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2011年12月 3日 (土)

ザビエル死して奇跡を残す

 

1552年(天文二十一年)12月03日、日本に初めてキリスト教を伝えたスペイン人宣教師フランシスコ・ザビエルが、中国広東省上川島で病没しました。

・・・・・・・・・・・・

ご存じ、日本に初めてキリスト教を伝えたイエズス会の宣教師:フランシスコ・ザビエル・・・

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ザビエルの生まれたハビエル城を忠実に再現した志摩スペイン村のハビエル博物館

1506年(日本では永正三年)頃、スペインフランスの国境地帯にあるバルク地方貴族の家に生まれたザビエルは、複雑な内戦に翻弄されながらも、19歳でにパリの大学で学び、そこでイエズス会の創設に関わります。

その後、1541年(天文十年)にポルトガルの首都=リスボンを出発しますが、当初の予定としてはインドでの布教活動が主で、日本に来る予定はありませんでした。

しかし、途中、マレー半島のマラッカに滞在していた時にアンジロウ(ヤジローとも)なる日本人に出会った事で、日本に興味を持ち、来日する事となったのです(7月3日参照>>)

鹿児島に上陸を果たしたザビエルは、本来は京へと上り、天皇や将軍に会いたかっのですが、戦乱激しい戦国時代では思うように行かず、豊後(ぶんご・大分県)大友宗麟(そうりん)(8月12日参照>>)をはじめとする九州や、周防(すおう・山口県)大内義隆のもとで布教活動を行い(12月24日の後半部分参照>>)2年3ヶ月の滞在の後、再びインドに帰国しました。

意外に、その滞在期間が短かったのは、上記の通り、戦乱のために日本の全国ネットの王に会う事が出来なかった事とともに、日本人が想像以上に、中国から伝わった仏教や儒教に心酔している事を知って、「まずは中国をキリスト教化せねば!」と思ったようです。

ただ、日本にいる間は、それこそ、彼の行くとこ行くとこ人だかりで大変な人気だったようです。

・・・と言っても、キリスト教人気なのではなく、彼のメガネがお目当て・・・

そう、近視だったザビエルは、未だ日本人が見た事のないメガネをかけていたのです。

人々は、伴天連(バテレン)には眼が4つあり、2つは皆が本来持っている位置にあり、他の2つはそれから少しはずれたところにあって、鏡のように輝き、恐るべき見ものであると思いこんだ」
と、後に日本に訪れたルイス・フロイスが書いているように、とにかく、珍し物好きの日本人がワンサカ集まり、中には、遠く尾張(おわり・愛知県西部)からの見物客もいて、彼の滞在先の周囲は、いつも4~5000の見物人の山だったとか・・・

Franciscusdexabier600 まぁ、あの黒人の弥介さん(2月23日参照>>)の時も、ケガ人が出たくらいですから、日本人って昔から、珍しい物には目が無いんでしょうね。

(ザビエルも、よそゆきの時は、コンタクトなのか?→)

とにもかくにも、未だ、キリスト教布教の土壌が仕上がってないと感じたザビエルは、日本での布教は後輩にバトンタッチする事として去ったわけです。

その後のキリスト教布教については、
【織田信長とキリスト教】(4月8日参照>>)
【切支丹禁止令と戦国日本】(12月23日参照>>)
でご覧下さいo(_ _)o

こうして1552年(天文二十一年)の4月、中国での布教活動を目指して日本を発ったザビエルは、9月に広東(カントン)近くの上川島に上陸しますが、中国へ入るのがなかなか難しかった精神的苦痛から体力が衰え、上陸してわずか2ヶ月余りの11月12日、肺炎で倒れてしまうのです。

その後、快復しないまま、1552年(天文二十一年)12月03日47歳の生涯を閉じたのでした。

この時、彼の周囲にいた中国人信者たちは、「聖人が亡くなると起こる」という奇跡を期していましたが、そのような事は何も起こらず、彼は静かに逝きました。

ところが、その遺体がインドのゴアに運ばれてから奇跡が起こります。

石灰を入れた棺に納められたザビエルの遺体が、なぜか、いつまで経っても腐らなかったのです。

翌年の3月に一般参拝が行われた時には、興奮した女性信者に足の指を噛みちぎられるというハプニングも起こるほどの参拝客で溢れました。

その数年後、ローマのイエズス会本部の命令で、右腕と内臓がローマに送られたという事ですが、その遺骸は、今も、ゴアにある教会に安置されているのだとか・・・

1859年に行われた学術調査の記録によれば、その身長は1m38cmまでに縮んでいたという事です。
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コメント

カトリックの方ってこの手の奇跡?聖人への話が多いですよね。実際はどうなんでしょうね。って批判しているわけでないんですけど。

投稿: minoru | 2011年12月 3日 (土) 18時31分

minoruさん、こんばんは~

無神論者の私は、
身長が138cmになってるって事は、白骨化せずにミイラ化しただけなんじゃ?
と思っちゃいますが、そんな事言ったら怒られますかね?

投稿: 茶々 | 2011年12月 3日 (土) 18時43分

ミイラ化しただけと僕も思いましたけど。聖人って、下手すると偶像化だと思います。有神論者の意見です。

投稿: minoru | 2011年12月 4日 (日) 16時30分

minoruさん、こんにちは~

twitterでも少々つぶやいたんですが、仏教でいうところの仏舎利みたいに、それをいくつかの場所に分散して、祈りの対象とするという事なのでしょうか。

投稿: 茶々 | 2011年12月 4日 (日) 16時52分

ザビエルの右腕の一部を迫害をうけている日本のキリシタンに渡して励まそうとしたのですが、結局実現しなかったそうです。
もし実現していたら、日本でもザビエルの遺体を見ることができたかもしれません。

また、ザビエルのお兄さんの15代目にあたる方が日本で神父として活躍されているそうです。

投稿: ティッキー | 2011年12月 6日 (火) 16時25分

ティッキーさん、こんばんは~

そうですか…お兄さんの子孫の方が…
不思議な縁ですね~

投稿: 茶々 | 2011年12月 6日 (火) 19時01分

日本のカトリックでは、「布教伝道に功有り」と非常に大事にされております。この間、インドでザビエルの遺体が公開された時、私の母は不快感を示しました。(私たち親子は信者です。)ザビエルは、イエズス会を作ったけれど始まりはたったの6人でした(ザビエルとイグナチウス・デ・ロヨラを含めて)。あ、そうそう。去年の大河でおなじみ、高山右近は信者のお手本として(私たち日本の信者は)篤く敬いますが、黒田官兵衛は完全にスルーです。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月14日 (木) 21時57分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

教会にも、高山右近と細川ガラシャの銅像や絵はありますが、黒田官兵衛は無いですね。
だって、シメオンからの如水ですものね。

投稿: 茶々 | 2015年5月15日 (金) 01時55分

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高校生の頃、私の中でザビエルといえば、隠れキリシタンのイメージで、長崎に行っていると思っていた。これはきっと、遠藤周作の「沈黙 (新潮文庫)」の影響だろう。しかしザビエルの日本への上陸は1549年であり、「沈黙 (新潮文庫)」の舞台は1640年ごろ。100年違う。私はで... [続きを読む]

受信: 2011年12月 4日 (日) 21時59分

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