真田昌幸&幸村・高野山へ…
慶長五年(1600年)12月13日、徳川家康から配流処分を受けた真田昌幸・幸村父子が、16人の家臣と妻子を連れ、信濃上田から高野山へ向かいました。
・・・・・・・・・
ご存じ真田昌幸・幸村父子・・・
亡き豊臣秀吉に、その後の事を託された(8月9日参照>>)徳川家康が、「上杉に謀反の疑いあり」(4月1日参照>>)として、諸将に声をかけて決行した会津征伐・・・
これは、家康が豊臣家臣のトップとして行っている征伐なわけですから、当然、当時は秀吉の配下であった真田昌幸と、その長男の信幸(後に信之に改名)と次男の幸村(信繁)も出陣する事になるわけですが、そんな彼ら父子が、あの石田三成からの書状を受け取ったのが慶長五年(1600年)7月21日の犬伏(いぬぶし・栃木県佐野市)での事・・・
協議の末、長男・信幸は、そのまま予定通り、会津征伐の先陣として進んでいた家康の三男・徳川秀忠の陣へと向かい、父・昌幸と次男・幸村は、会津征伐を取りやめて、居城の上田城(長野県上田市)へと戻ったのです。(7月21日参照>>)
かくして、兄は東軍となり、父と弟は西軍となったわけですが、ご存じのように、この間に家康配下の鳥居元忠が守る伏見城を攻撃した三成・・・(7月19日参照>>)
それを知った家康が、会津征伐を取りやめて西へとUターン・・・自らは東海道を通って(8月11日参照>>)、息子の秀忠は中山道を通って、それぞれ、畿内へと急いだのですが、この時、中山道を行く秀忠の道筋にあったのが、真田の上田城だったわけです。
ところが秀忠は、講和すると見せかけてゲリラ戦法を仕掛ける昌幸のスゴ技に翻弄され(2010年9月7日参照>>)、38000もの大軍を擁しながら、わずか2500の手勢の上田城を5日かかっても落とす事ができず、肝心要の関ヶ原に間に合わないという失態を起こしてしまいます(2011年9月7日参照>>)。
つまり、この上田城の戦いに関しては、昌幸&幸村父子の勝利・・・という事になります。
しかし、本番の関ヶ原で勝利したのは家康・・・敗者である三成についた昌幸と幸村には、当然、厳しい処分が待っていたわけです。
まして、家康は以前にも、この上田城攻めで、昌幸に痛い目に遭わされていた(8月2日参照>>)わけで、本来なら、死罪も免れないところ・・・
そこを踏ん張ったのが、東軍についた兄・信幸と、その奥さんの小松姫(7月25日参照>>)・・・さらに、その小松姫の父である本多忠勝も協力して助命嘆願に奔走・・・
おかげで、命取られる事は無く、高野山(和歌山県伊都郡)への配流と決定・・・昌幸の所領は、そっくりそのまま信幸が引き継ぐ事になりました。
昌幸:53歳、幸村:34歳・・・こうして、慶長五年(1600年)12月13日、16人の家臣と妻子を連れ、昌幸・幸村父子は高野山へと向かったのです。
父子の身は、しばらく、高野山蓮華定院(れんげじょういん)に預けられました。
ここは、古くから佐久(さく)や小県(ちいさがた)の武将たちの多くが檀家となっているお寺で、真田家とのゆかりが深かく、後に、彼らが九度山に移ってからも、何かと助力していて、現在も、このお寺には、幸村の書状などが残されています。
それらによれば、ここでの父子の生活費の大半は、信之の援助頼み・・・常に連絡を密にとって、何かあれば、すぐに信之が援助して・・・という感じだったようです。
とは言え、長く続く山暮らしは、何かと不自由・・・
最初こそ
「今度、家康が江戸へ行くって聞いたけど、ひょっとしたら、その江戸で、本多正信が僕らの赦免の事を家康に話してくれるかもしれん。解放されたら、会うで話したいですね」
と兄の菩提寺だった長野の信綱寺へ元気そうな手紙を送ってますが、
配流から1~2年後には、
「年のせいか、最近は気持ちも滅入ってるわ。。。こっちの生活を察してください」
と、ちょっとばかり寂しそう・・・
また、幸村が慶長十七年(1612年)頃から名乗っていたとされる「好白」という名前が書かれた信之の家臣宛てと思われる書状には・・・
「この壺に焼酎を入れてもらいたいです。
今、切らしてるんやったら、ついでの時にでもお願いします・・・
知らせがあり次第、取りに参ります。
また、つまらん物ですが、湯帷子(ゆかたびら=浴衣)1領、差し上げますよって、
焼酎の件、よろしくお願いします。
他にも、何かあればいただきたいですが、くわしい事は、手紙を持参する使いの者が言うと思います」
と・・・なんか切ない(ノ_-。)
他にも、流人暮らしなれど、高野山の山内なら比較的自由に行動ができていた事がうかがえる書状もありますが、やはり、金銭面では、苦労していたのでしょうね。
少々寂しい晩年となった昌幸は、慶長十六年(1611年)6月4日、ここ九度山で、65年に渡る波乱の生涯を終えました。
それから3年・・・九度山に蟄居してから14年めの秋・・・もはや48歳の初老となった幸村のもとに、秀吉の遺児・豊臣秀頼からの書状が届くのです。
そう、大坂の陣への参戦依頼です。
豊臣への忠誠心?
