊王(おおいおう)が淳仁(じゅんにん)天皇(10月23日参照>>)となった時には、天皇の父として崇道尽敬皇帝(すどうじんけいこうてい)という追号も贈られました。
反発精神を持ちながらも、時の権力者に協力して生き残る事を選んだ舎人親王・・・
悪く言えば、「長い物に巻かれる」「寄らば大樹の陰」で事無かれ主義に走ったと言えるかも知れませんが、だからこそ、皇位継承の嵐渦巻く中で、60歳という、当時としては長寿を全うできたとも言えるわけで・・・
男としては、ちとカッコ悪い=醜の益卜雄(しこのますらを)的な生き方だったかも知れないけれど、それこそが舎人親王の真髄・・・優秀だからこその賢い選択だったと言えるかも知れません。
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