家康の影武者となって討死…夏目吉信in三方ヶ原
元亀三年(1572年)12月22日、浜松城の近くを通った遠征中の武田信玄に、徳川家康が挑んだ三方ヶ原の戦いがありました。
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果たして、この時の武田信玄に上洛の意図があったのか?否か?については3年前の【武田信玄・上洛~その真意と誤算】で>>
三方ヶ原の戦いの経緯については5年前の【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】で>>
古い記事ではありますが、よろしければ見ていただくとして、本日は、その三方ヶ原の戦いで、徳川家康の影武者となって討死する家臣・夏目吉信(なつめよしのぶ)について・・・
とは言え、この夏目さんが討死したとされる場所が、このすぐ後に再びぶつかる犀ヶ崖(さいががけ)付近(12月23日参照>>)とされ、合戦中に家康と遭遇したとされる場所からは少し離れている事から、「この逸話は後に創作された物では?」と疑問視されるエピソードではありますが、それも踏まえて、あくまで「そう伝えられている」というテイでお聞きください。
ちなみに、本日の夏目さん・・・あの文豪・夏目漱石のご先祖様です。
・‥…━━━☆
夏目吉信は、家康に古くから仕える家臣で、この三方ヶ原の戦いでは、、浜松城の留守役を命じられておりました。
しかし、いざ合戦が始まった時、櫓の上から戦場の様子を見ていた彼は、味方の劣勢にいても立ってもいられず、一目散に戦場へと駆けて行ってしまったのです。
実は、彼には、主君・家康に対して、忘れられない、ある出来事があったのです。
それは、この三方ヶ原をさかのぼる事9年前・・・永禄六年(1563年)の秋に起こった三河一向一揆です(9月5日参照>>)。
そのページにも書かせていただきましたが、これは、当時、曹洞宗の勢力が強かった三河東部を除いた地域で、本證寺の空誓(蓮如の孫)を中心に、一向宗門徒が領主である家康に抵抗した約半年間の一揆なのですが、9月5日の、この夏目吉信の投降を機に家康が本格的な鎮圧に乗り出して、何とか収めた・・・
そのページでは、「永禄六年(1563年)9月5日、突如として(吉信が)徳川方へ投降・・・」とだけ書かせてしただきましたが、実は、そこに、少しばかりのドラマがあったのです。
その日、砦に籠城していた吉信らは、松平伊忠(これただ)隊に不意に攻め寄せられ、木戸を突破された後、やむなく、彼らは金蔵に隠れますが、もちろん、すぐに包囲され、もはや逃げ道もなく、風前の灯に・・・このまま一気に!!とはやる伊忠を止めたのが、その話を聞いた家康でした。
「そんな状態で殺すやなんて、籠の中の鳥を殺すような物・・・もう、助けたりぃや」
と・・・
伊忠は・・・
「クソッ!殺してから報告したら良かったわ!」
と、捨てゼリフを残して兵を退き、その場を立ち去ったのだとか・・・
以来、吉信は、家康に背いた自分自身を悔しがり、毎夜、岡崎の方角に向かって手を合わせながら、
「もし、この命捨てる時あらば、殿のためにこそ捨てる事ができるように・・・」
と祈っていたのだそうな・・・
かくして訪れた元亀三年(1572年)12月22日の三方ヶ原・・・
殿の危険を目の当たりにして、戦場へと躍り出た吉信は、討死覚悟の奮戦で先へと進み、やがて家康の姿を見つけます。
混乱の中、すでに馬廻りの者も少なくなったにも関わらず、まだ、馬を向けようとする家康に、吉信が声をかけます。
「ここは、未だ、殿の死に場所ではありません!城へとお戻り下さい」
と言いながら馬副(うまぞい)の者に、馬の口を浜松の方角へ向けるよう指示します。
しかし、家康は
「自分の城下で負けては、命があっても、どないもならん!」
と言って、馬副の者に
「馬の口を放せ!」
と・・・
「いや!放すな!」
と、強い口調で命令し、馬を飛び降りた吉信は、
「私に、殿の諱(いみな)を下され」
家康の名を貰う・・・それは、家康の身代わりとなって、この場で討死するという事・・・
そう言って、自らの槍の柄でもって、馬の尻を3度叩きました。
馬が、家康を乗せたまま、一目散に浜松城に向かって走り去るのを見届けた吉信は、十文字の槍を取り、
「我こそは、徳川家康!!」
と叫びながら、敵の真っただ中に突入し、槍が折れるほどの力戦のうえ、壮絶な討死を遂げたのです。
こうして危機一髪を脱し、約7km後方の浜松城まで、無事に生還した家康・・・まぁ、皆さまご存じのように、下半身の危機一髪(しかも大)は脱する事はできなかったわけですが・・・
(再び【家康惨敗・三方ヶ原の戦い】参照>>)
その時、絵師に描かせた、敗戦の屈辱に満ちた「顰(しかみ)像」を、家康は生涯の教訓としたのですから、身代わりとなった吉信も、さぞかし本望だった事でしょう。
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コメント
家康が大阪弁とはさすが!でも、大阪出身の私としては家康が大阪弁で話すとちょっと変な感じがします。
投稿: minoru | 2011年12月22日 (木) 17時01分
三河弁は上方系?三河松平家時代は「殿さん」と呼んでいたと聞いたことがあります。
徳川家は確かに立派な家来が多いですが、そこは最終勝者ゆえ、江戸時代に忠義の鏡として喧伝された事情もあると思われます。
投稿: レッドバロン | 2011年12月22日 (木) 17時59分
minoruさん、こんばんは~
すみませぬ~~(;ω;)
私、新聞読んでも、
「イントネーションが大阪弁になってる」
と言われます。
セリフ以外の部分も、一見、標準語のようにゴマカシておりますが、声に出して読むと、大阪弁になってます。
どうしてもムリなんです。
スンマセン
投稿: 茶々 | 2011年12月23日 (金) 02時13分
レッドバロンさん、こんばんは~
もう、ほとんどが「徳川の言い分」ですから…
ちょっとカッコよすぎな気もします。
投稿: 茶々 | 2011年12月23日 (金) 02時14分
自分は夏目よしのぶと言います。
愛知県三河に住んでいます。自分と同じ人がいるとは、びっくりしました。
歴史ってすごいですね。
投稿: 夏目よしのぶ | 2013年10月 6日 (日) 02時01分
夏目よしのぶさん、こんにちは~
そうなんですかw(゚o゚)w
お名前の由来はこの方かも知れませんね。
何かご縁がある血筋なのかも…
投稿: 茶々 | 2013年10月 6日 (日) 09時24分
私も徳川家康って何者なんだろうと思います
当時の有望な青年といえば
浅井長政・徳川家康・武田勝頼ですが
3人が3人とも、
家人、周囲の反対を押して
金ケ崎の寝返り→姉川、三方原、長篠で戦い
例外なく負けて…
いずれにせよ、この時の夏目さんの機転が、歴史を大きく変えて、今に至るといって良いと思います。
投稿: | 2013年10月 9日 (水) 22時41分
>浅井長政・徳川家康・武田勝頼…
確かにそうですね。
おっしゃる通り、夏目さんの機転で家康は助かる事になりますが…
投稿: 茶々 | 2013年10月10日 (木) 01時41分