不況に対峙し、天皇家を救った田島道治
昭和四十三年(1968年)11月2日、実業家であり銀行家であり教育者でもあり、また宮内庁長官を歴任して宮中改革に尽力した田島道治が83歳で永眠しました。
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田島道治(たじまみちじ)は、明治十八年(1885年)に愛知県名古屋に、500年続く旧家の息子として生まれました。
8歳の時に母を亡くした道治少年は、地元の小学校を卒業して名門の愛知県立第一中学校に進学しますが、15歳の時、「もっと学びたい」という欲求から、猛反対する父に「卒業したら、必ず名古屋に戻って来るから…」と約束して単身上京・・・東京の名門校であった府立一中(後の日比谷高校)に転校します。
ここを2番の成績で卒業し、旧制第一高等学校を経て、東京帝国大学法科大学法律学科へ・・・
この高等学校時代に一高の校長をしていたのが、あの新渡戸稲造(にとべいなぞう)・・・教育熱心な新渡戸は、勉学だけでなく、学生との人間同志のつき合いも大事にしていた事から、彼は、週に一回、学生たちを自宅に呼んで談笑する会を設けていたのですが、その仲間に入っていたのが道治・・・
そこでの触れ合いで、すっかり新渡戸先生の人格に惚れ込んだ道治は、直接頼み込んで新渡戸の書生となり、その屋敷に住み込みの状態で、先生のすべてを吸収しようとします。
新渡戸がモットーとしていたのは
「人が世に生まれた大目的は、世のため人のために尽くすこと」
とにかく、今は一所懸命勉強してもっと成長し、いつか人のために尽くしたい!!・・・それが道治の目標となりました。
やがて東京大学を卒業した道治は、父との約束通り名古屋に戻って、地元の愛知銀行に就職します。
しかし、銀行に務めて5年ほど経った頃、鉄道員総裁(国土交通大臣)に就任したばかりの後藤新平から声がかかります。
あの新渡戸先生が、「優秀な人材がいる」と称して、道治を後藤の秘書に推薦していたのです。
その人となりを聞いた後藤が、わざわざ、自ら名古屋までやって来て、渋る父を説得するほどの力の入れようで、その後、2年間、道治は後藤の秘書を務めます。
その間に、大臣を辞職した後藤が新渡戸を誘って行ったアメリカ視察旅行に同行するチャンスに恵まれた道治は、第一次世界大戦直後の外国を直接見るという、またとない勉強の機会を与えられます。
帰国後、愛知銀行に戻った道治・・・この時35歳だった彼には常務取締役というポストが待っていました。
しかし、この時の金融機関は大変な状況・・・ご存じのように第一次世界大戦直後の世界恐慌のあおりを受けた昭和恐慌で、企業の倒産が相次ぎ不良債権が山のよう・・・しかも、大正十二年(1923年)9月にはあの関東大震災(9月1日参照>>)で、もはや、この日本は不況に次ぐ不況・・・
そんなこんなの昭和二年(1927年)に、政府が金融破たんの収拾策として設立したのが昭和銀行・・・これは、破綻した銀行の不良債権を昭和銀行が引き取って、預金者と取引先を救済しようという、いわゆるブリッジ・バンク・・・
42歳でここの頭取に就任した道治は、見事な手腕(←私には到底説明できない手腕です…興味のある方は自身でお調べください)で、1円の税金も投入する事無く、不良債権を片づけたと言います。
やがて、昭和銀行の退職金を担保にして、明協学寮という学生寮を造り、後進の育成にも力を入れます。
そう、新渡戸先生の事を教育者としても敬愛していた道治は、自らも教育者として資材を投げ打つのです。
昭和十二年(1937年)に開設されたその学生寮は、10人の学生を受け入れるための10の個室に、談話室や病室などが完備された物で、「1流の生活環境は1流の人材を輩出する」として、家具や調度品などは自宅よりも高価な物を使用していたと言います。
