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2011年11月 1日 (火)

信長の前に散る尾張上四郡守護代・織田信賢

 

永禄五年(1562年)11月1日、織田信長が織田家本宗の一つである岩倉城の織田信賢攻めて追放・・・尾張一国を統一を果たしました。

・・・・・・・・・・・・

注:日づけはもちろん、年号にも諸説ある信長の尾張統一ですが、とりあえず、本日書かせていただきます。

あの桶狭間(おけはざま)の戦い(5月19日参照>>)で、海道一の弓取りと言われた今川義元を倒した事で、一躍全国ネットに躍り出た感のある織田信長ですが、ご存じのように、その実は、未だ尾張(愛知県西部)一国を統一したかしないかの一武将でした。

そもそもは、父・信秀の死を受けて、清州三奉行・織田家の家督を継いだ天文二十年(1551年)、未だ18歳の信長を取り囲む尾張国内では、織田一族の中で誰が敵で誰が味方なのかも刻々と変化する混沌とした状況・・・

そんな中で信長は、天文二十一年(1552年)に、叔父の織田信光(11月26日参照>>)と協力して尾張下四郡の守護代織田信友の家臣だった坂井大膳(だいぜん)を破り、3年後の弘治元年(1555年)には、その信友を殺害して清州城を奪いました。(4月20日参照>>)

さらに、すでに名ばかりとなっていた守護斯波義銀(しばよしかね)も追放した信長・・・しかし敵は外にばかりいるとは限りません。

弘治三年(1557年)には、織田家の後継者を巡って、度々対立していた弟・信行の謀反の企てを知り、自ら殺害しました(11月2日参照>>)

そんなこんなの永禄元年(1558年)頃・・・尾張上四郡の守護代織田信安(のぶやす)一族内で問題が起こります。

この信安という人は、信長の従兄弟に当たるので、幼い頃は、二人とも仲良くしていたようですが、長じてからは所領問題でゴチャゴチャし始めたうえ、信長に通じたとして、信安が家老の一人を殺害したり、美濃(岐阜県)斉藤義龍(よしたつ)と手を組んだりした事で、ここのところは両者の関係が悪化していて、かの弟・信行の一件でも、信安は信行側についたりしてました。

そんな信安が、ここに来て、自らの嫡男・信賢(のぶかた)を嫌い、次男の信家(のぶいえ)後を継がせようとしたのです。

当然の事ながら反発する信賢は、逆に、父と信家を、居城の岩倉城から追放して実権を握ってしまいました

この内紛を好機と見た信長・・・やはり信長の従兄弟で、信安の後見人だった犬山城主の織田信清(1月17日参照>>)に自分の妹(もしくは姉)を嫁がせて仲間に引き入れて準備完了!

こうして、約2000を率いる信長と約3000を率いる信賢は、尾張浮野(うきの・一宮市)にて激突したのです。

最初はやや劣勢だった信長軍でしたが、途中で信清の援軍が到着・・・形勢は一気に逆転となり、壊滅状態となった信賢軍は脱落者の嵐となり、大将の信賢も、岩倉城へと逃げ帰りました(5月28日参照>>)

浮野の戦いと呼ばれるこの合戦の後、岩倉城にて籠城を続けていた信賢でしたが、やがて信長に降伏・・・

かくして永禄五年(1562年)11月1日・・・
ここまで、尾張守護の斯波を追放し、下守護代の信友を殺害し、ここに上守護代の信賢が降伏したのですから、ようやく信長の尾張統一が完成したというわけです。

ちなみに、かの浮野の戦いが弘治三年(1557年)で、岩倉落城は永禄元年(1558年)または永禄二年(1559年)とする説もあります。

また、この岩倉城陥落によって死んだとされる信賢ですが、あの山内一豊(かずとよ)の父・盛豊が、この信賢に仕えていた関係からか、一説には、この後も生き長らえ、一豊が土佐(高知県)の領主となってから、土佐にて200石を賜って暮らしていたという話もあります。

Dscn8539a800 見寺・仁王門

ところで、この信賢に追放された父・信安と次男の信家ですが・・・追放された後、斉藤氏を頼って、さらに信長に敵対していた父子でしたが、その斉藤氏が信長に滅ぼされた(8月15日参照>>)ために京都に逃走・・・

その後、同族のよしみから罪を許され、父・信安は安土城郭内に建立された見寺(そうけんじ=摠見寺)住職に・・・

次男の信家は信長の家臣となって働き、なんと!あの前田利家が元服する時には、その烏帽子親(えぼしおや)(元服の歴史参照>>)になったのだとか・・・フムフム、利家の「家」は、信家の家なのね(*^m^)

「諸説あります」とか「一説には…」とかの記述が多い今回のお話ですが、さすがの信長さんも出世前の事に関しては、記録も曖昧・・・という事でお許しをo(_ _)oペコッ

ちなみに、この尾張統一の前後に、信長は初めての上洛を試みていますが、そのお話は昨年の11月1日のページでどうぞ>>
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コメント

尾張統一の時期が諸説あるのは「何をもって統一とみなす」かの差ですか?。経済力では織田一族の中で群を抜いていたようですね。
朝日新聞夕刊に連載中の「青銭大名」では、信長の父・織田信秀の代の尾張の情勢が記述されています。

投稿: えびすこ | 2011年11月 1日 (火) 20時08分

えびすこさん、こんばんは~

やはり、どの史料も決め手に欠けるという感じなのでしょうか…

投稿: 茶々 | 2011年11月 1日 (火) 23時24分

この辺りの織田家の歴史って、信○ばっかり出てくるんで、混乱します。信清・信勝・信賢・信友信秀・信行・信定・長安………、従兄弟だったり兄弟だったり、親子だったり。小説なんか読んでると、頭がこんがらがって来そうなトコです。

投稿: マー坊 | 2011年11月 3日 (木) 07時19分

マー坊さん、こんにちは~

アハッ!
スケートの織田くんも「信」ついてますもんね~

ダチョウ倶楽部のネタで、「合戦の時に、まわりが「義」のつく人ばっかりで大将が混乱する」ってのがありました。
おもしろいです。

投稿: 茶々 | 2011年11月 3日 (木) 15時15分

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