将軍家から尾張へ…生涯姫君だった千代姫
元禄十一年(1699年)12月10日、江戸幕府・第3代将軍・徳川家光の娘で、尾張徳川家に嫁いだ千代姫が、62歳で亡くなりました。
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先日ご紹介した竹姫(12月5日参照>>)が、将軍家と島津家の架け橋となった最初の人なら、この千代姫は、将軍家と御三家の架け橋となった最初の人・・・以後、将軍家に生まれた長女が、次々と御三家に嫁ぐ事を思えば、まさに先例となった姫でしょう。
生まれながらの将軍・・・ご存じ、徳川家光が、初め男色だった話は有名中の有名・・・
当然の事ながら、30過ぎても世継ぎの生まれない状況を心配した乳母・春日局(かすがのつぼね)の側室を送り込み作戦により、ようやく、待望の第1子として生まれたのが、この千代姫です。
生まれは寛永十四年(1637年)閏3月5日・・・戒名は霊仙院(れいせんいん)で、この名前で紹介される事も多いですが、本日は、千代姫さんとお呼びさせていただきます。
待ちに待った将軍家の姫ですから、その婚礼の仕度は、生まれたその年から早くも注文され、その翌年、尾張(おわり・愛知県西部)徳川家の初代・徳川義直の長男・光友(みつとも)との縁組が決まります。
この光友は、家光の従兄弟にあたり、健康にも優れ、武道をこなしながらも書画などもたしなむ評判の男子で、まさに理想的・・・しかも、千代姫より12歳も年上ですから、幼い娘を嫁がす親の方も安心です。
『金城温古録』によれば・・・
「天下にも替え難き御大切なる姫君様」ですが、
たっての「尾張殿御所望」により・・・
と、この縁談に乗り気だったのは尾張の方だったように書かれていますが、ひょっとしたら、これは将軍家に気をつかっての書き込みなのかも・・・
確かに、将軍の実子を嫁に取る事で、大名としてのランクが上がるというメリットがありますが、この時点で、未だ世継ぎのいない家光・・・どちらかと言えば、将軍家のメリットのほうが、はるかに大きいですから・・・
なんせ、この縁組が決まった時点で、家光は35歳・・・そして、皆さまご存じのように、家光は、子供の頃から何度も病気にかかり、決して丈夫とは言えない体質だったわけですから、このまま世継ぎが生まれない可能性も大いにあるわけで・・・
そうなると、当然、御三家から誰かを養子に迎えて、次期将軍に・・・となるわけで、この時点で、優秀かつ理想的と噂される光友が、その候補に上がって来るのは明白・・・
だったら、自らの娘を嫁に出して、その血筋の保持をする事が重要・・・
さらに、当時の家光は、叔父に当たる義直としっくりとはいっておらず、いち時は、尾張謀反の噂が浮上するほど、不穏な空気が漂っていたのです。
ご存じのように、未だ、幕府が盤石とは言い難い時期・・・ここで、御三家筆頭の尾張との関係を良き物にする事で、より強固な幕藩体制の確立になる事、間違いなし!だったのです。
こうして寛永十六年(1639年)9月21日、わずか3歳で千代姫は尾張に嫁ぎます・・・と言っても、さすがに、結婚のなんたるかもわからない年齢ですから、祝言そのものは、輿入れから8年後の、千代姫・11歳の時に行われています。
それにしても、そのお嫁入り道具のスゴさったらハンパ無かったわけですが、それより何より、初めての将軍家の姫の御三家お嫁入りとあって、こののちの先例になる事が多々・・・
たとえば、普通、将軍家の子供であっても、男子がある大名に養子に入った場合は、基本的には、その家の人間になるわけですが、将軍家の姫がお嫁に行った場合は、嫁に行っても、その姫は将軍家の人という扱いを受けます。
彼女は、結婚してもなお、「千代姫様」と呼ばれ、夫からも、さらに、実の息子からも「姫君様」と呼ばれて特別扱いされるのです。
また、嫁ぎ先の大名家の江戸屋敷の敷地内に、「御守殿(ごしゅでん)」「御住居(おすまい)」と呼ばれる姫様専用の御殿を建てて住むのも、千代姫が最初で、その後、ずっと、このようになります。(先日の竹姫もそうでした)
さらに、幕府からは「賄料(まかないりょう)」と称して、一定の生活費が支給され、千代姫の場合は、付け人として、73人の女中と、49人の役人がついて来たとか・・・
夫や息子からも特別扱いされる生活が幸せだったかどうかは、現代人の私たちにははかり知れませんが、もともと、彼女は、その世界しか知らないわけですし・・・
しかも、慶安五年(1652年)に嫡男・綱誠(つななり)を産んだのを皮切りに、最終的に二男二女に恵まれ、その嫡男は、第3代の尾張藩主を務めるのですから、おそらくは、自身で不幸だとは思えない環境だったでしょうし、その点では、尾張徳川家藩主の妻と母という役目を立派に果たしているわけですからね。
こうして、生涯、将軍家の姫として生きた千代姫は、元禄十一年(1699年)12月10日、62歳の生涯を閉じました。
ただ、たとえ将軍家の姫であっても、その後の多くの姫が婚家の菩提寺に葬られるのに対し、、千代姫は、ここでも将軍家の姫・・・将軍家の菩提寺である増上寺に葬られるのです。
死してもなお、尾張の地に入る事が無かった千代姫・・・
しかし、彼女が嫁入りに持参した調度品の数々は、その死から3年後、尾張名古屋へ送られ、大切に保管される事に・・・千代姫さん、ようやく、その生涯を賭けて次世代へとつないだ尾張の地を踏む事ができましたね。
この品々は、現在、徳川美術館が所蔵し、「初音の調度」として国宝に指定されています。
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コメント
千代姫さんはお江さんの孫娘ですね。調べてみたら将軍家よりも尾張家の方が後々までお江さんの血筋が残っていますね。今でも徳川一門のどこかの家が血縁の可能性がありますね。「千代」は家光の幼名の「竹千代」から取ったものかな?
投稿: えびすこ | 2011年12月10日 (土) 21時41分
えびすこさん、こんばんは~
千代姫さんも、正室で世継ぎを産む…江さんとちょっと似てますね。
>「千代」は家光の幼名の「竹千代」から…
待望の第1子ですから、そうかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2011年12月11日 (日) 01時42分