« 一世一代…伊藤博文の日の丸演説 | トップページ | 近衛文麿、最後の一日 »

2011年12月15日 (木)

平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西

 

平治元年(1159年)12月15日、平治の乱で討ち取られた信西の首が市中を引き回されました。

・・・・・・・・・・・

すでに事の終始を何度か書かせていただいている平治の乱ですので、これまでと重複する内容があるかと思いますが、本日は、主役の1人である信西さんを中心にお話させていただきます。

・‥…━━━☆

第74代の天皇であった鳥羽上皇が亡くなった後、その皇子である崇徳上皇(第75代天皇)(8月25日参照>>)後白河天皇(第77代天皇)との間で抗争となった保元の乱・・・(7月22日参照>>)

その保元の乱で勝者となった後白河天皇は、まもなく、息子の二条天皇に皇位を譲って上皇となり、政治の実権を握ります。

そんな後白河上皇の院政を助け、権勢を奮ったのが信西(しんぜい)です。

彼は、もとの名を藤原通憲(みちのり・高階通憲)と言い、その名前でもわかる通り、あの名門・藤原一族の人です。

しかし、摂政や関白を輩出する主流派とはほど遠い家柄で思うように出世できなかった事から、実力を持たぬ者が家柄だけで出世する世の中に失望し、39歳の時に出家して信西と号するようになったのです。

信西大好きで褒めまくりの『平治物語』によれば、その頭脳は「当世無双の宏才博覧なり」なのだそうですが・・・まぁ、『愚管抄』でも「学生抜群の者」と評価されてますし、スンゴイ読書家で書籍をいっぱい持っていて、(そう・中国)から使わされた使者と中国語で会話を交わせるほどの語学力もあったようなので、やはり、その才能は人並み以上だったのでしょう。

そんな信西にチャンスがやって来ます。

再婚した結婚相手が、雅仁(まさひと)親王乳母をやっていて、今度、その雅仁親王が皇位につく事になったのです。

その雅仁親王というのが後白河天皇・・・乳母の夫という事で重用されるようになり、もともと、勉強家で才能もあった人ですから、まもなく後白河天皇の信頼を一身に得る事になります。

さらに、上記の通り、その後白河天皇が保元の乱に勝利した事で、さらに、その権力は強まり、合戦の論功行賞や人事にまで口を出すようになります。

しかも、その論功行賞や人事に片寄りが・・・まぁ、清西は、一度は諦めて出家したくらい、これまでの人事に不満があったわけですから、当然、今までの人事とは違うやり方をするわけで・・・ただ、信西にしてみれば、それは「自分勝手なえこひいき」ではなく、内部の改革みたいなつもりだったのかも知れませんが、これまで、優遇されて来た人たちから見れば、ただただ信西の思い通りにされて、おもしろいわけがありません。

そんな中の一人が、若い時は後白河天皇と男同士のラブラブ関係にあったと噂される藤原信頼(のぶより)でした(12月9日・前半部分参照>>)

その信頼に近づくのが源義朝(みなもとのよしとも)・・・義朝も、保元の乱では後白河天皇側について勝利した武士でしたが、かの信西が、その武力的な支柱として重用していたのが、平清盛のほうだったので、ここに来て思うように出世できていなかったのです。

さらにそこに、二条天皇の側近たちが加わります。

二条天皇の側近たちも、父の後白河上皇から皇位を受け継いで二条天皇が天皇になったものの、上皇が院政を敷くもんだから、思うような政治手腕が発揮できないでいたのです。

こうして、二条天皇の側近+信頼+義朝反信西グループが出来上がります。

・・・で、彼らが、清西の武力の要である清盛が熊野詣に出かけたスキを狙って、平治元年(1159年)12月9日、クーデターを決行・・・後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃して、後白河上皇の身柄を確保した後、その三条殿に火をかけたのです。

さらに後白河上皇を連れて二条天皇のいる内裏へと向かい、ここで、天皇と上皇を拘束・・・これが平治の乱の始まりです。

もちろん、この時、後白河上皇のそばにいるはずの信西も探しましたが、すでに、三条殿のどこにも、その姿はありませんでした。

『平治物語』によれば・・・
この日の正午頃、信西は、太陽の周りに白い虹のような物が出ているのを見つけます。

これは「白虹」と呼ばれる現象で、実際には、太陽にうす雲がかかっている時に、太陽の光が屈折・散乱して、太陽の周りに、あるいは十字形に虹がかかったように見える現象なのですが、当時は凶事が起こる前ぶれとされていました。

