怨念の松本城~多田加助の貞享騒動
貞享三年(1686年)11月22日、10月に、信濃松本藩で起こった百姓一揆の首謀者・多田加助らが処刑されました。
・・・・・・・・・
貞享三年(1686年)という年は、信濃(長野県)安曇野(あずみの)一帯は、かなり不作の年でした。
いや、不作は今年だけでなく、ここ数年続いていたのです。
にも関わらず、松本藩は、米1俵あたりの容量を三斗五升挽きに引き上げて年貢を納めるよう要求して来ました。
1俵の籾(もみ)から殻を取り除いて玄米にすると、その容量は二斗五升になり、普通は、この二斗五升が1俵として年貢を納めるわけで、近隣諸国は、皆、そうでした。
そこを、この松本藩は、これまで三斗を1俵として年貢を徴収してたので、すでに、他の地方より年貢は高かった事になりますが、それを、この年になって、さらに多く「三斗五升納めよ」と言って来たのです。
しかも、「のぎ磨きをしてから…」という条件つき・・・
脱穀作業もほとんど手作業のこの時代、玄米には「のぎ」と呼ばれる長い毛がついていたのですが、「それを全部取り除いてから俵に納めよ」と言うのです。
もちろん、未納者には厳しい刑罰があるのは当然の事・・・
この無理難題に立ちあがったのが、庄屋だった多田加助(ただかすけ)・・・11名の同志とともに熊野神社にて密議を行い、郡奉行へ直訴する決意をします。
貞享三年(1686年)10月14日、加助たちは、年貢を通常の1俵=二斗五升への減免をはじめとする5カ条の要求をしたためた直訴状を持って、奉行所に訴えたのです。
彼らの行動は、すでに噂として近隣に広まっていて、当日は、約1万人と言われる百姓たちが、蓑(みの)笠に身を固め、鋤(すき)や鍬(くわ)を手に、松本城下に集結・・・奉行所近辺へ押し寄せたのです。
この時、藩主・水野忠直は参勤交代のため不在・・・こんな事が幕府に知れたら一大事です。
慌てて、城代家老は、即座に彼らの要求を呑み、ひとまず、事を治めます。
しかし、これは、とりあえず、彼らを引き取らせるためのポーズ・・・すぐに、江戸の藩主に報告するとともに、この約束を反故(ほご=無かった事)にして、加助以下、主要メンバーの捕縛に取りかかるのです。
捕えられたのは、加助と、その一族&同志・28名・・・その中には、加助の参謀役だった小穴善兵衛という者の16歳の娘や、この正月に生まれたばかりの赤ん坊も含まれていました。
こうして貞享三年(1686年)11月22日、捕縛された28名のうち、加助ら、主力メンバー・8名は磔(はりつけ)、残りの20名は獄門とされたのです。
(赤ん坊は処刑の前に病死したとも)
その日、松本城を望む高台にて磔柱に上げられた加助は、集まった多くの人に向かって、最後の声を振り絞り、叫びました。
「これで、皆の年貢が下げられるんやから、俺は安心してあの世へ行けるゾ~~」
すると群衆の中から・・・
「残念やけど、覚書は、おまはんが捕まって牢に入れられた時に、役人に取りあげられてしもた」
との声が・・・
がく然とした加助が、
「二斗五升、二斗五升…」
と念仏を唱えるようにくり返しながら、怒りに満ちた目で松本城を睨みつけると、その瞬間、恐ろしい地響きとともに、天守が西に傾いたのだとか・・・
それから40年後の享保十年(1725年)、忠直の孫に当たる第6代藩主・水野忠恒(みずのただつね)が、乱心の末、江戸城・松の廊下で大暴れした事で、水野家は改易処分となりますが(6月28日参照>>)、この事件が「加助の祟り」と恐れられたのは言うまでもありません。
水野家の改易によって支配権が戸田松平家に移った事をキッカケに、加助らの名誉は、少し回復され、多田家で、彼らを祀る事が許されるようになったのだとか・・・
やがて、明治維新後の自由民権運動の中で、彼らの行動が絶賛されるようになり、加助らは義民として、全国に知られるようになりました。
実際には、先の処刑の時の松本城の傾きのお話は、この明治の頃にすでに傾いていた天守を見て、加助らの話と結びつけた物だという事ですが、なにやら、結びつけたくなる話ではあります。
この加助らの事件は、その名をとって「加助騒動」、あるいは年号をとって「貞享騒動(じょうきょうそうどう)」と呼ばれています。
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コメント
