2011年歴史は動いた~歴史の新発見・総まとめ
今年も、残すところ、あとわずか・・・
本日は、今年、気になった歴史ニュースを振り返ってみましょう。
・‥…━━━☆
とは言え、関西在住の私ですので、話題になった場所によっては、知り得ない情報もあり、あくまで個人的な主観による総まとめとなってしまいます事をご了承くださいo(_ _)oペコッ
そんな中で、やはり、最初に出て来るのは、戦国好きの心をくすぐった「信長、平氏にあらず」の見出しが躍った福井県での発見ですね~
2011年11月・・・福井県越前町の法楽寺で、織田信長の先祖とされる親真(ちかざね)を供養した五輪塔が見つかりました。
江戸時代に書かれた『信長記』などによれば、この親真は、平清盛の孫にあたる資盛(すけもり)の子として生まれますが、平家滅亡とともに資盛が亡くなったので、その後、織田氏が神職を務めていた劔神社の養子になったとされ、織田氏の祖と言われる人物です。
なので、信長の姓(かばね)は「平」・・・正式には平信長(たいらののぶなが)となります。
ただし、このお話・・・以前、秀吉が豊臣の姓を賜るところ(12月19日・真ん中あたり参照>>)でもお話させていただいたように、信長は、それ以前に、藤原氏の末裔だと言って、藤原信長を名乗っていた事もあって、かなりアヤシイ・・・
そんな中、今回、福井で発見された五輪塔の側面には
「喪親真阿聖霊(あしょうりょう)正應三年庚刀(かのえとら)二月二十九日未剋」
と、親真が正応三年(1290年)2月29日に亡くなったと刻まれています。
上記の通り、通説では資盛は、壇ノ浦の合戦(2008年3月24日参照>>)で亡くなっていますので、その子供である平親真(たいらのちかざね)なら、少なくとも、その年には生まれていた事になるわけで、そこから計算すると、最低でも105歳くらいまで生きた事になり、当時としては、考え難い長寿という事になってしまうわけです。
・・・で、一般的に考えれば、清盛の孫である平親真と、信長の祖とされるお墓の主=織田親真は別人となるわけで、理論的には「信長は、平氏にあらず」となるわけです。
ただし、以前書かせていただいたように、この資盛には、別働隊の大将となって、あの安徳天皇を守って逃げたという生存伝説があり(2010年3月24日参照>>)、もし、その伝説が本当なら、壇ノ浦当時は、まだ25歳の若者だった資盛さんですから、息子の親真は、もっともっと後に生まれている可能性もあるわけで・・・
こうなると、源平&戦国を巻き込んだ壮大なロマン・・・更なる発見に期待したいところです。
また、同じ11月に、もう一つ、これまでの定説をくつがえす発見がありました。
それは、奈良の平城宮跡(2月15日参照>>)の朱雀門から南東約1kmほどの所にある県営プールの跡地の発掘調査で見つかった物ですが、それほど広くない場所に、ほぼ4㎡四方に区切られた10棟分の住居跡とともに、7つの井戸跡が発見されたのです。
井戸から出土した土器の年代や、建物の構造から推測すると、それは、奈良時代後半の下級役人の住居跡と考えられ、当時は、ここに、下級役人の住居が密集して建っていたと思われます。
しかも、そこは、それ以前にも、それ以後の時代も、何の痕跡も見つからず、それまでは空き地だった場所に、奈良時代後半に住居を建てたものの、平安遷都後には、そのまま、忘れ去られた存在となった場所である事もわかりました。
・・・で、何が定説をくつがえす発見なのか?と言いますと・・・
今回、下級役人の住居と思われる場所が、あの長屋王(ながやのおう)(2月12日参照>>)の住居跡から南東約300m、藤原仲麻呂(9月11日参照>>)の住居跡から北へ約150mという近さにある事・・・
つまり、これまでは、当時の権力者である長屋王や仲麻呂の邸宅があった事から、そのへん一帯は、平城京の一等地であったと考えられていたわけですが、その中間に位置する場所に、下級役人の、それこそ長屋のような住居があったという事・・・
発掘を担当された橿原考古学研究所によれば・・・
「このあたりは佐保川に近くて水はけも悪く、洪水の心配もあったので、奈良時代前半には、建物が建てられる事が無かったものの、奈良時代後半には人口が増加したため、やむなく、下級役人の住居地として造営されたのではないか?」
との事・・・
つまり、これまで、奈良の都の一等地とされて来た場所は、「そうでは無かった(かも?)」って事なのですね。
こちらも、更なる調査が楽しみです。
また、つい2~3日前には、大阪城の山里丸(くわしい場所は本家HPでご確認ください>>)から、巨大な排水システムが発見されたというニュースも飛び込んで来ましたね~
これは、雨水などを一旦、排水溝に溜めて、泥やゴミを沈殿させた後、上澄みの水だけを排水溝から流して内堀の水が汚れないように工夫された石組で、これまで、大阪城で発見された排水溝の中でも最大規模の物でした。
いやはや、あれだけ発掘調査が行われている平城宮跡や大阪城でも、まだまだ新発見があるのですから、まさに、歴史は日々書き換えられている・・・って事ですね。
このブログも、来年は6周年を迎えます。
たまに、思い返して昔のページを見ると、書いた本人が「ありゃりゃ…( ̄○ ̄;)!」と思う事もしばしば・・・そのンところは、読んでくださっている皆様方に「コイツも日々書き換えられているのだ」と大目に見ていただくとして、来年も「今日は何の日?徒然日記」をご愛好のほど・・・o(_ _)oペコッ
それでは、まだまだ書き足りない今年の新発見はたくさんあるのですが、ページの領域も限りある事ですし、本年はこのへんで・・・
皆様、良いお年をお迎えくださいm(_ _)m
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初めまして茶々様。いつも楽しく記事を拝読させて頂いております。知らなかった歴史人物や逸話を知る事が出来、大変勉学になります。
今回のアンケートですが、私はその他で毛利隆元に一票を。毛利元就の嫡男として生まれた彼ですが、父の元就や二人の弟達に比べると一般認識度が低く思われます。残っている資料などを見ても父や弟達程の華々しい業績は記されてはいません。知名度なら息子の輝元の方があるようにすら感じられます。
そんな地味な印象の隆元ですが、財政の手腕はなかなかのもので、彼の死後毛利家の財政は傾いて元就は資金を工面するのに大層苦労したとか。また、この隆元の死が他家に養子に行った弟二人に「俺達が輝元を補佐して毛利本家を盛り立てねば!」と一念発起させ、有名な「毛利両川」の働きの原動力になったと言っても過言ではないはず。毛利家を語る上で隆元が果たした役割や存在は決して小さくないと思います。なので、もっと評価されてもいいのでは……と個人的に思っています。
歴史に「if 」は禁物ですが、もし隆元が死なずにもっと長生きしていたら関ヶ原での毛利の領地大幅削減はなかったのかなーと。せめて輝元が成人するまでは生きてて欲しかったです。
これからも茶々様のブログでのお話、楽しみにしています。長々とすいませんでした。この辺で失礼しますm(_ _)m(詩音)