満月の陰り…道長の息子・藤原顕信の出家
寛弘九年(長和元年・1012年)1月16日、藤原道長の三男・藤原顕信が出家しました。
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♪この世をば わが世とぞ思ふ 望月の
欠けたることも なしと思へば ♪
「この世は自分のためにある物・・・この満月は欠ける事は無い」
ご存じ、有名なこの歌は、平安時代に栄華を極めた藤原道長が、寛仁二年(1018年)10月16日に詠んだ一首です。
寛仁元年(1017年)12月4日に太政大臣となった道長・・・その翌年に、第66代・一条天皇の中宮となっていた長女・彰子(しょうし)が生んだ孫が第68代・後一条天皇として即位した、その時に詠んだのです(10月16日参照>>)。
他の娘も天皇家に嫁がせていた道長は、この後一条天皇の後も、第69代・後朱雀天皇、第70代・後冷泉天皇と外戚(母方の祖父)をゲットして、約30年間に渡って君臨するのです。
寛弘九年(長和元年・1012年)と言えば、その5年前・・・
寛弘五年(1008年)の長女・彰子に続いて、その3年後の寛弘八年(1009年)には次女の妍子(けんし)が第67代・三条天皇に入内した、まさに、道長が飛ぶ鳥を落とす勢いの時・・・
そんな寛弘九年(長和元年・1012年)1月16日、道長は、突然、その知らせを耳にします。
三男の藤原顕信(あきのぶ)が、行願寺(ぎょうがんじ=革堂)の僧・行円(ぎょうえん)のもとを訪ねた後、そのまま何の連絡も無しに比叡山に登って出家をしてしまったのです。
顕信が訪れた行願寺(革堂・京都市中京区)
行願寺のくわしい場所は、本家HPの「京都・魔界マップ」へ>>
確かに、無益な後継者争いを防ぐため、家督を継ぐべき長男以外の次男・三男が出家をするという事はあるでしょう。
しかし、それは、継ぐべき領地、つける役職がある程度限られた場合がほとんど・・・今回の場合、もう間もなく、天皇の外戚として権力を奮う事は間違いなく、さらに重要な役職を一族で固める事は、目に見えている状況なわけです。
未だ19歳の若さの息子・顕信・・・父として将来を期待していただけに、ショックは大きかった事でしょう。
道長のその日の日記には、
「本意だろうから、諭しても無駄だろう」
と、息子の意思を尊重する父の気持ちが書かれています。
一説には、その少し前、当時、空席になっていた蔵人頭(くろうどのとう=天皇の秘書)に顕信を・・・と、三条天皇からの打診があったのを、道長が「適さない」として断わった事で、顕信が自信を失った、あるいは、将来に不安を感じた・・・とも言われますが、もともと、仏教に心ひかれる優しい少年だったという事なので、その性格よる物だったのかも知れません。
出世街道まっしぐらの父や、昇進&昇進と躍起になる周囲の貴族たちに、彼は、もう疲れきっていたのでしょう。
とは言え、権力者の道長とて、1人の父親・・・なんだかんで息子が心配なのか、この3ヶ月後には自ら比叡山に登り、僧衣など、生活に必要な品々を手土産に面会し、しばしの間、父子で語りあったと言います。
比叡山では長禅(ちょうぜん)と号していた顕信・・・
心やさしき人は、そのぶん、弱かったのか?
万寿四年(1027年)5月14日・・・未だ34歳の若さで亡くなってしまいます。
「この満月は欠ける事はない」
あたかも、「何も怖い物はない!」と豪語するかのような道長のこの歌・・・
顕信の事を知らなければ、その言葉通りに、栄華を極めて頂点に立った男の、満面のドヤ顔をした自慢の一首に聞こえます。
しかし、顕信の出家から6年後に、この歌が詠まれたと知った今・・・
ひょっとしたら、息子と同じく、今にも壊れそうな自分を、必死で強がって見せている父親の叫びだったのかも知れません。
なぜなら・・・
顕信の死を知らされた道長は、そのわずか7ヶ月後の万寿四年(1027年)12月4日に、自らが建立した法成寺の阿弥陀仏に見守られながら、まるで息子の後を追うように、その62歳の生涯を終えてしまうのです(12月4日参照>>)から・・・
満月なら、必ず、また欠けるはず・・・
しかし、もはや走り続けなけらばならず、欠ける事を許されない望月の、たった一つの陰りを象徴する物が、顕信の出家だったのかも知れません。
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コメント
茶々さん、こんばんは。
道長が晩年、相次いで娘3人に先立たれたのは知っていましたが、このような経緯で出家してしかも若くして先立ってしまった息子さんがいたことは知りませんでした。
1025年7月に三女寛子を、8月に六女嬉子を亡くし、1027年5月に三男顕信を、9月に次女妍子を亡くし、そして自分も12月に息を引き取る・・・書いてるだけでいたたまれないです
。
けど道長の奥さん・倫子と明子はそれぞれ90歳と80歳代の長寿を全うしていますね。私は介護の仕事をしているのでいつも思うのだけど、今も昔も年取ってもたくましいのは大方は女性の方ですよね(笑)。
投稿: ZAIRU | 2012年1月17日 (火) 23時26分
ZAIRUさん、こんばんは~
本日は、主役である顕信さんに終始してしまいましたが、そうですね、娘さんも相次いで亡くなっていますね。
栄華を誇った道長が…切ないですね。
投稿: 茶々 | 2012年1月18日 (水) 01時55分
定子さんについて、追う中でこちらへ。歴史のややこしい関係が、よくわかり素敵です。<この新年をばわが信念と思う待ち春に書けたるばかりの筆はじめ>。ありがとうございました。
投稿: 桂川 嵐 | 2017年1月 1日 (日) 17時59分
桂川 嵐さん、コメントありがとうございます。
「よくわかる」と言っていただけるとウレシイです。
また、遊びに来てくださいませ。
投稿: 茶々 | 2017年1月 2日 (月) 04時27分