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2012年1月 3日 (火)

日本初の譲位と重祚…斉明天皇の即位

 

斉明天皇元年(655年)1月3日、第34代・舒明天皇の皇后だった宝皇女が、飛鳥板葺宮で重祚し、第37代・斉明天皇となりました。

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宝皇女(たからのひめみこ)は、第30代・敏達(びたつ)天皇の孫である茅渟王(ちぬのおおきみ)を父に、第29代・欽明(きんめい)天皇の孫である吉備姫王(きびひめのおおきみ)を母に持つ皇室の皇女として生まれますが、上記の敏達天皇は欽明天皇の息子という、この時代にありがちな身内同志の父と母でした。

Keizukoutokutennou_3 そんな中、宝皇女は最初、高向臣(たかむくのおみ)という、ほとんど史料に登場しない男性と結婚していますが、間もなく死別し、その後、田村皇子(後の舒明天皇)と再婚するのです。

これには、少し前に誕生した日本初の女帝=第33代・推古(すいこ)天皇の事が影響しているのかも知れません。

推古天皇は、皇位を継ぐべき皇子が幼いための次世代への橋渡し=中継ぎの天皇として即位しましたが(12月8日参照>>)、こういう前例ができた以上、万が一、この先も、同じように、男系男子への皇位継承が難しくなった時に、亡き天皇の皇后だった人が女帝として即位する可能性もあるわけで、その時に、その女性が皇族で無かったら、ちとマズイ・・・

つまり、ひょっとしたら皇位につくかも知れない皇后という地位につく人は、天皇家の血筋でないと困る・・・という事で、当時、奥さんが豪族出身の姫しかいなかった田村皇子のもとに、将来の皇后候補として、すでに前夫と死別していた彼女が嫁いだというワケです。

そんな宝皇女は、夫・舒明(じょめい)天皇との間に、二男・一女をもうけますが、この2人の息子が、この後、日本の歴史を大きく動かします。

兄が中大兄皇子が後の天智天皇で、蘇我氏を倒して(6月12日参照>>)大化の改新の行う人・・・

弟の大海人皇子(おおあまのおうじ)が後の天武天皇で、壬申の乱の後に日本という国家の基礎を作る人・・・(2月25日参照>>)

こんなズゴイ人物二人の母である宝皇女ですが、以前、ずいぶん前に、そのご命日の日に書かせていただいた記事(2006年7月24日参照>>)でも、「何となく周囲に振り回された感がある」・・・つまり、自分の意思ではないところで天皇としてまつりあげられ、彼女自身の心の内があまり見えないところがあるように思うと書かせていただきましたが、一方では、彼女は、日本初の天皇家にとって歴史的出来事を二つ実行しています。

それは譲位(じょうい)重祚(ちょうそ)・・・

譲位とは、それまで、天皇が亡くなってから次の天皇に譲っていた皇位を、未だ健在の時に自ら退位して、次の後継者に皇位をを譲るという事・・・

重祚というのは、一度天皇となった人が一旦退いた後、再び皇位につくという事・・・

どちらも、彼女が日本初です。

しかも、最近では、この二つの事に関して、周囲のお膳立てにただ乗っかったのではなく、彼女自身のしっかりした考えで行った彼女主導の行為であるとの見方も出て来ているのです。

それは、譲位と重祚・・・この二つが、ともに、我が子=中大兄皇子に皇位を継がせるための、母の気持ちから出た行為だったという考え方です。

Kougyokuzyotei590 夫である舒明天皇が亡くなった後、第35代・皇極(こうぎょく)天皇となっていた彼女ですが、その時に起こったのが、息子=中大兄皇子による蘇我入鹿暗殺事件乙巳(いっし)の変・・・

その時、この政変を受けて、日本初の譲位をする彼女は、ひょっとしたら息子の中大兄皇子に皇位をい譲りたかったのかも知れません。

しかし、中大兄皇子は、この時には、まだ20歳の若者で皇太子でもありませんし、クーデターを起こした張本人でもある・・・しかも、譲位が日本初なら、女帝からその息子へ直接皇位を渡すのも日本初・・・

そこで、ワンクッション置くため、彼女の実の弟である軽皇子(かるのおうじ)=孝徳天皇への譲位という事にした・・・もちろん、当の中大兄皇子は、ここで正式に皇太子(孝徳天皇の後継者)となります。

その後、孝徳天皇のもと、都は難波に遷され、数々の大化の改新が成される事になりますが、結局、その体制も長く続かず・・・反対する孝徳天皇を残して、皇太子の中大兄皇子以下、皆々が飛鳥に帰ってしまい、孝徳天皇は失意のまま、この世を去っていましました。

そんな孝徳天皇の死を受けて・・・
斉明天皇元年(655年)1月3日宝皇女は、再び、第37代・斉明天皇として即位するのです。

これが、日本初の重祚・・・

すでに中大兄皇子が、孝徳天皇のもとで皇太子になっているのですから、その後継として中大兄皇子が天皇になっても良いものを、あえて、母の宝皇女が、初の試みの重祚を行って天皇になる・・・

譲位と重祚、二つの出来事を彼女主導とする意見では、ここに、彼女の母としての心が垣間見えるとされます。

孝徳天皇の反対を押し切って飛鳥に戻り、難波に残された天皇が寂しく亡くなる・・・「何となく孝徳天皇を死に追いやった感のある息子が、その直後に天皇になれば、何かと厳しい批判の矢面に立つかも知れない」

そんな批判をかわすための母心が、彼女が再び天皇となった理由ではなかったか?
という事なのです。

もちろん、これは、あくまで一つの推理です。

以前書かせていただいたように、すべてが中大兄皇子主導で行われていたのかも知れませんし(2011年1月3日参照>>)、第一、記紀』自体が天武天皇系列の正統性を主張するために歴史書ですから、たとえ同時代にあった出来事でも、果たして、ちゃんと事実を記録しているのかさえ危うい(3月17日参照>>)わけですから・・・

ただ、これまで、その心の内を垣間見る事さえできなかった宝皇女が、自らの意思で、母の心を以って譲位&重祚という日本初の試みをしたのだとしたら、それはそれで、なんだか、心ワクワクする推理だなと思った次第です。
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コメント

いわゆる「大化の改新」の数年前までは後継者未定なのは、候補者が多かったと言う事情もあるのかな?中大兄・大海人兄弟より年長の皇子(従兄弟の古人大兄皇子ら)がいたので。「聖徳太子が最初の皇太子」と言われますが、この当時はまだ常設ではないですね。
皇極天皇の退位のくだりは「天上の虹」にも描写されていて、皇極天皇自身が息子の中大兄を後継指名しています。
皇極天皇の孫の持統天皇も似たような事情で、「中継ぎ」役を務めて譲位(現在この辺まで「天上の虹」に描写されています)していますね。

投稿: えびすこ | 2012年1月 4日 (水) 10時05分

えびすこさん、こんばんは~

個人的には、このあたりは、まったく謎ですね。

私としては、通説とは違い、蘇我氏こそが王だったと睨んでいますので、政権を持たない天皇家にとって皇太子も何も無かったような気がします。

投稿: 茶々 | 2012年1月 4日 (水) 19時03分

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