一世一代…伊藤博文の日の丸演説
明治四年(1871年)12月14日、アメリカ・サンフランシスコ市主長催の晩さん会で、伊藤博文が日の丸演説を行いました。
・・・・・・・・・
ご存じ、日本の初代総理大臣となる伊藤博文は、この時、31歳・・・
殖産興業を担当する工部省の責任者である工部大輔(たいふ)という役職で、あの岩倉使節団の副使の1人でした。
岩倉使節団とは、維新の立役者の一人でもある、あの岩倉具視(ともみ)を大使として派遣された使節団で、その目的は、大きく2つ・・・幕末維新のドサクサで、欧米諸国と結ばれた不平等な条約を改正するための予備交渉と、欧米の先進国の文化や経済・産業などの「いま」を、その目で視察する事でした(10月8日参照>>)。
大使の岩倉と伊藤の他にも、木戸孝允(たかよし・桂小五郎)、大久保利通(としみち)、山口尚芳(ますか・なおよし)らが副使となり、使節・随員・留学生など、総勢107名が外輪船・アメリカ号に乗り込み、明治四年(1871年)11月12日横浜港を出港・・・
太平洋を渡り、アメリカのサンフランシスコに到着したのは12月6日の事・・・早速、明治四年(1871年)12月14日に、市長の主催による歓迎晩さん会が開かれたのです。
使節団の写真を見てお解りのように、この頃、まだ岩倉さんは、チョンマゲ姿・・・晩さん会に集まった約300人ほどのアメリカ人のほとんどは、東洋の端っこからやって来た珍しい人々に興味津々・・・どちらかと言うと、物珍しさが先立つ晩さん会でした。
そんな中、要人を前に、答礼のスピーチを行った岩倉に続いて、壇上に上がった伊藤は、なんと、英語で話しはじめたのです。
確かに、ネイティブも真っ青のペラペラ・・・ってわけにはいかなかったようですが、彼は、長州藩士の時代にイギリスへ密航した経験があり、そこそこ聞き取れる物だったとか・・・
「The red disc in the centre of our national flag shall no longer appear like a wafer over a sealed empire, but henceforth be in fact what it is designed to be, the noble emblem of the rising sun, …」
会場に掲げられていた日の丸を指さしながら言いました。
「わが国旗の中央にある赤い丸は、もはや国を閉ざす封印に見える事もないでしょうが、これは、今、まさに洋上に登ろうとしている太陽を表していてます。
そして、その太陽は、いまや世界の文明国に向けて躍進するしるしでもあります。」
と・・・
今の日本は、まだ洋上に登ったばかりの太陽で、その光も弱く、色も薄いかも知れないけれど、やがて、この日の丸にデザインされた太陽のように、世界の人々に尊敬の念を持って見られる国となるだろう事、そのために、今の日本政府と日本国民が一番望んでいるのは、先進国の最先端の文明を身につける事である・・・と、日本人が欧米へのあこがれを持っている事を、謙虚に、そして、素直に述べました。
ただ、一方では、
「我々は、一滴の血も流す事無く、数百年に渡る封建制度を撤廃しました」
と、ハッタリをカマし、日本人の精神的豊かさも、しっかりとアピール・・・。
まぁ、実際には、あの戊辰戦争(1月3日参照>>)があったわけで、一滴の血も流れてなくはないのですが、確かに、幕府から明治新政府に移行する中でも、特に重要と思われる江戸城の開け渡し(4月11日参照>>)と、廃藩置県(7月14日参照>>)は、まったくの無血で行われたわけですし、一世一代の大舞台でもありますので、少々のハッタリもアリなのかも知れません。
なんせ、このスピーチを聞いていたアメリカ人たちは、未だ、60万人以上の死者を出した南北戦争の記憶も生々しかった頃なわけで、この伊藤の演説に、皆が心揺さぶられ、日本人の礼儀正しさや、誇り高き国民性に感動し、その拍手が鳴りやまなかったというのですから・・・
難しい外国との交渉・・・今の日本は弱腰外交と称されて久しいですが、もはや、この国も、昇ったばかりの朝日では無いのですから、時には、これくらい強気でド~ンと行きましょうよ!
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コメント
これを英語で話せたのなら伊藤博文すごいですよ、ちょっと考えた内容ですけど。
投稿: MINORU | 2011年12月14日 (水) 15時34分
明治初年当時の政府高官は、だいたい平均年齢が35歳くらいですね。くくりにもよるんですが、「江戸時代の幕閣の平均年齢が35歳」と言う時期は多分ないと思います。若い政府高官の訪問にアメリカ政府も驚いたと思います。
ところで今の外交官の人で、海外留学の経験がある人はどれくらいいるんでしょうか?外国の駐留大使になるには、留学経験がある程度ないとだめだと思うんですが。
投稿: えびすこ | 2011年12月14日 (水) 16時55分
茶々様、結局、英語力よりも伝えたい程の内容があるかどうか、と言うことですね。
伊藤博文は 松下村塾の劣等生?ですが、これくらいのことは言えますでしょう。江戸期は(今と違って)教養の時代でありました。
知り合いの外資系社長は英語の出来る日本人は カモだと言ってます。欧米でビジネスをした経験もないのに、自分で交渉できるという妙な自信があって、手もなく捻れると。
投稿: レッドバロン | 2011年12月14日 (水) 17時34分
MINORUさん、こんばんは~
ホント、スゴイですよね~
まだ、31歳ですよ!
投稿: 茶々 | 2011年12月14日 (水) 17時53分
えびすこさん、こんばんは~
これだけ留学する人が多い現在だと、やっぱある程度の経験は必須なんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2011年12月14日 (水) 17時57分
レッドバロンさん、こんばんは~
>英語の出来る日本人は カモ
耳が痛いですね。
まぁ、政府の場合は、正式な交渉では通訳が入りますから…
ニュアンス的な物は表現も難しいですからね。
投稿: 茶々 | 2011年12月14日 (水) 17時59分
日本人は英語の問題もありますけど、お付き合いできるかどうか?国際感覚もあると思います。僕らの町では駐在員の人たちは日本と同じ感覚で生活しています。日本人も多いし、子供たちは現地校に月曜日から金曜日、日本語補修校に土曜日一日中通わされています、大変ですね。レッドバロンさんの言われることは分かる気がします、英語のできない日本人より。
投稿: Minoru | 2011年12月16日 (金) 16時26分
Minoruさん、こんばんは~
言葉は、使わないと忘れてしまいますね~
ずっと海外在住の友人は、家族も日本人なので、忘れる事はないようですが、同じく海外在住の伯母は、旦那さんも外国人なので、日本に里帰りするたんびに、日本語を思い出すのに時間がかかります。
投稿: 茶々 | 2011年12月16日 (金) 17時21分