室町幕府の佞臣・伊勢貞親が残した物は…
文明五年(1473年)1月21日、応仁の乱のきっかけを作ったとして『室町幕府の佞臣』と称される伊勢貞親が亡くなりました。
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佞臣(ねいしん)とは、「その心根が不正な家臣」という意味・・・そんな不名誉な冠をつけられた伊勢貞親(いせさだちか)・・・
貞親の伊勢氏は、桓武平氏の流れを汲む家柄で、室町幕府の中では、3代将軍・足利義満の時代から代々政所執事を務め、将軍の直轄領を管理するなど、幕府の重要な政務を任されていました。
さらに、伊勢氏は、将来将軍となる後継ぎの養育係でもあり、貞親の場合は、8代将軍となる足利義政を自宅で預かり、義政が幼い頃から、ともに寝起きした間柄・・・なので、義政は貞親の事を「御父」と呼んでいたとか・・・
こういう場合、得てして、将軍と言えど、育ての親には何となく頭が上がらず、ついつい、その言い分を聞いてしまう物・・・
案の定・・・それを良い事に、幕政やら後継者問題やら、なんやかんやと首を突っ込んで来る貞親・・・
もちろん、状況を冷静に判断し、幕府の事を思って首を突っ込んでくれるなら、それはそれで忠臣という事になって、むしろ良い事なわけですが、貞親の場合は、そこに、私利私欲や独断と偏見が入り、さらに、その場その場で意見が変わる無節操さがミックスされて、モメ事のタネをまきまくりなのです。
たとえば、管領家の斯波氏で、第10代当主の斯波義敏(しばよしとし)と守護代の甲斐常治(かいじょうち)がモメた時など、将軍義政は、「義敏が正しい」として常治に処分を下そうとしますが、貞親がそこに「待った!」をかけ、なんと、裁定をくつがえしてしまいます。
それも、その理由が、愛妾=カノジョに頼まれたから・・・実は、この貞親のカノジョ、常治の妹だったのです。
つまり、モメた内容とは関係なく、カノジョの言う通り味方しちゃったわけで・・・
しかも、その10年後・・・今度は、斯波義廉(しばよしかど)が11代当主となっていた時に、先ほど、貞親のせいで失脚させられてしまった義敏が、「何とか復帰したい」と願ったのを聞いて、それを幕府に働きかけたのは、誰あろう貞親・・・
これも、また、当時のカノジョ(さっきとは別人)が、義敏のカノジョと姉妹だったから・・・つまり、またまた、カノジョに「姉ちゃんのカレシ、何とかウマイ事としたってぇや」と頼まれての行動・・・こりゃ、モメます。
とは言え、伊勢氏は将軍の息子養育係・・・当然ですが、義政と、その奥さん・日野富子との間に生まれた義尚(よしひさ)の養育係も務めます。
しかし、ご存じのように、義政・富子夫婦には、なかなか子宝に恵まれなかった事から、義尚が生まれる直前に、出家していた義政の弟・義視(よしみ)を還俗(げんぞく・出家した人が一般人に戻る事)させてまで、次期将軍に指名してしまっていました(1月7日参照>>)。
「アカン!このままでは、僕の育てた義尚くんが将軍になられへん!」
と思った貞親は、義政に
「義視は、山名宗全(やまなそうぜん)と組んで、アンタはんを倒そうとしてまっせ」
と、あらぬ告げ口を・・・
それを信じた義政は、もうちょっとで義視を殺害してしまうところでしたが、寸前のところで、このウソが発覚・・・当然、名前を出された宗全は、怒りプンプンです。
しかも、この時、本来なら、宗全とは微妙な関係であった細川勝元(かつもと)まで、「あまりにヒドイ!」と宗全の味方に・・・さらに、各大名たちも、こぞって、「貞親を切腹の処分に…」と、義政に進言します。
これを知った貞親・・・なんとトンズラ!!!
