「島津の背進」の生き残り・中馬大蔵重方
寛永十二年(1635年)12月18日、関ヶ原の戦いで、主君・島津義弘を守り抜いた薩摩藩士・中馬重方が70歳でこの世を去りました。
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日置郡市来郷(鹿児島県いちき串木野市)に生まれた中馬大蔵重方(ちゅうまんおおくらしげかた)は、その市来郷の地頭であった比志島国貞(ひしじまくにさだ)の配下として15歳で初陣を飾った後、いくつかの合戦に参戦したりしますが、そのうち、国貞とな仲がうまく行かなくなり、知行と屋敷を没収されて蟄居(謹慎処分)されられてしまいました。
しかし、例の、あの豊臣秀吉の朝鮮出兵(4月13日参照>>)で、兵士としてかり出され、文禄の役や慶長の役で活躍した事で、薩摩(鹿児島県)の殿さま=島津義久・義弘の目に止まります。
ここで、通称を与八郎から大蔵に変えるとともに、出水郷(鹿児島県出水市)へ移住し、肥後(熊本県)との国境を守る事になります。
やがて訪れた関ヶ原の合戦・・・この時、畿内にいて、その対処に当たっていたのは弟の義弘で、兄の義久は国主として薩摩にいました。
いよいよ合戦となる時、義弘は国元に軍の派遣を要請しますが、義久は、その要請を無視・・・「(内戦もあったので)島津は、この戦いに参戦しない」というのが、義久の考えだったのです。
しかし、実際に畿内にいる義弘は、さすがに、真横で日和見するわけにはいかず・・・かと言って、今、彼の手元にいるのは、わずか200人余りの兵だけ・・・
仕方なく、義弘は、自力で、個人参加の兵をかき集めます。
一方、この時、かの出水郷で農作業をしていた重方・・・何やら、馬を走らせて、周囲に叫んでいる者がいます。
呼びとめて、話の内容を聞いてみると・・・
「義弘様が、上方で兵が集まらず、ご苦労しておられるそうや」
と言います。
「すわっ!」
と、横にあった刀と槍を持ち、鎧櫃(よろいびつ・鎧の入った入れ物)を背負って、一目さんに駆けだします。
そう、彼は、農作業の間にも、いつ何時、何が起きても、すぐに出陣できるように準備していたのです。
それこそ、自宅にも立ち寄らず、そのまま、一路、関ヶ原へ・・・九州路から山陽道を駆け上り、13日間で関ヶ原に到着し、何とか合戦に間に合いました。
合戦の2日前には、義弘の家老・長寿院盛淳(ちょうじゅいんもりあつ)も、70名の兵を引き連れて到着・・・彼もまた、義弘の一大事を聞きつけて、昼夜かまわず馬を飛ばしてやって来たのでした。
そんなこんなで、何とか、義弘の軍勢も、約1500人ほどの兵力となりました。
こうして迎えた関ヶ原の合戦・・・しかし、以前から何度か書いております通り、義弘は、現地にて陣を敷いたものの、戦いには参戦しませんでした。
・・・というのも、もともと島津は、徳川家康と誓詞を交わしてる仲で、開戦前に、まだ伏見城にいた家康の元を訪問した義弘は、その時、家康から「自分は、これから会津征伐に向かうので、伏見城の留守を頼む」と言われていたわけで、義弘としては、今回の戦いには東軍で参戦するつもりで、関ヶ原の直前には、家康が留守となった伏見城へ赴くのですが、この時、伏見城の留守を預かっていた鳥居元忠に入城を断わられ、その後、大坂城に滞在していた時に、あの石田三成が、その伏見城を攻撃したために、その意に反して、西軍として現地に赴く事になってしまったのです。
しかし、開戦後、ほどなく、西軍の敗色が濃くなって来ます。
しかも、ここに来て自らの本陣を前進させて、島津の目の前に来た家康・・・
後ろに下がれば負けを認める事になる・・・かと言って、もはや戦場に西軍はほとんどいません。
やむなく、家康本陣の横をすり抜けて、対角線上の伊勢路へ・・・敵中突破を決行します。
