将軍家と島津の架け橋に…公家生まれの竹姫の願い
安永元年(1772年)12月5日、公家から武家へと数奇な運命を歩み、将軍家と薩摩藩の架け橋となった竹姫が、68歳でこの世を去りました。
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夫の死を受けて尼となり浄岸院(じょうがんいん)と称しますが、今日は、それ以前のお名前=竹姫様と呼ばせていただきますね。
竹姫は、宝永二年(1705年)に、第112代霊元(れいげん)天皇と第113代東山天皇の二人に仕えた公家・清閑寺熙定(せいかんじひろさだ)の娘として京都に生まれました。
彼女の運命が変わるのは、わずか4歳の時・・・
父・熙定の姉妹(つまり叔母or伯母さん)である大典侍局(おおすけのつぼね=寿光院)が、第5代江戸幕府将軍・徳川綱吉の側室となっていたのですが、二人の間に子供がいない事を思い悩み、姪に当たる彼女を「養女にしたい」と言って来たのです。
将軍の側室が養女を希望する事は極めて異例でしたが、綱吉は、ことのほかこの大典侍局を寵愛していましたし、自身が溺愛していた長女の鶴姫を亡くしたばかりだった事も手伝って話はとんとん拍子に進み、宝永五年(1708年)、竹姫は江戸城へと入りました。
こうして将軍の娘となった竹姫・・・と、将軍の娘となったからには、間もなく縁談の話が持ち上がります。
お相手は会津藩主・松平正容(まさかた)の嫡男・久千代・・・同年=宝永五年の7月には婚約が整い、翌年の春には結婚の儀が行われる事に・・・
ところが、そのわずか5ヶ月後の12月・・・その久千代が病死してしまうのです。
当然ですが、結婚の話は無かった事に・・・
例え年齢的に若かろうが、途中で話が無くなったとなれば、両親としては不憫に思うもの・・・すぐに朝廷に働きかけて、次の縁談を模索します。
やがて宝永七年(1710年)、有栖川宮正仁(ありすがわのみやまさひと)親王との婚約が決まり、同年の11月には結納も交されました。
しかし、この方も・・・享保元年(1716年)9月に、未だ正式な結婚を迎えないまま病死してしまうのです。
こうなると、彼女とは無関係にも関わらず「2度も婚約者を亡くした不吉な女性」とのレッテルが貼られる事になり、その後の縁談の話は、なかなか難航を極める事となります。
それを心配したのが、5代綱吉の後、6代家宣(いえのぶ)から7代家継の次に8代将軍となっていた暴れん坊・徳川吉宗・・・
この時、すでに正室の真宮理子(さなのみやまさこ)や、お須磨方(すまのかた)などの側室も亡くしていた吉宗は、自分が彼女と結婚しようと考えます。
享保八年(1723年)の日誌には「(竹姫を)正室に迎えたい」と、はっきり記録されています。
しかし、それに猛反対したのが、今は亡き6代将軍・家宣の正室であった天英院・・・吉宗にとっての竹姫は、実際には血縁関係は無くとも、戸籍上は大叔母に当たる女性ですから、「このような婚姻は人の道に外れる」というのです。
姉妹で同じ人に嫁いだり、兄妹でも母が違えば結婚の対象となった奈良時代とはワケが違いますから、そう言われればごもっともです。
そこで吉宗、竹姫を自らの養女にして、今度は、花嫁の父として嫁ぎ先を探し始めます。
しかし、ここに来てもなお、あの不幸な婚約者の噂が・・・・しかも、今度は、例の「正室にしたい」っていう吉宗に意向があった話が憶測を呼んで、吉宗と竹姫がラブラブだという噂までプラスされて、さらにハードル倍増です。
それでも根気よく探す吉宗・・・やっとこさ、似会いの人物を見つけます。
それは、薩摩の第5代藩主・島津継豊(つぐとよ)・・・早速、薩摩藩に話を持ちかけますが、実は、島津は、あまり乗り気じゃない・・・
もちろん、薩摩男児たる者、あんなつまらない噂を真に受けての拒否ではありません。
実は、この時、藩の財政がひっ迫していたのです。
将軍家から正室を嫁に取るとなると、その準備もハンパじゃありませんから、この困窮の中で、そのようなお金を出す余裕が無かったのです。
さらに、もう一つ・・・継豊には、すでに側室との間に男児がいましたから、もし結婚して、身分の高い竹姫との間に男の子が生まれでもしたら、後継者争いの火種となるかも知れません。
ややこしい事は避けたいのです。
そこで、早速、薩摩藩は条件を出します。
●隠居した前藩主が国に帰る事を許可
●竹姫に男児が生まれても世継ぎとしない
●江戸屋敷に水道を引く許可
将軍に対してこの条件・・・これ、けっこうな無理難題です。
そう、薩摩藩は、おそらくは納得しないであろう条件を出して、吉宗に、この結婚をあきらめてもらおうと思っていたのです。
ところがドッコイ、吉宗はあっさりOK!