近江に逃亡しその身を隠してしまいます。
空席となった伊勢家の家督は、以前、貞親に勘当されてしまっていた息子・貞宗(さだむね)が継ぎ、未だ幼い義尚は、そのまま伊勢家で養育される事に・・・
そうなんです。
実は、この息子の貞宗さん・・・おやじさんが、以前、斯波氏のモメ事にチョッカイ出してた時に、父の行動を批判したために、勘当されていたんですね。
・・・と、ここで事は丸く納まった・・・と思いきや、そのわずか1年後、あの応仁の乱が勃発します。
そこにタイミング良く、乱勃発のドサクサで戻って来た貞親を、なんと義政は受け入れて復帰させてしまうのですが、これが応仁の乱をややこしくします。
と言っても、どうやらこれは富子の画策のようなんですが・・・(5月20日の後半部分参照>>)
ややこしい話は、上記のページで見ていただくとして、とにかく、おおまかに言いますと・・・
かつて自分を殺そうとした貞親が、自分がいる東軍に入った事で、義視は西軍の山名宗全を頼り、もともと宗全を頼っていた富子が、義尚を連れて、夫・義政と貞親のいる東軍に行く・・・と、将軍の後継者争いしてた両者が入れ替わる事態に・・・
そんなドタバタをしながら続いていた応仁の乱ですが、さすがの貞親も寄る年なみには勝てず、息子も立派になった事もあって文明三年(1472年)に隠居・・・2年後の文明五年(1473年)1月21日、応仁の乱の終結を見る事なく、57歳の生涯を閉じたのでした。
その後、3月には西軍の大将=山名宗全、その2ヶ月後には東軍の細川勝元と、大物が相次いで亡くなる事になります(3月18日参照>>)。
と、ここまで書けば、ホント貞親さんって、ただのトラブルメーカーで良いとこ無し!・・・って感じですが、一方では、制度改革を行って幕府財政の立て直しに成功していたという話もあり、マジメにすれば、ちゃんとヤレる人でもありました。
その集大成と言えるのが、貞親の後を継いだ息子=貞宗です。
貞親は、息子に対して『伊勢貞親教訓』という、38カ条にも及ぶ教訓状を残しているのですが、そこには「あの貞親が!?」と思うほど、すばらしい事が書いてある・・・
「人は生まれながらにして物を持っているのではなく、人の言う事を聞き、人の雰囲気や外見を見て学んでいく物・・・耳に聞く事を第一の利得とせよ」
「武士たる者、弓馬の稽古を1番にせよ・・・あとは見苦しくない程度で良い。歌や芸能の稽古も大事やけど、それが見苦しくても恥ではないが、弓馬が見苦しければ恥となる」
「別にオシャレなんかせんでええ・・・若者でも地味な服装でええねん。人に勝たなアカンのは、合戦での手柄・功名だけで、それ以外は普通でええねん」
「酒は人との仲立ちをしてくれる・・・その雰囲気でご無沙汰してる人とも親しくなれるし、仲間ともウマイ事行くから世間の評判も良くなる・・・その気がない時でも1杯やってみたら良いで」
「どんなけアホな相手でも、例え嫌いな相手でも、向こうが会いに来たら、いそいそと愛想ふって出かけてやらなアカン! 嫌な顔されたら好きな者でも嫌いになるし、感じ良かったら敵対してる者でも好感を持ってくれるんやさかい・・・笑顔大事やで~」
・・・って、「どの口が言うとんじゃ~o(゚Д゚)っ!!」ってな、すばらしいお言葉の数々・・・
そう、
実は、息子の貞宗さん・・・この父の言葉を教訓に、それに似合わぬ態度を反面教師に・・・見事な武将に成長するのです。
父の死後は、応仁の乱の収拾に尽力し、その後、義尚が9代将軍になると、その補佐役となり見事にサポート・・・高い政治力が評価を受けて、執事でありながら山城国の守護にも任命されるという異例の待遇を受け、あの山城の国一揆(12月11日参照>>)の収拾にも奔走しています。
さらに、11代将軍の足利義澄(あしかがよしずみ)の補佐役も務め、明応の政変 (4月22日参照>>)で 実権を握った細川政元(勝元の息子)さえも、貞宗には一目置いていたとか・・・
思えば、トラブルメーカーだった貞親さんの室町幕府への最も大きな功績は、貞宗さんという息子を次世代に残した事かも知れません。
良いプレイヤーが良い指導者になるとは限りません。
性格の良い父親が良い子育てをできるとも限りません。
この父がいればこそ、この息子がいた・・・のかも知れませんね。
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コメント
北条早雲と伊勢貞宗は従兄弟だそうですね。
そうなると北条早雲(若い時は伊勢盛時)は伊勢貞親とは当然面識があるかも。
投稿: えびすこ | 2012年1月21日 (土) 20時17分
えびすこさん、こんばんは~
「北条早雲は伊勢貞親の妹の子」
というのが、最近は主流になりつつありますね。
若い頃の早雲は、謎の多い人ですから、どうかわかりませんが、その説では、将軍家への仕官に口利きしたのは貞親だと言われてます。
投稿: 茶々 | 2012年1月22日 (日) 02時47分