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2011年12月 7日 (水)

意外にアタフタ?王政復古・前々夜の岩倉の手紙

 

慶応三年(1867年)12月7日、岩倉具視が大久保利通に宛て、手紙を書いています。

・・・・・・・・・・

慶応三年(1867年)12月7日付けの岩倉具視(ともみ)手紙・・・

Iwakuratomomi400 「昨夜ハ長座種々申承り忝存候扨ハ九ノ事実ニ苦心候得とも九ナラデハ如何ニも不被行次第ニ至り扨々ニ遺憾千万ニ候得とも右不悪ら御承引可給候様両卿より被示候小子ニも実ニ残心候得とも右之仕合此上ハ九ニ万ニ決定之事ニ候御同志何レも態々御伝可給候也十二七
第八十九号   大久保殿 対 」

そんなに長くない手紙なので、とりあえず、全文を書いてみましたが・・・最後の「十二七」これが日づけですね。

ほんで以って、その内容は・・・

「昨日は長い事ありがとう。
ただ、になるのは、ホンマ心苦しいねんけど、“九でないとでけへん”て言わはるよって、遺憾やねんけど承知してほしいんやわ。
僕も残念やねんけど、もう、って事に決定したんで、君の同志のみんなにも伝えといてくれるかな」

てな感じです。

・・・で、何が「九」に決定したのか???

実は、コレ、あの歴史に残る王政復古の大号令の決行日の変更を、岩倉が大久保利通(としみち)に伝えている手紙なのです。

以前、
慶応三年(1867年)10月14日に成された大政奉還(10月14日参照>>)の前日の13日に薩摩藩主・島津忠義(ただよし・茂久)とその父の久光(ひさみつ)に、同じく14日に長州藩主・毛利敬親(たかちか)元徳(もとのり・定広)父子に、「討幕の密勅(みっちょく:秘密の天皇の命令書)がくだされた事をご紹介しました(10月13日参照>>)

それらのページでも書かせていただいたように、そもそも大政奉還とは、徳川幕府が政治の実権を朝廷に返上するという事・・・文字通り、政権のトップが天皇になるわけですが、徳川幕府の態勢は、その下に現体制のまま存続し、各藩主を代表とする議会のような物を最高位の天皇の下に置いて政治を行う・・・

つまり、大政奉還は幕府の生き残り作戦だったわけです。

しかし、朝廷や薩長が考えていたのは、幕府そのものをぶっ潰して、天皇を頂点に、まったく新しい政治体制にする事だったわけですが、そうして、すんなりと大政奉還されてしまっては、幕府を倒す大義名分が無くなってしまう・・・

そこで、大政奉還される前に、慌てて出したのが、前日と当日の「討幕の密勅」だったのです。

まさに、幕末って、毎日のように歴史が動くんだなぁ・・・と痛感させられる出来事だったわけですが、今回も・・・まさに、その前日に予定変更というスゴさに、ちょっと興味津々です。

・・・で、上記のように、平和的にすんなりと大政奉還されてしまって、幕府をぶっ潰せない事になってしまった薩長・・・

そこで、朝廷と薩長のパイプ役となっていた岩倉は、大久保らとともに、王政復古の大号令を発する事を計画します。

これは、朝廷の朝の会議で明治天皇王政復古の大号令をかけてもらい、その大号令によって、総裁に就任した有栖川宮熾仁親王(ありすがわのみやたるひとしんのう)のもと、幕府側の人間をすべて排除した会議を開き、そこで、第15代将軍・徳川慶喜(よしのぶ)に対する徳川家の所領の返上、征夷大将軍職と内大臣の冠位の剥奪、一大名への格下げ・・・などを決定してしまうという、一大クーデター計画だったわけです。

ただ、この計画を立てた時点では、決行日は12月8日と決定していたのです。

最初の段階では、土佐の後藤象二郎からの延期の要請もありましたが、「朝廷が8日でないとダメって言ってるので」突っぱねて、8日に決めました。

ところがトッコイ、今度は、間際になって朝廷との交渉に当たっていた中山忠能(ただやす)「9日でないと朝廷の都合がつかない」と言ってきたのです。

しかし、もはや、気持ちが8日なってる大久保や西郷隆盛は、「8日でないと…」という主張を崩さず・・・岩倉さん、間に入ってかなり気を使ったみたいです。

・・・で、結局、大モメの末、朝廷の要望を聞かないわけには・・・と、最終的に9日に決定された事を大久保さんに知らせて、「すまんけど・・・」と、相手を怒らせないように気を使いながらの、冒頭の手紙というわけです。

めまぐるしく情勢が変わる幕末・・・ドラマでは、凛とした雰囲気で、堂々と事をこなす歴史上の人物たちですが、ウラでは結構アタフタしていたのかと思うと、そこに人間味を感じて、なにやら親しみを感じる次第です。

こうして慶応三年(1867年)12月9日、“王政復古の大号令”が発せられます(12月9日参照>>)
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コメント

なんだか身に覚えが...
分かります、岩倉さん。(ノд・。)

投稿: ことかね | 2011年12月 8日 (木) 12時10分

有能な人ほど心配性ってのがありますよ。表面は大物然としていても、実は細心。1日くらいどうってことなさそうですけど、そうは思わない人たちだから、維新回天の業ができたのでしょうね。

実社会でも一緒です。
「大河」ドラマもそういう二重性を描くと面白くて、タメになるのですけれどね。

投稿: レッドバロン | 2011年12月 8日 (木) 15時23分

ことかねさん、こんばんは~

ありますね~今も…

「専務がおっしゃるのでA案で…」
「社長がおっしゃるのでB案で…」
言われた部下はどうして良いやら…ですね。

投稿: 茶々 | 2011年12月 8日 (木) 18時58分

レッドバロンさん、こんばんは~

>「大河」ドラマも…

おっしゃる通りです。
あまり知られていなくて、「本当にこんな事あったの?」と驚くような事が史実として記録されてたりします。

そういう所を描いてほしいですね~

投稿: 茶々 | 2011年12月 8日 (木) 19時01分

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