日本初の女帝・推古天皇の誕生
崇峻天皇五年(592年)12月8日、敏達天皇の皇后だった額田部皇女(豐御食炊屋姫)が初の女帝として即位・・・第33代天皇・推古天皇となりました。
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ご存じ、第33代・推古(すいこ)天皇は、日本史上初の女帝です。
上記の通り、天皇になる前は額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)ですが、今日は、ずっと推古天皇と呼ばせていただきます。
ただ、これまでも、第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の奥さん・神功(じんぐう)皇后(9月6日参照>>)や、第22代清寧(せいねい)天皇の死後に政務を取ったとされる履中(りちゅう)天皇の皇女(もしくは孫)の飯豊(いいとよ)皇女など、おそらくは天皇と同じ位置にいたであろう女性はいましたが、記紀が正式に天皇と位置付けている女性は、この推古天皇が最初です。
そこには、神宮&飯豊の二人の彼女たちの場合には、即位礼などの儀式を通過しているか?などの問題とともに、万系一世・男系男子の原則上、女性が天皇になる事は異例であり、女帝とするには、なかなか難しい問題であったのでしょう。
しかし、推古天皇は女帝となりました。
そこには、もはや、そうするしか無かった何かの事情があったようにも思えますね。
それは、この推古天皇の後の約180年間に誕生する15代の天皇のうちで半数以上・・・皇極(斉明)・持統・元明・元正・孝謙(称徳)という5人=8代の女帝が誕生していて、この間を「女帝の世紀」と呼ばれる事でも察しがつきます。
なんせ、その後は、江戸時代に、第109代・明正天皇(11月10日参照>>)と、第117代・後桜町天皇(11月2日参照>>)の二人だけなのですから・・・(まぁ、このお二人の即位も異例ですが…)
今も言われている女帝誕生の理由としては、やはり、男子の皇位継承が難しい時に、その「中つぎ」として女性天皇を担ぎ出したという物・・・
ただ、すでに先例がある後半の女帝たちはともかく、日本初となる推古天皇の場合は、おそらく、そこに強大な力が関与していたはず・・・それは、とりもなおさず、あの蘇我氏です。
以前、推古天皇・崩御のページ(3月7日参照>>)や、蘇我VS物部の最終抗争の発端となる穴穂部皇子(あなほべのおうじ)の事件のページ(6月7日参照>>)でも書かせていただいているので、話がだだかぶりですが、そもそも、推古天皇・誕生の経緯となる出来事は、彼女の夫である第30代・敏達(びたつ)天皇の崩御にともなう後継者争いから始まります。
ややこしいので、まずは、例の系図を表示しますが・・・
クリックすると大きく見られます(ややこしくなるだけなので、あまり関係のない人物は表示してません)
ご覧の通り、一連の皇位継承に関連する、敏達天皇・用明天皇・穴穂部皇子・崇峻天皇、そして、推古天皇・・・この5人は全員、欽明天皇の子供・・・つまり兄弟です。
兄弟でも母親が別人なら結婚の対象となった時代・・・いや、むしろ、そうして特別な血統を印象づけていた時代ですので、敏達天皇と推古天皇は兄妹で結婚してます。
・・・で、ここに出て来る欽明天皇の奥さんのうち、小姉君(おあねのきみ)と堅塩姫(きたしひめ)の二人は、ともに蘇我稲目(そがのいなめ)の娘で、石姫(いしひめ)皇女という女性だけが、第28代・宣化(せんか)天皇の皇女となります。
・・・で、敏達天皇が亡くなった時、その後継者として最初に名乗りを挙げたのが穴穂部皇子だったわけですが、半ば脅しにも似た勢いで後継者宣言します。
この時代、まずは、先帝の兄弟の間で継承し、それが一通り行きわたったところで次世代(その息子たち)へバトンタッチというのが、一般的な皇位継承でしたし、上記の通り、穴穂部皇子は、蘇我氏の血を引いてますので、名乗りを挙げなくとも、おそらくは、順番に回ってきたと思うわけですが、なぜか、この人のバックについていたのは物部氏・・・
で、結局、次の天皇になったのは、欽明天皇の第4皇子で最年長だった用明天皇・・・順当な皇位継承ですが、すでに手を挙げちゃってる穴穂部皇子としては不満ムンムン・・・
怒った穴穂部皇子は、例の敏達天皇の殯(もがり:本葬前の期間の仮安置場所)宮に押し込んで、推古天皇に暴行を働くという事件を起こし、これを蘇我馬子が始末し、さらに彼を支援していた物部氏も抹殺したわけです。
この間に亡くなった用明天皇の後を継いだのが、第32代崇峻(すしゅん)天皇・・・この方は、その穴穂部皇子の弟ですが、一連の出来事にはまったく関与していなかったので、まぁ、蘇我氏の血も引いてますし、兄貴が殺されるまでになってるのに、まったく関与してないってトコに、むしろ、政治に口出しする事も無いんじゃないか?って蘇我氏も思ったんでしょうかねぇ。