これが、世に言う「島津の背進」(9月16日参照>>)・・・この時、重方は、義弘の袂につけた合印(あいじるし=戦場で敵味方の区別をする印)を引きちぎり、一本杉の馬印(大将の居場所を示す印)をへし折ったのだとか・・・まさに決死の敵中突破でした。
迫りくる井伊直政隊と本田忠勝隊の猛攻に、義弘の甥・島津豊久が、その盾となって討死し、殿の影武者となった盛淳も壮絶な死を遂げました(9月15日参照>>)。
1人、また1人と失いながらも戦線を離脱した義弘たち・・・18日後、故郷の富隈(とみのくま)城にたどり着いたのは、義弘を含め、わずかに80余人でした。
そう、その80余人の中にいたのが重方・・・しっかりと主君を守って、生還していたのです。
その後は、ご存じのように、上杉(8月24日参照>>)・毛利(9月28日参照>>)など、西軍だった大名がことごとく大幅減封される中、島津は、義久の見事な交渉術で最終的に所領安堵となるのです(4月11日参照>>)。
それから30余年の寛永十二年(1635年)12月18日、重方は70歳の生涯を閉じますが、晩年の彼の所には、若き薩摩藩士たちの訪問が絶えなかったのだとか・・・というもの、70歳の長寿を全うした彼が、最後の関ヶ原経験者となっていたからです。
主君の義弘も、もう、10年以上前に亡くなっています。
敵からもあっぱれと言われ、伝説となった「島津の背進」・・・そして逃避行。
その経験者の話を聞こうと、若者たちが、鹿児島から100キロも離れた出水までやって来るのです。
若者たちが集まると、裃をつけて登場した重方は、
「そもそも関ヶ原の戦いと申すは・・・」
と、いつも声をつまらせながら語りはじめたと言います。
中でも、合戦さ中の出来事とともに好んで話したエピソードがあります。
それは、合戦から3日経っても、未だ落ち武者狩りの危険をはらみつつ、一路、堺へと向かっていた時の事・・・もちろん、その間、食べる物すらなく、義弘は駕篭に乗り、なるべく人里を離れて、裏街道を行きます。
実は、この時、殿の乗る駕篭を後ろから担いでいたのが重方・・・と、その時、駕篭の前を担ぐ者が、馬の干し肉を持っていて、それを義弘に献上しようとします。
すると重方・・・
「お前・・・お前は、その肉の切れ端を殿に差し上げるんか?
いや、あげたらアカンぞ。
それは、俺らが食べる物や。
殿は、駕篭に乗ってはるだけ・・・俺らが担いで、中で座ってはるだけやないかい。
気ぃつかわんでもええ!
俺らが疲れてしもたら、殿は、その命も危なくなるんやで・・・もったいないがな」
と、言い放ちました。
駕篭担いでいる二人の会話です。
当然、義弘にも、まる聞こえ・・・しかし、義弘は、何も言わず、静かにうなづいたのだとか・・・
一瞬、「何て事言うんだ!失礼な」と思ってしまいますが、ここでは、主君を守る事が最大の彼らの使命・・・主君のために、命賭けても走り続ける事こそが一番重要なのです。
もちろん、義弘も、それを充分承知の上・・・なので、重方の言葉を聞いても、何も言わなかったのです。
・・・と、いつも感極まり、涙ながらに話して聞かせる重方・・・彼の話を聞き終えた若者たちは、
「関ヶ原の事、肝に銘じまして候」
と礼を言いながら、老いてもなお凛とした重方の姿に、皆、感動したのだとか・・・
「皆々、帰る道すがら、関ヶ原の話、幾度聞くにも勝りたる」
お爺ちゃんの名調子が今にも聞こえてきそうです。
若者に「何度聞いても感動する!」なんて言われちゃぁ、重方さんも、さぞかし、うれしい晩年だった事でしょうね。
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コメント
いい話ですね、また島津義弘のリーダーシップと魅力を感じさせる話だと思いました。さあ、明日のイベントがんばらなきゃ!
