浅井三姉妹の次女・初と大坂の陣
慶長十九年(1614年)12月19日、大阪冬の陣において櫓の破却と惣堀を埋めることなどを条件に講和が成立しました。
・・・・・・・・・・・
和睦に至る大まかな流れは、以前の12月19日のページ(5年も前の記事ですがよろしければ…2006年12月19日参照>>)に書かせていただいておりますし、個々の戦闘や詳細については、【大坂の陣の年表】>>で、それぞれ見ていただくとして、本日は、その和睦交渉で大阪方の交渉人となった常高院(じょうこういん)こと、お初さんを中心にした大坂の陣を・・・
・‥…━━━☆
お初さんは、ご存じ、今年の大河ドラマの主役=江(ごう)のすぐ上の姉・・・浅井三姉妹の次女で、ドラマではお菓子ばっかり食べてた人ですね。
姉の茶々(淀殿)や江とともに、父の浅井長政が亡くなった(8月27日参照>>)後に、母・お市の方が再婚した柴田勝家とともに暮らし、その勝家を滅ぼした(4月23日参照>>)羽柴(豊臣)秀吉のもとから、名門・京極家の若き当主・京極高次に嫁ぎます。
とは言え、この京極家・・・すでに後継者争いにつけ込まれたのをキッカケに没落しはじめ(3月9日参照>>)、高次が当主になった頃には、もはや往時の威勢もなく、さらに、あの本能寺の変の時に明智光秀に味方した事から、もはや風前の灯となっていたのを、高次のベッピンの姉ちゃん(妹とも)・龍子が、秀吉に見染められて側室になった事で何とか持ち直した・・・って感じの頃・・・
しかし、結婚した限りは頑張らねば!とハッスルする嫁・初のおかげで、その後さらに持ち直し・・・と、姉や嫁の七光で出世を勝ち取ったとして、高次さんが「ホタル大名」なんて呼ばれてたというお話も以前させていただきましたが・・・(5月3日参照>>)
やがて関ヶ原では居城の大津城で踏ん張った(9月7日参照>>)後、未だ権勢を持つ豊臣家との融和作戦をはかる徳川家康の配慮で、家康の三男・秀忠と江の間に生まれた長女・千姫が、秀吉の遺児・豊臣秀頼に嫁ぎますが、これと同時期に、江の生んだ四女を、初は養女とします。
それは、初との間には子供がいなかった高次が、側室との間に男の子=忠高をもうけていた事で、将来は、その忠高とその養女を結婚させる事で、実子のいない初の正室としてのメンツを保つというダンドリで、これも、家康の融和作戦の一つだったとも言われます。
やがて慶長十四年(1609年)、夫・高次が亡くなり、初は剃髪して常高院と称し、京極家の跡目は忠次が継ぎます。
(ややこしいので名前は初さんのまままで…)
出家という比較的身軽な身分になった初は、その頃から、頻繁に大坂城にいる姉・淀殿を訪ねるようになりますが、やがて、例の方広寺の鐘銘事件(7月21日参照>>)で、なにやらきな臭い雰囲気が漂いはじめると、さらに、大坂城に滞在する事が多くなります。
・・・で、以前【事実は大河ドラマよりも奇なり~豊臣秀頼の子供たち】>>で書かせていただいたように、『大坂陣山口休庵咄』によれば、この頃に、国許の若狭で密かに預かっていた秀頼の息子・国松を、自分の荷物に隠して入城させています。
そして間もなく、慶長十九年(1614年)11月26日の鴫野・今福の戦い(11月26日参照>>)の激突で、事実上、大坂冬の陣の幕が切って落とされるわけですが、強固な惣構えを持つ大坂城は難攻不落・・・家康が包囲したとて、そう簡単に落とせる物ではなく、しかも、12月4日には、あの真田丸の攻防(12月4日参照>>)で、徳川方は大量の死者を出してしまいます。
こうなったら無理をせず、まずは講和に持ちこむ事を模索する家康は、夜ごと鬨(とき)の声を挙げさせたり、「天守閣の下まで穴を掘ってやる」と、これ見よがしに穴掘り工事を始めたり、約300挺の大砲で当たりもしない弾をぶっ放してみたり・・・と相手を疲れさせての心理揺さぶり作戦にでます。
とは言え、照準定まらぬ大砲も数撃ってみるもんです。
そのうちの2発が、偶然にも天守閣を直撃(12月16日参照>>)・・・これで、大坂城内の気運は、一気に講和へと傾きはじめます。
その後、水面下でどのような話し合いが行われたのかは記録に残りませんが、12月18日と19日の両日、講和に向けての話し合いが行われる事になったのです。
その大坂方の代表者が初でした。