千葉県にも佐倉宗吾郎と言う名主がいて、江戸時代前期に農民のために直訴をしたと言う人です。佐倉市には「宗吾霊堂」(京成電鉄の駅名でもある)があります。
記事を読んでいて思ったんですが、「松本城」に関係する人は何か呪われている気がします。
投稿: えびすこ | 2011年11月22日 (火) 17時13分
えびすこさん、こんばんは~
伏見にも義民の話がありますね~
「直訴して牢につながれる」という話は、各地であったんでしょうね。
投稿: 茶々 | 2011年11月23日 (水) 03時14分
初めましてこんにちは。
とても心地よいサイトですね。
義民伝についてはこんな所に当たると視野が広がると思われます参照してみて下さい。
撮れたて「写真・安曇野便り」 第35回(1月号) 安曇野の自由民権運動 http://genkigaderu.net/contents/play01/83/
臼井吉見の「安曇野」を歩く 18.ヒーロー求策 http://www.shimintimes.co.jp/yomi/aruku/18.html
自由民権運動のリーダー 自由民権に死力を尽くし後世につなげた想い 松沢求策 http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/memory/02/
松沢求策 http://www.city.azumino.nagano.jp/yukari/person/68/
松沢求策 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%9D%BE%E6%B2%A2%E6%B1%82%E7%AD%96 ← 天守傾く伝説をこしらえた人
坂崎紫瀾 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%9D%82%E5%B4%8E%E7%B4%AB%E7%80%BE ← 龍馬伝説をこしらえた人
貞享騒動 http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%B2%9E%E4%BA%AB%E9%A8%92%E5%8B%95
加助松本城睨み天守傾く http://www.oshiro-m.org/quiz/g6_1.pdf
赤蓑騒動 http://www.oshiro-m.org/quiz/g6_3.pdf ← 世直し騒動のひな形 日本の現状に最も近いかも
荷抜け http://www.amazon.co.jp/%E8%8D%B7%E6%8A%9C%E3%81%91-%E5%B2%A1%E5%B4%8E-%E3%81%B2%E3%81%A7%E3%81%9F%E3%81%8B/dp/4406050426/ref=sr_1_1?ie=UTF8&qid=1322026336&sr=8-1
佐倉惣五郎 http://www.geocities.jp/widetown/japan_den/japan_den015.htm
義民の世界 佐倉惣五郎伝説 http://www.rekihaku.ac.jp/about/books/1.html
松本城天守が目に見えて傾いたのは明治に入ってからです。
史実のままでは恨みを買ったのは戸田松平家か明治政権という事になってしまいますね。
脚色したのは自由民権運動家の松沢求策で下敷きとなったのは佐倉惣五郎に取材した歌舞伎「東山桜荘子」です。
さらに詳しく知るには、坂崎紫瀾、松沢求策、自由民権運動で検索してみて下さい。
でも、この話は社会に対していろいろと考えるきっかけを与えてくれる貴重な素材ですね。
松本ゆかりの水野、堀田という地縁のない譜代大名家が両義民騒動の糾弾を受ける体制であると云った点や、維新、その名のごとく富を維持し資本家として益々繁栄する富農層と筆を持って抗う没落士族や中下層農民と云った構図等々。
上記資料にあるとおり、江戸時代前期の一揆、強訴の類は名主・庄屋層を含んだ全農民的な物でしたが、時代が下り中期以降は資本の偏在に対する反発と公正を求めた階級闘争と化し、名主・庄屋といった村役人は寧ろ弾劾のターゲットとなってゆきます。
投稿: 野良猫 | 2011年11月23日 (水) 18時48分
野良猫さん、こんばんは~
直訴や一揆も、時代によって様々に変化していきますね。
たくさんの情報をありがとうございましたm(_ _)m
投稿: 茶々 | 2011年11月24日 (木) 01時55分