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2011年12月12日 (月)

応仁の乱後も最後まで戦い続けた男・畠山義就

 

延徳二年(1491年)12月12日、室町幕府・三管領家の一つである畠山氏畠山義就が、54歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

あの応仁の乱の原因の一つである管領家・畠山氏の家督争い・・・そもそもは、本日の主役=畠山義就(よしなり・よしひろ)出生から始まります。
(注:今回、主役の義就はじめ、途中で名前の変わる方が複数登場しますが、ややこしいので、このページ内では、最もポピュラーと思われる1つの名前に統一させていただきます)

河内(大阪府)紀伊(和歌山県)山城(京都府南部)越中(富山県)守護大名で、足利氏の一門である畠山氏は、細川氏斯波(しば)とともに三管領家と呼ばれ、3家交代で管領職に就任するという家柄でした。

とは言え、そもそもは将軍の執事・補佐役として誕生した管領も、その力が大きくなると、将軍自身の脅威となるわけで・・・

そこで、室町幕府の全盛期を築いた第3代将軍足利義満(よしみつ)などは、巧みに大名たちの心情を操り、同族同志で争わせたり、敵対させたりして、その力が強大になり過ぎないようにしていたんです(12月30日参照>>)

そんな3代めと同じような事を・・・いや、もっと厳しく、恐怖政治とまで言われていたのが、くじ引き将軍でお馴染の第6代将軍足利義教(よしのり)・・・

後に、応仁の乱の西軍大将となる山名宗全(そうぜん)山名氏も、そんな将軍の画策で浮いたり沈んだりしてたクチなわけですが、義就の父である畠山持国(もちくに)も、その1人で、将軍・義教の命によりムリヤリ隠居させられ、弟の持永(もちなが)家督を譲らされてしまいました。

しかし、そんな恐怖政治にまさしく恐怖を抱いた赤松満祐(あかまつみつすけ)義教を暗殺・・・これが、御存じ嘉吉(かきつ)の乱ですが、それをキッカケに持国は弟を追い落として返り咲き・・・

Hatakeyamayosinari400 義就が生まれたのは、そんな頃でした。

ただ、ちょっと問題が・・・

実は、義就のお母さんは、アッチ方面のプロの女性・・・つまり遊女だったわけで、本当に持国の息子だったかどうかは、DNA鑑定の無い時代には立証不可能・・・

そんなわけで、他に子供がいなかった持国は、自らの後継者に、もう一人の弟・持富(もちとみ)を指名しており、義就は、嫡子と認知されないまま石清水八幡宮へ預けられ、そのまま、神に奉仕する仕事につくはずでした。

ところが、義就が12歳になった時、突然、父に呼び出されて面会・・・途端に、義就を後継者にしたいと思った持国は、即座に持富の相続を撤回し、文安五年(1448年)11月には、時の8代将軍・足利義政(よしまさ)に、義就=後継者を認めさせていましました。

ひょっとして、自分にソックリだったのか???

当然の事ながら、納得がいかないのは、持富と、その息子たち政久政長兄弟・・・いや、彼らだけでなく、家臣たちも、持国の突然の変わりようについて行けなかったのです。

残念ながら、持富は、わずか4年後に亡くなりますが、それでも、くすぶりは納まりません。

反対派は、持富の長男・政久を擁立しようとしますが、持国は、彼らを押さえて義就に自らの代わりを務めさせたりなんぞ・・・

しかし、ここに来て、有力者の山名宗全や細川勝元などが政久を支持し、勢いづいた政久派は、持国を襲撃・・・享徳三年(1454年)9月に持国らは京都を追われ、代わって政久らが上洛します。

ところが、3ヶ月後の12月・・・自らの力で政久らを追い落として上洛を果たした義就は、翌年3月、父・持国の死を受けて、畠山家の家督を相続し、将軍・義政の承認も得ました。

が、しかし・・・大和(奈良県)で起こった争乱に、将軍・義政の許可を得ずに軍を派遣した事から、義政がブチ切れて義就の領地を没収・・・っとなると浮かび上がってくるのが政久ですが、彼が長禄三年(1459年)の夏に亡くなってしまったため、政久派は、その弟の政長を擁立し、政長が管領職に・・・

