新田義貞・京を奪回!
延元元年・建武三年(1336年)1月27日、三井寺に駐留していた足利尊氏軍を、新田義貞率いる後醍醐天皇軍が攻撃・・・天皇軍が京都を奪回しました。
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第96代・後醍醐(ごだいご)天皇が、足利尊氏(高氏)、新田義貞、楠木正成らの味方を得て、鎌倉幕府を倒して(5月22日参照>>)行った、ご存じ、建武の新政(6月6日参照>>)・・・
しかし、功績のあった武士たちより公家を優先する改革は、行ったしりから不評続き・・・ガタガタ状態でいっこうにうまく進みません。
そんな中、関東で起こった反乱の鎮圧を命じられた尊氏は、乱を鎮圧した後も京へは戻らず、逆に、反・後醍醐天皇を打ち出して京へと攻めよせます(12月11日参照>>)。
すでに、上記の新政で不満ムンムンの各地の武士たちが尊氏のもとに馳せ参じ、80万の大軍に膨れ上がった足利軍が京を制圧すると、やむなく、後醍醐天皇は比叡山へと逃げ込みます。
天皇方は、ここ比叡山を拠点に、北国や奥州からの支援を待つ作戦に出ます。
一方の尊氏は、当時、比叡山と敵対関係にあった三井寺(園城寺)に対して、伽藍造営の約束と引き換えに駐留を認めさせ、ここを拠点にします。
やがて、都の急を聞いて、東北から昼夜を問わず駆けのぼって来た北畠顕家(あきいえ)軍が天皇方に合流・・・
こうして東国の援軍を得た天皇側は、顕家・義貞以下、主だった諸将を集めての作戦会議の末、建武三年(1336年)の正月、全軍を以って、三井寺に総攻撃を仕掛ける事を決定しました。
一方、尊氏から三井寺駐屯隊の指揮を任されていた細川定禅(じょうぜん)は、この総攻撃を察し、尊氏に援軍を要請しますが、なぜか尊氏は援軍をよこさず・・・
そのために、最初は一進一退の防御で踏ん張っていた尊氏軍も、新田軍の精鋭陣に楼門を突破されると、一気に形勢は天皇方へ・・・なだれ込む新田軍によって、三井寺の僧兵も、駐留軍の将兵も、もはや、猛火に焼かれるか、自害するか、逃亡するか・・・すべて散り散りになり、三井寺での戦いは天皇側の大勝利となりました。
その勢いのまま、尊氏軍の追撃を開始する新田軍・・・
これに対して駐留軍は、ただひたすら京を目指して撤退・・・ちょうど、三条河原にて出撃準備をしていた尊氏のもとへ、その敗走軍がなだれ込んで来ます。
ここで、駐留軍と本隊と合流したという事は、足利軍の総勢は、おおもと80万近く・・・一方の新田軍は、わずか2万なれど、少数を活かした機動力バツグン作戦によって連戦連勝し、逃走一方の足利軍にあった尊氏が3度自害を考えたけれど、ちょうど日没となったために、新田軍が追撃を休止した事で、尊氏は命拾いした・・・と『太平記』は語りますが、さすがに、80万VS2万ってな数字は無いだろうという感じですが、ここで、天皇方が有利であった事は確かでしょう。
ただし、先の駐留軍を任されていた定禅が、雪辱とばかりに精鋭を率いて、ここで奮戦し、新田軍は坂本まで撤退しています。
ここで顕家よりさらに遅れて東国から駆けつけたショウ王(ショウ=晶に灬・高倉天皇の玄孫とされる)らの一軍が天皇側に合流・・・更なる援軍を得て活気づいた天皇軍は、京都総攻撃の日程を建武三年(1336年)1月27日と定めました。
かくして、その日の未明、天皇軍は、京都の足利軍を包囲する形の陣形で大戦に挑みます・・・その数=10万3千騎(←って、いつの間に、そんなに増えたん??!!(゚ロ゚屮)屮)
開戦と同時に怒涛のごとく京都市中に押し寄せて、各所に放火しながら進軍する天皇軍・・・抵抗する足利軍もしだいに押され気味となり、激しい市街戦は天皇方の優勢となります。
この時、義貞は、単騎で敵陣深く駆け込み、尊氏を探したと言いますが、残念?ながら、その姿を見つけ出す事はできず・・・尊氏の悪運強し(←あくまで天皇側からの見方です)
・・・と、ここで優勢一方の天皇軍でしたが、日暮れが近づくとともに、楠木正成の進言に従って、兵を休めるべく、東坂本まで撤退させます。
これを知った逃走中の尊氏は、チョコッと京都市内に戻って来ますが、これが、尊氏の油断を誘った正成の作戦・・・とって返し、すぐさま奇襲攻撃を仕掛けました。
この奇襲によって兵を分散させられてしまった尊氏は、やむなく、再び敗走・・・兵庫の湊川で、やっと自軍との合流し、なんとか助かりました。
こうして、京都を奪回した天皇方・・・一方の尊氏は、この後、少々の遭遇戦を繰り返しながら、ご存じのように、海路で九州へと落ち延びるのですが、続きのお話は2月6日の【足利尊氏の都落ち~豊島河原合戦】のページでどうぞ>>
(注:本文に書いた軍の数は太平記の記述に従っています)
あの尊氏も、ヤバかった場面が多々あったんですね~
歴史の歯車が一つ違っていたら・・・妄想は尽きませんね。
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コメント
日本史で 一番複雑怪奇な時代ですが、それにしても、八十万騎はオーバーですよね。話半分のそのまた十分の一位で充分だと思います。
東北は福島生の祖母の実家は「安龍」氏と言います。龍(天皇)を安んじる、もろに南朝の遺臣の姓だそうです。この時期、北畠顕家卿に従って西上したもののよう。この時代にも「坂の上の雲」はありました!?
現実には南朝方は姓氏を与えるくらいしか、東北の士卒に報いる術もなかったのでしょうけれど。
祖母の家の伝承は、中央から顧みられることもなかった北辺の民が、日本の歴史に初めて参加した時の「国民的感動」を、今に伝えているように思えてなりません。
投稿: レッドバロン | 2012年1月27日 (金) 20時11分
レッドバロンさん、こんばんは~
複雑怪奇な時代…まさに、そうですね~
東北の人たちにとって、天皇が一番身近に感じられた時かも知れませんね。
後醍醐天皇は、隠岐に流された関係から、山陰地方にも様々な伝説を残しておられ、そういう意味でも特異な天皇だと思います。
投稿: 茶々 | 2012年1月28日 (土) 02時28分
元弘三年(1333)5月8日、新田庄「生品神社」百五十騎で北条討伐の旗揚げして鎌倉を制圧した新田義貞は、わずか五年後に越前藤島で討死にする。歴史を疾風の如き過ぎ去っていった。しかし、幕末討幕の動きの中で勤王志士から子孫が担がれる場面も出てくる。脈々と新田義貞は江戸末期まで生きていますネ。
投稿: 銀次 | 2012年1月29日 (日) 05時42分
銀次さん、こんにちは~
そうですね~
新田義貞は足利尊氏より源氏の棟梁ですもんね。
その血筋が担がれるというのも、わかりますね。
投稿: 茶々 | 2012年1月29日 (日) 13時53分