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2011年12月27日 (火)

新選組・野口健司の切腹

 

文久三年(1863年)12月27日、水戸藩出身の新選組副長助勤野口健司が切腹をしました。

・・・・・・・・・・・・

幕末当時、開国攘夷(じょうい・外国を排除)かに揺れる中、幕府は、第14代将軍・徳川家茂(いえもち)と、孝明天皇の妹・和宮(かずのみや)との結婚(8月26日参照>>)を実現させて公武合体(朝廷と幕府が協力)政策をはかり、文久三年(1863年)の3月には、家茂の上洛を決定します。

しかし、その頃の京都は、過激な尊王攘夷派「天誅(てんちゅう)と称して、佐幕派(幕府を応援)や公武合体派を暗殺するという事件が多発していて、治安の悪き事このうえない状態・・・

そこで、幕府は京都の治安を守るための京都守護職に会津藩主・松平容保(かたもり)を任命・・・さらに、庄内藩・郷士出身の清河八郎の提案によって、京都で将軍の身辺警護を担当する武闘集団=浪士組を結成する事になり、江戸にて、その隊士を広く募集しました。

採用されれば、1人=十両の一時金を貰ったうえに米一升が毎日支給されるし、万が一、大活躍してエライさんの目に止まれば幕臣に取り立てられる事も夢じゃない!・・・とあって、腕に覚えのある多くの若者が集まります。

その中の1人が天保十四年(1843年)に水戸に生まれた野口健司でした。

やがて、文久三年(1863年)2月8日、清河の扇動のもと、野口たち、採用された隊士らが連れだって京都に向かったわけですが、京都に着いた途端、かの清河が豹変し、「この度の上京は、尊王攘夷の先鋒となるための上京である!」と宣言したため、驚いた老中・板倉勝静(かつきよ)から、「すぐに江戸に帰還せよ」との命令が出されます。

多くの者が、清河とともに江戸に帰還する中、そんな清河の豹変に納得しなかったわずかな者が京都に残り、京都守護職の容保の下で「会津藩お預かり」となって京都の治安維持の役目を担う事に・・・

これが、後の新撰組・・・この時、京都に残ったのは、天然理心流(てんねんりしんりゅう)の剣術道場・試衛館(しえいかん)を開いていた近藤勇とその仲間たち:8人と、水戸の脱藩浪士だった芹沢鴨(せりざわかも)とその仲間たち:5人わずか13人でした。

そう、水戸出身の野口は、この芹沢の仲間だったわけです。

・・・と言っても、どうやら、この野口さんは、同じ水戸藩出身という事で、芹沢たちと行動をともにしてはいましたが、その思想や考え方には、少し距離があったみたいで、一方では近藤たち・試衛館仲間とも仲良くやっていたようです。

それには、近藤仲間の1人だった永倉新八(ながくらしんぱち)の存在・・・実は、野口が免許皆伝?とも言われるほどの腕を磨いた神道無念流の道場・百合元昇三道場に永倉も通っていて、浪士隊になる前から、すでに二人は知り合いだったからです。

しかし、ご存じのように、誕生したばかりの新撰組・・・もともと浪人集団の寄せ集めだった彼らは、いつしか、近藤派芹沢派に分かれ、その溝は大きくなるばかりで、結局、その派閥抗争は、近藤たちが芹沢らを暗殺する(9月18日参照>>)という展開となります。

この時、殺害されたのは芹沢派5人のうち、芹沢本人と平山五郎の二人・・・その間に、騒ぎを知った平間重助(ひらまじゅうすけ)は逃亡し、新見錦(にいみにしき)は、乱行がヒドすぎるとして、すでに5日前=9月13日に切腹させられています。

つまり、この時、芹沢派で残ったのは野口1人だけという事・・・彼は、この夜、京都・島原花街にある角屋(すみや)にいて難を逃れたのですが、実は、これも、仲良し永倉の配慮で、「野口だけを現場に居合わせないようにした」とも言われており、おそらく、野口自身は、芹沢たちを殺害した犯人が誰かという事も知らなかったのだろうと推測されます。

現に、野口は、この事件の後でも逃亡する事もなく、普通に居残り、近藤組長新体制のもと隊務をこなしています。

しかし、その運命は急展開・・・芹沢の死から、わずか3ヶ月後の文久三年(1863年)12月27日野口は突然切腹を命じられ、その21歳の若き命を散らせたのです。

その理由は、明治の後も生き残った隊士の証言でも「ささいな事」と表現されるだけで、真相はわかりません。

一説には、近江国中羽田村で起こった村騒動(新撰組を名乗る者が七里村に出没し、村人を混乱させた)の責任を取らされたとも言われますが、それはまったくの濡れ衣という意見もあり、もはや藪の中です。

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京都にある旧前川邸…綾小路通に面した出格子窓のある部屋(写真の右手前です)で、野口は切腹しました。
旧前川邸への行き方は、本家ホーページ:京都歴史散歩
「東寺から二条城へ…」でどうぞ>>

いずれにしても、記録に残る京都で死亡した隊士・50人のうち、その半数が粛清された同志だったという新撰組・・・

もともと、武士ではない者か、あるいは食いぶちにありつけない浪人の集まりだった彼らですから、法度に違反した時は、情け容赦のない粛清を行わなければ、それこそ、無法者の殺人集団になってしまうわけで・・・

中には、記録に残る事すらなく散って行った隊士たちもいるという事なので、野口さんは、その名を残せただけでも、少しは心安らか?なのかも知れません。
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コメント

新撰組の「粛正」は70年前後の過激派の「総括」を思わせて、陰惨極まりないです。武蔵でさえ駄目だったのに、幕末の混乱に乗じて剣で身を立てようというアナクロニズムに面白みは感じます。
しかし、自分を制御出来ないものに武器を持たせればこうなるという、典型的な事例です。人に刃を向け、仲間を切腹させることが自己目的化してしまっている。小説世界ではともかく、褒められた集団ではありませんね。

投稿: レッドバロン | 2011年12月27日 (火) 18時21分

レッドバロンさん、こんばんは~

そうですね。
ちょっと悲しいです。

投稿: 茶々 | 2011年12月28日 (水) 01時20分

水戸藩は恵まれない人が多いみたいですね。

投稿: やぶひび | 2012年1月29日 (日) 11時55分

やぶひびさん、こんにちは~

ほんとですね~
天狗党も水戸でしたね。

投稿: 茶々 | 2012年1月29日 (日) 13時44分

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