自らも、週に1度の論語の講義を行い、月に1度は、1級の識者を招いての懇談会を開き、世界のどこに出しても恥ずかしくない人材の育成を目標としていたのだとか・・・
その寮は残念ながら戦時中の東京大空襲で焼失しますが、後に、70歳を過ぎてから、再び、2つの学生寮を設立しています。
やがて、昭和二十三年(1948年)、時の芦田均(あしだひとし)総理によって宮内府長官に任命される道治・・・時に63歳。
そう、この時期は、戦後の混乱期・・・皇室の存続そのものが危うい時代に、宮内府長官なんて、大変な任務です。
何度も固辞する道治ですが、芦田の「引き受けて貰えなかったら、もう策はない」とばかりの涙ながらの訴えに応じ、引き受けたのです。
しかし、その後、長官として昭和天皇の人となりに接するうち、「こんなすばらしい人は、今まで見た事が無い」と思うようになり、自らの私財をすべて売り払い、長官の交際費に当てるようになるのです。
道治の就任後、まもなく芦田内閣は総辞職し、第2次吉田内閣が誕生して宮内府は宮内庁となるのですが、前任の芦田と後任の吉田と、ともに連絡を密に取りながら、時には対立し、時には同意し・・・約5年間の宮内庁長官を務めました。
その中で、天皇の存続はもちろん、昭和天皇の退位論にも終止符を打ち、様々な皇室改革に尽力した道治の功績には、あの「開かれた皇室」という言葉も生まれました。
長官辞任後には、未だ産声を上げたばかりの会社に請われて東京通信工業株式会社の監査役に就任します。
この会社が現在のソニーで、ここでは取締役会長、そして、死ぬまで相談役を務めていました。
そんな中でも、皇太子妃選びの相談役として、候補者の家庭訪問や外出先での観察にも参加していたのだとか・・・
昭和三十三年(1958年)、その皇太子妃には正田美智子様(現在の皇后陛下)が決定しますが、道治の日記には、民間から宮内庁長官に入った自身の不安と重ねて、初の民間皇太子妃に対する思いが切々と綴られていたと言います。
日記と言えば・・・
「(大東亜戦争に関して)陛下としては、御自分の不徳に由るものの如く御考へになり、仰いでは祖宗(そそう)の愢(は)ぢ畏(おそ)れ、俯(ふ)しては国民に済まなく御思ひつづけのやうに排します」
という昭和天皇の様子も、彼の日記に書かれているのですが、道治は、何とか、この陛下の真のお気持ちを国民に伝えたいと奔走していたようです。
ただ、それだけは、その度に圧力がかかり、実現できませんでしたが・・・。
昭和四十三年(1968年)11月2日・・・肝臓癌のため宮内庁病院に入院していた道治は、83歳の生涯を閉じました。
その1週間前に、神谷美恵子さんという方が、彼のお見舞いに訪れています。
彼女は、道治の一高以来の親友の娘で、あの美智子妃殿下の相談相手として彼が推挙した女性でした。
その時、道治は彼女に・・・
「私の事はいいから、あのことだけは頼みますよ…いいですね」
と言ったと言います。
妃殿下の相談役である彼女に頼む「あの事」とは・・・言わずとも察しがつきますね。
最後まで、自分のためにではなく、世のため人のためと願った道治・・・その病室には、彼の人生を象徴するかのように、1冊の論語と、ソニーの最新型のカラーテレビが置かれていたのだとか・・・
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コメント
大不況の後の大災害、そして皇室が困難に直面してる・・・まさに今と全く同じ状況下、こんな方がいらしたんですね。きっと現代にもこんな方がいると信じてます。日本は大丈夫・・・と信じてます。(羽毛田さん、頑張ってください。)
投稿: Hiromin | 2011年12月 2日 (金) 20時35分
Hirominさん、こんばんは~
まさに…
きっと、今もこのような方がいると信じています。
投稿: 茶々 | 2011年12月 2日 (金) 21時25分