本来なら、大坂方の重鎮である織田有楽斎(うらくさい・信長の弟)(12月13日参照>>)や大野治長でも良かったわけですが、もともと彼らは抗戦には反対の立場にあったわけで、未だ城内には多くの抗戦派がいる中で、彼らが代表になれば、何かと波風が立つ・・・その点、出家の身でありながら、淀殿・秀頼との血縁もあり、徳川にも妹が嫁いでいる彼女なら・・・しかも、彼女は徳川方で参戦している忠高の嫡母って事で、その立場上、これほどの適任者はいなかったでしょう。
もちろん、その忠高の働きかけもあったでしょうが・・・
こうして大軍団がにらみ合う中、忠高の陣にて和睦交渉が開始されます。
徳川方の代表者は、初に合わせて、コチラも女性・・・家康の側室でブレーン的な役割も果たしていた阿茶局(あちゃのつぼね)(1月22日参照>>)を立て、お目付役に本多正信。
初日の交渉は決裂したものの、2日目・慶長十九年(1614年)12月19日、やっと交渉が成立しました。
これによって、秀頼は大坂城と現状の知行を確保し、淀殿が人質に取られる事もなく、大坂方に味方した浪人たちが罪に問われる事もありませんでしたが、その代わりに、惣構えから二の丸に至る防御施設の破壊という苦汁の条件を飲む事になります。
おそらく、この、最後の条件に関しては城内の反対も大変な物だったと思われますが、初は、まずは、守るべき物の優先順位を決めるところから考え、現在の所領>淀殿の身>豊臣を支援してくれた者たち・・・と来て、一番譲れる条件として、堀を埋める事を飲んだという事なのかも知れません。
よく、「堀を埋めてしまっては裸城同然なのだから、この初の交渉は失敗だ」という意見も聞きますが、おそらく、初が城内の雰囲気そのままに、大坂方の代弁者として交渉にのぞんでいたら、講和の成立は無かったかも知れません。
この時点で「講和なんてクソ喰らえ!このまま城を枕に討死じゃい!」てな考えならともかく、あくまで講和を成立させる事が重要だったなら、何かしらの条件を飲まなければならないわけで、初の中で、最も優先順位が低かったのが惣構えの破却だったという事・・・なんせ、その工事の奉行に任命されるのが、息子の忠高なのですから・・・
しかし、いざ実際に工事が始まると、その様子を見た大坂方に動揺が走ります。
もはや、抗戦派の動きは徐々に抑えきれなくなり、翌・慶長二十年(1615年)、早くも2月頃から、埋められた堀を復旧する者たちが現われ、その様子は、即座に京都諸司代より家康に報告されます。
そして3月には「大坂方が伏見に放火して回った」「大坂方が再び浪人をかき集めている」との噂が立ち、いよいよ家康は再戦の決意を固め、弁明に訪れた大坂方の使者に、「秀頼に大坂城を出て、大和か伊勢に転封に応じるか、浪人を放逐するか、どちらかを選ぶように」との条件をつきつけます。
この時、初は淀殿の命を受けて駿府へと向かい、九男の結婚式のため(結婚式は口実で、これが事実上の出陣とされます)に名古屋に行こうとしている家康に謁見しますが、もはや家康は、彼女の弁明を聞く耳を持たず・・・それでもあきらめず、出立した家康を追っかけて、再び面会しますが、「もう、その件はええって!」とつれない返事・・・
さらに、名古屋城に入ってからも、またまた家康に会いますが、またしても追い返されます。
そして4月24日・・・すでに二条城に入っていた家康に呼び出された初は、最後通牒とも言える、「国替えが嫌なら浪人を追放せよ」の条件が書かれた家康の書状を受け取る事になります。
初が持ち帰った書状を見た秀頼は
「弓矢の事に女の指図は受けたないんじゃ!2度と顔見せんなや!」
と激怒・・・(ホンマやったら、ちょっとキツイぞ!秀頼クン(ノ_-。))
しかし、初は、大坂城を出ませんでした。
やがて4月26日・・・治長の弟・大野治房(はるふさ)と、後藤又兵衛基次(ごとうまたべえもとつぐ)配下の兵を含む約2000が大和郡山城を攻めた(4月26日参照>>)のを皮切りに、ご存じの大坂夏の陣(5月6日参照>>)へと突入します。
初は落城寸前まで、姉・淀殿のそばを離れず、「生きてこそ、先の道が開ける」と説得したようですが、逆に、淀殿に城を出るように諭され、やむなく大坂城を後にします。
彼女の大坂城脱出の様子は、途中に出会った淀殿の侍女・お菊が語る『おきく物語』(5月7日参照>>)に記されています。
・・・と、その後のお初さんについても書きたいところですが、お話が長くなりましたし・・・そのお話はいずれまた・・・
.