ところが、その崇峻天皇も、やがては蘇我氏に刃向かうようになって、結局、崇峻五年(592年)11月3日、馬子によって暗殺されてしまうのです(11月3日参照>>)。
さぁ、困った・・・ここで、敏達天皇の子供たちの中で生きてるのは推古天皇だけ・・・
そうなると男系男子の次世代へ・・・となるのが通常の皇位継承なわけですが、この時点での次世代は、敏達天皇の息子である押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのおうじ)、難波皇子(なにわのおうじ)、春日皇子(かすがのおうじ)、そして推古天皇が産んだ竹田皇子(たけだのおうじ)、さらに用明天皇の息子である、ご存じ聖徳太子こと厩戸皇子(うまやどのおうじ)の5人となります。
しかし、その中で、彦人大兄皇子・難波皇子・春日皇子の3名は、蘇我氏の血を引いてない・・・物部氏を倒して、もはや敵無しとなった蘇我氏が、他の豪族の娘が産んだ皇子を天皇にしたくはないですもんね。
となると、蘇我氏の血を引いてるのは竹田皇子と聖徳太子ですが、母の推古天皇としては、おそらく我が子に継がせたい!
しかし、この時点での竹田皇子は未だ皇位につけないほどの幼少だった・・・(生没年が不明のため曖昧ですが、そう言われています)
かと言って、穴穂部皇子&崇峻天皇を蘇我氏みんなで暗殺しちゃった今、彼らと同父母兄弟である穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ)を母に持つ聖徳太子を皇位につかせる事には難色があった・・・
で、どうしようもなくなって、「竹田皇子が成長するまで」の中つぎとして崇峻天皇五年(592年)12月8日、初の女帝・推古天皇となったわけです。
ただ、残念ながら、推古天皇は竹田皇子にバトンタッチする事はできませんでしたが・・・
上記の通り、竹田皇子の生没年は不明なのですが、推古天皇が亡くなる時、その遺言として、「(自らの遺骸を)竹田皇子と合葬してほしい」と願っている・・・つまり、その時点で、すでに竹田皇子は亡くなっていたという事になりますから・・・
こうして、日本初の女帝の中つぎは、不成功に終わりましたが、以後、立て続けに誕生する女帝の先例となった事は確かでしょう。
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コメント
推古天皇は時期を見て退位する意向だったんでしょうか?
竹田皇子に先立たれなければ、その後の天皇家の歴史も変わったでしょうね。最初に退位した天皇は皇極天皇ですね。
奈良時代(古代)最後の女性天皇の、孝謙改め称徳天皇の後継でもやはりもめていますね。
投稿: えびすこ | 2011年12月 9日 (金) 10時53分
改めてみると、かなり混沌としていますね。
特によく分らないのが下の三つ。
1.
>なぜか、この人のバックについていたのは物部氏・・・
今更ながら驚いています。ナニコレ?一族なのに?
2.
>一連の出来事にはまったく関与していなかったので、
>崇峻天皇も、やがては蘇我氏に刃向かうようになって、
ナゼ!? ふたつが繋がらないような気がします。
3.
>聖徳太子を皇位につかせる事には難色があった・・・
皇太子にはなりましたよね?馬子と仲良かったんじゃ?
まったく統一感の無い、後付っぽいことばかりですね。
真相は分かりませんが、捏造が疑われるわけだ。
投稿: ことかね | 2011年12月 9日 (金) 17時48分
えびすこさん、こんばんは~
やはり女帝の時は、その後継者についてイロイロもめますね~
他の方は皇后だった事もあって、もし実子がいたなら、すんなり継げるでしょうが、孝謙改め称徳天皇の場合は、それもダメですから、特に大変だったでしょう。
投稿: 茶々 | 2011年12月 9日 (金) 18時08分
ことかねさん、こんばんは~
ご指摘通りです。
個人的見解を入れてばかりだと、トンデモ説っぽい物ばかりになるので、今回は、記紀の記述通りの一般的な見方をしてみましたが、つじつまが合ってない事がたくさんあります。
私、個人の考えでは、この時期は、蘇我王国真っただ中ではなかったか?と思います。
しかし、万世一系を貫くためには、あくまで政権は天皇家にあり、蘇我氏はサポートという事にしたかった…プラス、(記紀誕生当時に)持統天皇が文武天皇に皇位継承する事を踏まえて、推古天皇のくだりを何となく、それに似たような感じにした気がしないでもないです。
投稿: 茶々 | 2011年12月 9日 (金) 18時19分