投稿: minoru | 2011年12月18日 (日) 18時11分
minoruさん、こんばんは~
重方も、そして、それを認める義弘との、主従関係の素晴らしさを感じるお話ですよね~
明日、イベントがあるのですか?
頑張ってくださいね。
投稿: 茶々 | 2011年12月18日 (日) 18時41分
重方さんと干し肉の話、とても面白いですね。薩摩人の武勇は言うまでもありませんが、反面、彼らにはこういう乾いたリアリズムがあるのですよね。
本領を安堵して、力を蓄え、やがて幕府を倒すしだけの事はあります。湿っぽい日本では まことに貴重な資質だと思います。
投稿: レッドバロン | 2011年12月18日 (日) 18時44分
レッドバロンさん、こんばんは~
>本領を安堵して、力を蓄え、やがて幕府を倒す…
まさに、薩摩の気質が成し遂げたって感じですね。
投稿: 茶々 | 2011年12月19日 (月) 03時59分
薩摩藩の者はどう生きるのではなく、どういう死に方をするかが命題だったのかもしれない。人の命より組織絶対の思想を作り上げ、そのことが江戸時代から幕末、戊申戦争、西南戦争へと突き進むことになる。太平洋戦争までつながってのかな。
投稿: 銀次 | 2011年12月19日 (月) 05時27分
銀次さん、こんにちは~
>人の命より組織絶対の思想を…
そうですね。
太平洋戦争までつながる…すばらしいですね。
投稿: 茶々 | 2011年12月19日 (月) 13時36分
よかブログに出会い感動しました。当会の機関誌に関ヶ原と駕籠担ぎの話の転載許可をお願いしたくコメントしました。鹿児島県湧水町 つつはの郷土研究会
投稿: 早起き鳥 | 2015年9月21日 (月) 02時29分
早起き鳥さん、こんばんは~
喜んでいただいて光栄です。
大阪弁しかしゃべれない私ですので、セリフの部分が大阪弁になってしまっていて申し訳なく思いますが、どうぞお使いくださいませ。
できましたら、文章のそばに、このブログの名称など、クレジットを掲載していただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2015年9月21日 (月) 02時53分
ありがとうございます。文頭にブログ名称をいれさせて頂きます。主君の義弘公は通算52回の戦をしていますが、戦い後必ず敵も味方も死者を弔って供養したすばらしい殿でした。義弘公を大河ドラマ化に向けて運動中ですが、こんな部下にも恵まれたのも勝運の1つと思っています。
投稿: 早起き鳥 | 2015年9月21日 (月) 22時40分
早起き鳥さん、こちらこそありがとうございます。
>義弘公を大河ドラマ化に向けて運動中…
義弘公というか、「島津を主役に!」という意見はよく聞きますよ。
ファンの方は多いです。
投稿: 茶々 | 2015年9月22日 (火) 01時21分
「島津の背進」の生き残り中馬重方は、8月9日の「野球の日」の中馬庚の先祖になるのでしょうか?
調べたんですけど、わかりませんでした。
鹿児島の出身ですし、めずらしい名ですので直系でなくとも関係ありそうですが。
投稿: とらぬ狸 | 2015年12月19日 (土) 09時48分
とらぬ狸さん、こんにちは~
さぁ?どうでしょうね。。。
私もわかりません。
苗字の検索サイトで調べてみると、現在、「中馬」さんという苗字の方は1000軒近くいらっしゃるみたいですが、そのほとんどが鹿児島に在住されている方のようなので、直接は関係無いにしろ、もとをたどれば一族の方々なのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2015年12月19日 (土) 16時29分