これを、「誰かが、後白河上皇の院御所に夜討ちをかけようとしている」と判断した信西は、その事を伝えに三条殿に向かうのですが、ちょうど、その時、宴会の真っ最中で、なんだか言いそびれてしまい、そのまま帰宅・・・

しかし、三条殿が襲われるという事は、自分の身も危ないわけですから、「もはや一刻の猶予もない!」とばかりに、4~5人の側近を連れて、即座に南へと逃亡しました。

つまり、信頼や義朝が三条殿を襲撃した時には、すでに信西は逃げたあとだったのですね。

山道をひた走り、自らの所領のある宇治田原へと逃げる信西・・・頼みの綱は、この異変を聞きつけて熊野から引き返して来る清盛が到着するまで、何とか逃げ通して、その軍勢に合流する事だったわけですが・・・

残念ながら、宇治田原に到着した時、信西の耳に入ってきたのは、すでに信頼派の追手が、すぐそこまで来ているとの知らせでした。

「もはや逃げ切れない・・・」
と悟った信西は、僧らしく、即身仏になる事を願います。

従者に穴を掘らせて、その中に入り、口には節を抜いた竹筒をあてがって生き埋めにしてもらい、念仏を唱えながら逝こうと・・・

しかし、従者がすぐに追手に見つかってしまい、信西を埋めた場所を白状してしまったために、追手はすぐに、土の上に出た竹筒を見つけ、穴を掘り返しはじめます。

信西は、やむなく、刀を取って自害・・・時に平治元年(1159年)12月13日信西・54歳の冬でした。

まもなく、穴からひきずり出された信西は、首をはねられ、翌・14日、その首が信頼の前に引き出されて首実験が行われたのです。

さらに翌日の平治元年(1159年)12月15日・・・槍先に信西の首を刺した騎馬隊が、都大路を行進します。

Sinzeiheizimonogatari800
「平治物語絵巻」(国立国会図書館蔵)…兵士の持つ槍(薙刀)に、信西の首がくくりつけられているのが見えます

京中の人々の前に晒され、見せしめとされたのです。

一方、都での急変を知らされた清盛・・・急きょ、Uターンして京に戻りますが、二条天皇と後白河上皇の身が、向こうの手の中にある以上、うかつに手は出せません。

まずは、この二人を救い出さねば・・・と、そのお話は12月25日のページでどうぞ>>
 .

あなたの応援で元気100倍!
↓ブログランキングにも参加しています

    にほんブログ村 歴史ブログ 日本史へ


 PVアクセスランキング にほんブログ村

 


« 一世一代…伊藤博文の日の丸演説 | トップページ | 近衛文麿、最後の一日 »

源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

今は昔、NHK大河ドラマ「新平家物語」では小沢榮太郎さんが信西を演じました。余りの憎たらしさに「早く殺せ」と視聴者から投書が殺到。小沢さんは「役者冥利に尽きる」と喜んでいたそうです。

逆に、初期の「太閤記」では、高橋幸治さんが演じる信長に助命嘆願が殺到。本能寺の変が伸びに伸びて「太閤記」があやうく「織田信長」になるところ?

昔の大河ドラマは本当に人気があり、役者さんへの注目度も高かったですね。

投稿: レッドバロン | 2011年12月15日 (木) 18時40分

レッドバロンさん、こんばんは~

「太閤記」や「新平家物語」は覚えていませんが、「太平記」の鶴太郎さんもそんな感じでしたね~

やはり、大河はそれぐらいでないと…
来年に期待します。

投稿: 茶々 | 2011年12月15日 (木) 19時55分

こんばんは。
信西さん決してえこひいきをしていたわけではなかったようですよ。
信頼の官位が上がらなくなったのは、上の官位は定数が少なくて空席待ちの状態に陥っただけですし、義朝の官位はむしろ厚遇されているといっていい状態です。
清盛は祖父の代から国司を歴任して本人も官位を積み重ね公卿目前ですから播磨守になるのは当然、義朝は保元の乱の三年前にやっと下国の下野守になったばかり、
その義朝が前任者を押しのけてまで左馬頭になったのですから、これはかなりの厚遇です。左馬頭は軍事的に重要なポストだったそうです。
保元以前から元々清盛と義朝には相当の格差があったのです。