一方、吉野に潜伏していた義就は、この間に、かの山名宗全を味方につける事に成功します。

かくして応仁元年(1467年)正月、宗全を伴って謁見しに来た義就に、義政はアッサリと畠山氏の相続を認め、政長に屋敷の開け渡しと管領の辞職を命じます。

・・・と、ここまで、何回も何回も・・・義政は、あっちを承認したり、こっちを認めたり・・・何やっとんじゃぁ~!えぇ加減にせぇ~~!と思うのは、誰しも同じ・・・

こうして、義就と政長・両者がぶつかったのが、応仁元年(1467年)1月17日の御霊合戦(1月17日参照>>)・・・ここでは、政長が敗れて、一旦、姿を隠しますが、その政長を最初っから支持していたのが細川勝元だったわけで・・・

こうして、「勝元&政長」VS「宗全&義就」の構図ができた所で、そこに、次の9代将軍に決まっていた義政の弟・足利義視(よしみ)(1月7日参照>>)と、それを撤回して、我が子・義尚(よしひさ)を将軍にしたい義政の妻・日野富子、さらに、やはり、親戚同志で家督争いをしていた斯波氏斯波義敏(しばよしとし)斯波義廉(よしかど)が加わり・・・そうなると、それぞれの下につく大名たちを巻き込んで、いよいよ応仁の乱となるのです(5月20日参照>>)

とは言え、後継者争いしてる張本人は真剣でも、ただ単に、それを支持しただけの武将たちは、各地方から京都にやって来て戦って、たとえ勝ったとしても何かが得られるという保障があるでもなく・・・となると、大物の手前、参戦したものの、命賭けるほどの士気はなく・・・

結局・・・
同じ応仁元年(1467年)の5月の五月合戦(5月28日参照>>)、続く10月の相国寺の戦い(10月3日参照>>)、翌・応仁二年(1468年)3月の稲荷山攻防戦(3月21日参照>>)と、ここらあたりの最初の戦いこそ激しかったものの、徐々に、その戦いは小競り合い程度の物になり、最終的に、宗全&勝元の両巨頭が相次いで亡くなる(3月18日参照>>)に至って、何かよくわからないまま、乱は終焉を迎えます(11月11日参照>>)

しかし、応仁の乱が終わっても、義就と政長の戦いは終わりません・・・こっちは、本気の家督争いですから・・・

しばらくの沈黙の後、文明十四年(1482年)頃から再び両者の争いが勃発し、合戦の地が河内から山城へと移る中、ここで事件が起こります。

文明十七年(1485年)12月11日・・・そう、あの山城の国一揆です(12月11日参照>>)

大乱の時は、東軍・西軍に分かれそれぞれについていた山城の国人たちが結束し、①畠山両軍の山城からの撤退 ②寺社本所領の還付 ③新関所の撤廃を要求し、自らの地の自治を主張したのです。

は、山城の地を戦場と化してドンパチやってる畠山氏に、「お前ら出て行け!」という事・・・
は、これまでは、寺社や公家に年貢を納めるのを、守護である畠山氏を通じて納めていたわけですが、それを、自分たちが直接納めるという事・・・もちろん、すでに公家には話をつけており、むしろ、「畠山の中間搾取や滞納が無くなる!」と公家は大喜びです。
は、その通行料を取るために、畠山氏が勝手にあっちこっちに作った関所をすべて廃止するという事です。

・・・で、両畠山は一揆の勢力に押され、これらの要求が、すべて通っちゃったんですね~

興福寺大乗院尋尊(じんそん)「下剋上の至り」と言わせた、この国一揆の成功・・・これは、まさに数百年・数十代に渡る支配勢力の衰えを感じさせる物でした。

そんな中の延徳二年(1491年)12月12日畠山義就は54歳の生涯を閉じ、政長との争いは、その子から孫へと受け継がれる事になるのですが(7月12日参照>>)、もはや、こうなったら将軍も管領も公方も守護も、その肩書の効果は薄れ行く一方・・・時代はまさに、群雄割拠の戦国へと突入していく事になるのです。
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