こうして、享保十四年(1729年)6月・・・竹姫は3度目の正直とばかりに、ようやくジューンブライドの幸せを掴むのです。
ほどなく、二人の間には菊姫という女の子をもうけました。
とは言え、彼女が暮らしたのは、薩摩藩江戸屋敷の北側に下賜された土地に建てられた竹姫専用御殿・・・つまり、ずっと江戸で暮らしていたんですね。
延享三年(1746年)に、継豊は、藩主の座を長男の宗信(むねのぶ)に譲って隠居し、薩摩へと戻りますが、竹姫は江戸のまま・・・結局、そのまま、継豊は江戸に戻る事無く宝暦十年(1760年)に病死してしまいますので、二人がともに暮らしたのは、わずか17年間という事になります。
そのため、二人の結婚は・・・
「形だけの結婚だった」
「竹姫は相手にされず疎外されていた」
なんて事を言われたりしますが、どうやら、そうでは無い・・・と私は思います。
まず、二人の間には女の子が誕生しています。
確かに、17年の結婚生活でたった1人というのは少ないかも知れませんが、継豊さんが、けっこう病弱だったという話もあり、もし、病弱で無かったとしても、子供が少ないから仲が悪かったという話にはなりません。
それより何より、その後の竹姫の行動が、おそらくは、仲の良い夫婦であった事を感じさせてくれるのです。
それは、夫・継豊が薩摩に隠居した後に藩主となった長男・宗信・・・先にも触れましたように、この人は側室の子供・・・言わばライバルの子供とも言える宗信を、竹姫は自らの猶子(ゆうし)として本当の子供のように可愛がり、その全力でバックアップしています。
もし継豊と竹姫の夫婦仲が冷めきっていたのなら、そんな事は到底できないはず・・・夫を愛しているからこそ、他の女性が産んだその息子も、そして、その実家である薩摩藩をも盛り上げようという気持ちになるはずです。
残念ながら、その宗信は22歳の若さで亡くなってしまいますが、その後を継いだ宗信の弟・重年(しげとし)も、彼女は全面バックアップするのです。
しかし、その重年も・・・実は、この重年が藩主の時に、幕府の命令で行われたのがあの宝暦の治水工事です(5月25日参照>>)。
幕府の命令とは言え、多大な殉職者を出してしまったこの工事は宝暦の治水工事事件と「事件」という言葉を付け加えられるほど、薩摩藩の痛みとなったのです。
この心労により、重年は工事の終わった翌年、わずか27歳で亡くなってしまったのです。
その後継者となったのは、重年の息子・・・本家に入って島津重豪(しまづしげひで)と名乗り、第8代藩主を継ぎますが、この時、わずか10歳・・・
もちろん、竹姫は、この重豪も、我が子を慈しむように全面バックアップします・・・というより、ここで竹姫さん、パワーアップします。
なんせ、自分は将軍家から、この島津に嫁に来た身・・・にも関わらず、先の難工事を将軍家から押し付けられた事が、彼女を奮起させたのかも知れません。
「私こそが、将軍家と島津の架け橋にならずして、誰がなる!」
とばかりに積極的に動いた彼女は、その重豪の嫁に、一橋家の当主・徳川宗尹(むねただ)の娘・保姫を迎える事に成功するのです。
この結婚が宝暦十二年(1762年)・・・すでに夫・継豊は薩摩で亡くなり、彼女は尼となっていましたが、まだまだ手を休めません。
それこそ、愛する亡き夫のために・・・
竹姫は、重豪に女の子が生まれたら、その女の子を将軍家にお嫁に出そうと考えるのです。
しかし、残念ながら、未だ女の子の誕生を見ないまま、安永元年(1772年)12月5日、竹姫は68年の生涯を閉じました。
けれど、彼女の敷いたレールはしっかりと生きていました。
竹姫が亡くなった翌年に生まれた女の子=篤姫(または茂姫・後に近衛寔子)が、竹姫の残した遺言通りに、第11代将軍・徳川家斉(とくがわいえなり)の正室となるのです。
そう、あの大河ドラマで大人気となった篤姫が、島津斉彬(なりあきら)の養女となる時に、幸姫から篤姫に名前を変えるのは、この篤姫さんにあやかっての事・・・
宮崎あおいさんが演じた篤姫が13代将軍・徳川家定の御台所となったのは、この家斉に嫁いだ篤姫の前例があってこそ・・・それは、竹姫がその生涯を込めて願った将軍家と島津家の架け橋が、見事につながっていた結果だったのです。
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コメント
ご無沙汰しております。
竹姫さんのお話、つい最近物珍しさで読んだレディコミに載ってました(笑)。
内容は「呪われ説と自身のガタイを気にする竹姫と&それを励ます吉宗」という流れで、終始ラブラブでございました(もちろん吉宗さんはイケメンに描かれています)。この二人を巡る人間模様(結婚反対の天英院さんなど)がかなり丁寧に描かれていたので、中々面白かったです。
で、彼女が薩摩に嫁いでからの奔走ぶりをこうして茶々様に教えていただいて。
篤姫もビックリなゴッドマザー?竹姫さんのファンになりそうです!
投稿: 千 | 2011年12月 6日 (火) 13時37分
千さん、こんばんは~
レディコミに竹姫さんが!!
天英院さんの人物描写なんか興味津々ですね~
ホント篤姫もですが、コチラもすごく大きい人ですね。
投稿: 茶々 | 2011年12月 6日 (火) 18時59分