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2011年11月 8日 (火)

万葉集に残された遣新羅使・雪連宅満

 

天平八年(736年)11月8日、遣新羅使として派遣された雪連宅満が、途中に立ち寄った壱岐で亡くなりました。

・・・・・・・・・・・

続日本紀によれば・・・
聖武天皇が天平八年2月、従五位下の阿倍朝臣継麿(あべのあそみつぎまろ)大使、従六位下の大伴宿禰三中(おおとものすくねみなか)副使として、40数人の使節団を遣新羅使として任命し、彼らは6月に難波を出発・・・翌年の天平九年正月に帰国した」
とあります。

今回の、雪連宅満(ゆきのむらじやかまろ・宅麿)という人物は、壱岐(いき・伊伎)島の出身で、卜占を得意とした・・・つまり、外交官というよりは、占い師として遣新羅使に同行したという事でしょうか。

占いといっても、ただ吉凶を漠然と、当たるも八卦当たらぬも八卦で占うのではなく、その日の天候や風を読みながら航海の無事を占い、その先を指導する・・・今で言うところの気象予報士か航海士のような役割だったと思われます。

ところで、この聞きなれない「雪」という姓・・・

それについては、
もともと壱岐で卜占を扱っていたのは壱岐氏である事、
また、宅満の家系が代々に渡って卜占の特技を持っていたであろうと思われる事、
さらに、彼の父である伊伎連古麿(いきのむらじこまろ)なる人物が別の文献に登場する事から、
おそらく、宅満も、本当は壱岐という姓であったであろうと言われています。

それを、新羅の朝廷向けにわかりやすいよう、漢字一文字の姓=雪にしたのであろうというのが、研究者の見方だそうで・・・成龍がジャッキー・チェンみたいなもんか(゚ー゚;

Kentousisen600 とにもかくにも天平八年(736年)6月、多くの人に見送られながら、意気揚々と難波津(なにわづ)を出港した彼ら・・・

とは言え、ここ最近、朝鮮半島一帯に勢力を広げた新羅(しらぎ)と日本とは、少し緊張関係にありました。

そんな中で、有利に外交交渉を進めねばならない責任は、彼らに重く圧し掛かっていた事でしょう。

しかも、現代と違って、その行程も命がけですから・・・

難波を出港した船は、何日もかけて、いくつもの港に立ち寄りながら、瀬戸内海を西へ西へと進みますが、現在の山口県の沖合・周防(すおう)に差し掛かった頃、船を台風が襲います。

一晩中、暴風雨にもてあそばれた彼ら・・・船はところどころ破損したものの、何とか分間(わくま)の浦(大分県)に到着し、ここで、船の修理をする事に・・・

オイオイ!気象予報士の宅満ちゃん・・・思いっきり台風に遭遇して大丈夫かいな?

と思う間もなく、彼らは修理を終えた船とともに筑紫(福岡県)へ・・・

しかし、さらに、何度かのトラブルを踏み越えながらの航海は予定よりも大幅な遅れを産み、何とか志賀の浦(博多湾)へと入った時には、すでに、季節は秋となっていました。

ここで大宰府のおエライさんへの挨拶を済ませ、いよいよ、北へ向かって・・・と行きたいところだったのですが、実は、ここ九州では、この時、天然痘が大流行していたのです。

不運にも、遣新羅使のうちの何人かが天然痘にかかってしまいます。

そう、実は宅満も・・・

それでも、再び船に乗り込んで出航した彼らでしたが、壱岐にたどりついた時、すでに病が重くなっていた宅満・・・懐かしい故郷の風景を見た事で、その緊張の糸がプッツリと切れたのでしょうか・・・

天平八年(736年)11月8日宅満は、ここ壱岐で息をひきとりました。

♪大君の 命恐(みことかしこ)み 大船の
 行きのまにまに 宿りするかも ♪
「命に従って、厳しい日程に振り回されてもた」

この時の遣新羅使たち・・・実は、大使の継麿も天然痘にかかって対馬にて死亡、復使の三中は何とか大役を終えて帰京しますが、彼も途中で感染していて、無事だったメンバーより、かなり遅れての帰還となっています。

しかも、相手の新羅は、これまでの儀礼を無視して、使節との交渉をまったく受け入れなかったのだとか・・・

命がけの航海をして、命がけの交渉に向かった彼ら・・・なのに、実りの無かった遣新羅使たち・・・

しかし、古代の外交官が、その使命を全うすべく挑んだその心意気は、高く評価されるべきでしょう。

そして、もう一つ・・・

先の♪大君の…♪の歌は、あの万葉集に雪連宅満の歌として残されている歌なのですが、万葉集には、その歌に続いて、彼への挽歌が9首、納められています。

天皇や有名人ならともかく、地方の一占い師に9首というのは、異例だと聞きました。

宅満の人となりなど、記録に残るはずもありませんから、どんな人だったのかは想像するしかありませんが、この挽歌の数を見る限り、おそらく、他人に好かれる、とても良い人だった事でしょう。

♪石田野に 宿りする君 家人の
 いづらと我れを 問はばいかに言はむ ♪

♪世間は 常かくのみと 別れぬる
 君にやもとな 我が恋ひ行かむ ♪

ある人は、
「宅ちゃんは、今、どこにおるん?と聞かれたら、何て答えたらええんや?」と問いかけ、
ある人は、
「別れはいつもこういうもんやと言うとったけど、やっぱ、君の事思うとツライねん」と嘆き・・・

♪はしけやし 妻も子どもも 高々に
 待つらむ君や 山隠れぬる  ♪

♪新羅へか 家にか帰る 壱岐の島
 行かむたどきも 思ひかねつも  ♪

「嫁はんと子供が待っとるっちゅーのに、なんで、山になんか隠れるんや!」と怒る人もいれば、
「新羅へ行こか家に戻ろか…これから、どうしたらええんや!」と戸惑う人も・・・

遣唐使は登場しても、ほとんど教科書にも登場しない遣新羅使・・・

しかし、万葉集に残されたこれらの歌は、
その時代に、雪連宅満という人が確かに生きていたという事、
友人の死を見送る者の悲しさが古代の昔から変わらない事を、
1200年の時を越えて、現在の私たちに伝えてくれているのですね。
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コメント

はじめまして、高来郡司と申します。
今回地元長崎県ゆかりの話題ということで、コメントさせていただきます。何分ブログ自体始めたばかりで、コメント自体記念すべき1回目で不慣れなとこもありますが、ご容赦を。
壱岐島には、たしか遣新羅使ゆかりの史跡があったように記憶しています。いずれブログでも壱岐特集を組みたいと考えています。その時は、遣新羅使の史跡も紹介したいと思います。

投稿: 高来郡司 | 2011年11月 8日 (火) 22時17分

高来郡司さん、はじめまして~

コメントありがとうございます。

確か、壱岐には、今回の雪連宅満のお墓があると聞きました。

関西からだと、なかなか行けない場所なので、史跡の写真など、「壱岐特集」楽しみにしています。

投稿: 茶々 | 2011年11月 8日 (火) 23時31分

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