で、何故信西が排除されてしまったのかといえば
子沢山の信西が院近臣としての重要ポストを子供達に独占させ天皇側近の地位も子供達が獲得しようとしていたという点にあるらしいです。
このことが他の院近臣と天皇側近の危機感を相当煽ったとのこと。

あと清盛の立場も微妙です。
清盛は信西の息子と娘を結婚させていましたが、信頼の息子とも娘を結婚させていました。
清盛は中立者という見方が現在有力なようです。

長文失礼しました。

投稿: さがみ | 2011年12月15日 (木) 21時54分

小澤栄太郎さんを知らないのですが、凄味があったんでしょうか?昨今ではテレビ時代劇の悪役は「嫌味な人」ではあるが、「怖い人」や「恐ろしい人」ではないようですね。悪役の毒が薄くなったと言われます。

来年の清盛の「敵」は義朝になりますね。
でも再来年は個人レベルでは「主人公の敵」はいないはず?「新島八重さんの敵は~さん」とは断定できないんです。

投稿: えびすこ | 2011年12月15日 (木) 23時37分

さがみさん、こんばんは~

もちろん、信西から見れば「えこひいき」ではなく、信念を持って采配していたでしょうね。
義朝は「保元の乱で手柄をたてたのは自分のほう」という意識が強かったのかも知れませんね。

「清盛の立場が中立だったかも」というお話は、記事の最後にリンクをつけております、このページの続きの話となる「天皇&上皇・救出劇」のページ>>で、すでにチョコッと書かせていただいていますので、今回はスルーさせていただきましたo(_ _)o

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 02時04分

えびすこさん、こんばんは~

>悪役の毒が薄くなった

そうですね~
悪役こそ、ウマイ役者さんじゃないと務まりませんから、難しいですね~

>新島八重さんの敵は~

しいて言えば、宗教的な部分をいかに公平な立場で描くかが「(造り手の)敵」なのかも…

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 02時13分

茶々様
公平な立場で宗教的な部分を書く、難しい敵ですね。僕の住んでいる町にはカトリックのブラジル人、モスリムの人(お酒飲んだら駄目なはずが、飲みまくりです。でも、意外と良い人が多い)仏教の国のタイ人、自分を信じているとかいう無宗教の日本人、がいます。宗教は難しいですね。お互いの国の食事を話すのは楽しいんですけどね。

投稿: MINORU | 2011年12月16日 (金) 16時18分

MINORUさん、こんばんは~

公共の電波で流すドラマですからね。

そこの部分は意外にサラッと、あまり触れなくても仕方ないかも知れません。

おそらくは夫婦愛に重点を置く描き方にななるのでは?と期待してます。

投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 17時29分

のぶよりは後白河の赤ちゃんのように甘えん坊だから、雄一の作戦(甘える)ことが止められて、留守番中赤ちゃんのような騒ぎですね。信頼、まだまだ赤ちゃんですね。

投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 04時54分

ゆうとさん、こんにちは~

甘えん坊の赤ちゃんですか…ww

投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 12時18分

茶々様 こんにちは

ずーと疑問に思っているのですが、なぜ信西は
すぐ近くにある六波羅の清盛邸へ逃れなかったのでしょうか。
仮に清盛が中立で留守だったとしても、妻の時子がいたでしょうから、朝廷の重鎮を拒絶するとはとても思えないのですが。

投稿: 山根秀樹 | 2021年12月15日 (水) 14時35分

山根秀樹さん、こんばんは~

どうなんでしょうね?

敵方が清盛の留守を狙って仕掛けているという事は、清盛本人がいない邸宅も安全ではなく、地の利のある場所へ逃げた方が良いとでも感じたのでしょうか?

投稿: 茶々 | 2021年12月16日 (木) 04時11分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



トラックバック


この記事へのトラックバック一覧です: 平治の乱に敗れ「さらし首」となった信西:

« 一世一代…伊藤博文の日の丸演説 | トップページ | 近衛文麿、最後の一日 »