それとも、こんな生活へと追いやった家康への恨み?
もちろん、この時の幸村の心情は、幸村本人にしかわかりませんが、個人的な妄想を許していただくならば、おそらくは、「自らの運命を変える絶好の機会だ」と、幸村は感じたのだろうと思います。
その時々の政情によって、武田・北条・徳川・上杉・豊臣と、次々と主君を変えて自らの領地を守り抜いて来た父・昌幸を見ていた幸村なら、今更、「豊臣への忠誠」なんて事よりも、自分自身が歴史の表舞台に立てる大チャンスだと思ったに違いないと思うのです。
最近の小説やドラマなどでは、もっと以前から幸村が重用視され、父や兄はほとんど出て来やしませんが、それは、この後の大坂の陣で大活躍する事がわかっている現代のドラマだからで、実際には、この時の幸村は、ほぼ無名の状態・・・
これまでの戦いの誉れは、すべて父・昌幸の物であって、周囲から見れば、幸村はそれを手伝っただけ・・・それこそ、秀頼からの手紙がここに届くのも、真田昌幸というブランドありきの話だったわけです。
「自分も父のように大名となり、豊臣政権の家臣として高禄を得る!」
それこそが、幸村の大坂の陣参戦理由だったような気がします。
秀頼の出陣依頼を受けて、息子・大助(幸昌)とともに、幸村が九度山を脱出するのは、慶長十九年(1614年)10月9日の事でした(10月9日参照>>)。
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コメント
NHK『真田太平記』の、『草刈・幸村』が最高でした^^
あのあと、あんまりカッコいい幸村さん見てない(笑)
『ケ様の時に父子引分れ候も 家の為には能事も有べし』
『犬伏の別れ』といわれるあのシーンは、今でも胸に焼き付いています。
先週、初冬の上田城に行って来ました。 なんだか切なかったです。。。
投稿: 真田丸 | 2011年12月13日 (火) 13時46分
真田昌幸の息子という以外、無名だった幸村。流配の地で空しく朽ち果てるところを、大坂の陣で「日本一の兵」と称えられ、満足であったでしょう。
わが祖の隊も 最終局面では真田隊の寄騎として戦ったようです。
投稿: レッドバロン | 2011年12月13日 (火) 17時06分
真田丸さん、こんばんは~
>初冬の上田城…
いいですね~
上田城は見晴らしが良く、雪の時にはいっそう輝いて見えると聞きました。
行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2011年12月13日 (火) 17時56分
レッドバロンさん、こんばんは~
>流配の地で空しく朽ち果てるところを、大坂の陣で「日本一の兵」と称えられ、満足であったでしょう。
ホントですね。
私としては、一般的に言われている(大坂方には浪人しか集まらなかった)ような無かったと考えています。
それこそ、徳川家が後にねつ造した歴史であって、実際には、もっと多くの大名が関ヶ原と同様に、どっちが勝っても生き残れるように、大坂方にも誰かを派遣していたように思います。
幸村としては、もし大坂方が勝って豊臣政権下で大名になれた時には、今度は、自分が兄・信之を支援して真田家を盛り上げて…と考えていたのかな?と。
投稿: 茶々 | 2011年12月13日 (火) 18時07分
私も真田太平記が記憶に残ってる口ですね~。
幸村以外も、丹波哲郎の昌幸、渡瀬徹也の信幸、榎木孝明の腹違いの弟である樋口角兵衛、遥くららのくノ一お香など、配役が良かった。話も、偉大な親父や分家として一家を興した兄と比べてまだ名を成していない幸村の苦悩や、九度山での鬱屈など、とても上手く描けていました。
なので、私も自分の名を世に刻みたかった、という理由に大賛成です。まあ、豊臣に義理立てする理由ないですしね。
投稿: おみ | 2011年12月15日 (木) 10時21分
おみさん、こんにちは~
やはり、以前の大河は、しっかり描かれていたんですね~
いつから、あんなに「幸村推し」になったんでしょうか?