「 家康・江戸開幕への時代」カテゴリの記事
- 関ヶ原の戦い~福島正則の誓紙と上ヶ根の戦い(2024.08.20)
- 逆風の中で信仰を貫いた戦国の女~松東院メンシア(2023.11.25)
- 徳川家康の血脈を紀州と水戸につないだ側室・養珠院お万の方(2023.08.22)
- 徳川家康の寵愛を受けて松平忠輝を産んだ側室~茶阿局(2023.06.12)
- 加賀百万石の基礎を築いた前田家家老・村井長頼(2022.10.26)
コメント
大河ドラマでは お菓子ばっかり食べていたお初さんですが、三姉妹の中では最もアクティブに動いています。大津城の攻防を中心に、その前後の大坂と江戸を描いた方がバランスがとれるのに、センス無いですよね。
講和の評価は難しいです。豊臣方は履行の条件を甘く考え、徳川方はきつきつにやった。お初さんの責任ではないような気がしますが、彼女が大なる責任を感じたことは、夏の陣直前の激しい動きからも偲ばれます。
投稿: レッドバロン | 2011年12月20日 (火) 18時17分
レッドバロンさん、こんばんは~
そうですね、
おっしゃる通り、徳川は厳しかったし、豊臣は、それを甘く見ていた…って感じですね。
でも、お初さんとしても「他にやりようなかった」って気がしてます。
投稿: 茶々 | 2011年12月20日 (火) 18時43分
茶々さま 仰せのとおり。これ以外、講和をまとめる方法は無かったと思います。浪人衆と違って掘は 文句を言いませんしね。
政治的な判断は、時間の経過と共に、しだいに選択の余地が無くなるものでありまして。
家康と違って秀忠が豊臣に対して協調路線というなら、時間を稼ぐ手はあったでしょうが、実際はそうでないですよね。
投稿: レッドバロン | 2011年12月20日 (火) 20時33分
籠城する方は正直、どうしようもない部分がありますからね。
謙信や信玄あたりの群雄割拠の時代ならともかく、不十分とはいえ徳川の時代になりかかった1615年頃ではなかなか相手も引きませんし。
講和条件としてはベストをつくした内容かなと思います。
つめが少しあまかったかもですが
ああ…初の活躍がもっと観たかったです…。
(。>0<。)
投稿: ティッキー | 2011年12月20日 (火) 21時24分
レッドバロンさん、こんばんは~
今年の大河秀忠のような人なら、チンタラやって家康が死ぬのを待っとけば良かったかも知れませんが、実際の秀忠さんは、秀頼&淀殿の命乞いを条件に大坂城を脱出した千姫に、「そんな事頼まれてノコノコ逃げてくんな!なんで、その場で自決せんかってん」って怒ったと言われてるくらいヤル気満々でしたもんね~
投稿: 茶々 | 2011年12月21日 (水) 01時13分
ティッキーさん、こんばんは~
ホント、初さんの活躍をもっと見たかったですね~
あれでは水川あさみさんにも気の毒…ただの、品の無い女にしか見えませんでした。
投稿: 茶々 | 2011年12月21日 (水) 01時14分
う~ん、すごい。女性2人による外交交渉。ここだけにスポットを当てたドラマを見てみたい。この時代の女性は本当に魅力的。なよなよしたり、きりきりヒステリーをおこしたりするでなく、大和撫子かつ聡明な外交官でもあったのでは?市川森一さんに脚本を書いていただきたかった・・・
投稿: Hiromin | 2011年12月22日 (木) 21時39分
Hirominさん、こんばんは~
そうですよね~
茶々と秀吉がくっつくか、くっつかないかより、ここらあたりの初の行動とそれに伴う徳川&豊臣の思惑と状況…そして、遠くから、それを見守る江。
そのへんが、よほど見たい部分だったですが…
投稿: 茶々 | 2011年12月23日 (金) 02時08分