真田が主役でないと、お兄ちゃんはスポット当たらないのかしらん
投稿: 茶々 | 2011年12月15日 (木) 11時35分
私も一応真田太平記読みました。信幸が主人公ときいたので(o^-^o)
今年の六月ごろに読んだのですが、十代前半が読むには難しかったです\(;゚∇゚)/
また数年後に読んだらもっとおもしろく、深く理解できるかなと思います。
幸村が大坂の陣で活躍できたのもお兄ちゃんの存在あってですから、お兄ちゃんのことも知られてほしいです。
ところで、浴衣と焼酎では浴衣のほうが安いのですかね?
現代的な考えだと焼酎のほうが安そうな気がします。
投稿: ティッキー | 2011年12月15日 (木) 20時11分
ティッキーさん、こんばんは~
ホント、「お兄ちゃんにスポットを…」ですね。
>浴衣と焼酎
う~ん…マジメに考えたら、反物を自分たちで作って、自分たちで縫ってなので、「人件費がいらないぶん安かった」って事なのでは?
逆に、焼酎を入れる「この壺」というのが、造り酒屋サイズ(ハシゴに乗って混ぜる)の大きさだったとか
↑これは冗談ですが…
投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 01時43分
何故、真田信之は日陰の身なのか?
その理由は、関ヶ原で負けた大名と比べて、幕府から重用されなかったためでしょう。
研究家の中には、実紀に信之がよく書かれているので、幕府から重用されたと主張していますが、実紀が編纂された頃と重なるほんの数年、家康の子孫にあたる真田の殿様が、老中を勤めていたため、実紀の内容は鵜呑みに出来ません。
関ヶ原で負けた大名の一人に、立花宗茂がいますが、この人と比べて大名サロンでは、信之が活躍していないので、某小説と実物は違うと思います。
投稿: 匿名 | 2012年3月 6日 (火) 21時58分
匿名さん、こんばんは~
私は、小説をまったく読まないので、小説の世界で信之さんが、どのように描かれているのかは知りませんが、
なんだかんだで真田家が残ったのは信之あればこそ…
なのに、最近のドラマではまるで、いなかったかのような扱いをされるので、ちょっとお気の毒かなと…
真実は未だ研究の余地ありですね。
なんせ、専門家でも意見が分かれるのですから…
投稿: 茶々 | 2012年3月 6日 (火) 23時43分
関ヶ原の戦いが終わった後に、九度山へ幽閉されることになった真田昌幸&信繁(幸村)親子は、徳川家康にとって、生き地獄を味あわせてやりたいほど、許せない存在だったのでしょう。特に昌幸は、豊臣秀吉からは「表裏比興の者」と評されたほどの武将ですから、黒田官兵衛(孝高ともいう)以上の危険人物だったのかもしれません。しかし、真田家は、真田信幸(後に、信之に改名)を含めて、文武両道に優れた人々が多いという印象を、強く感じた気がしますね。
投稿: トト | 2016年9月20日 (火) 10時57分
トトさん、こんばんは~
>徳川家康にとって、生き地獄を味あわせてやりたいほど許せない存在だった…
先日の「真田丸」での家康のセリフでも、そんな感じの事言ってましたね。
私個人的には「許せない」というよりは、「怖かった」じゃないのかな?…なんて思ったりします。
なんせ、後の大坂の陣の時に、「真田が大坂城に入った」という報告を聞いて、「父か?次男か?」と喰い入るように尋ね、「息子です」と聞いてホッとした顔をしたと伝えられていますからね。
昌幸が怖かったんじゃないかと…
投稿: 茶々 | 2016年9月21日 (水) 01時20分