サウナで謀殺!無念・源義朝の最期
平治二年(1160年)1月4日、先の平治の乱に破れて東国に落ちた源義朝が、尾張国野間にて謀殺されました。
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期待が高まる今年の大河ドラマ「平清盛」・・・
そんな中、主人公の平清盛(たいらのきよもり)の生涯のライバルとなる源義朝(みなもとのよしとも)を、人気俳優の玉木宏さんが演じるとあって、さらにワクワク感も最高潮!
・・・と、そんな義朝さんのご命日については、前年の12月29日とも、年が明けた1月3日とも言われますが、今回は平治二年(1160年)1月4日説をとらせていただき、本日、書かせていただく事にします。
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河内源氏の棟梁である源為義(ためよし)の長男として生まれた義朝は、父が都にて朝廷の傭兵として活躍する中、代々受け継いだ領地である相模国(神奈川県)鎌倉で育ちます。
ここを拠点として源氏譜代を名乗る豪族たちを従え、20歳前後までには、南関東一帯に、大きな勢力を持つまでになります。
彼が、畿内を離れたのは、父・為義との関係があまり良くなく、勘当されたから・・・なんて話もありますが、本拠地を離れて京にいる事の多い父に代わって地元・関東を牛耳っていたとも考えられます。
現に、この後、仁平元年(1153年)に義朝が京に上って下野守(しもつけのかみ)に任じられ、父・為朝の隠居とともに源氏棟梁の家督を継いでからは、義朝の長男・源義平(よしひら・悪源太義平)が、わずか15歳ながら、地元での細かな事は任されていたようですので・・・(8月16日の前半部分参照>>)
・・・で、義朝が京に上ってまもなくの保元元年(1156年)に勃発したのが、あの保元の乱でした。
天皇家の主導権争いに摂関家の思惑が重なり、そこに、彼らを警固する役目の源氏と平氏が入り乱れ・・・この戦いで義朝は、父・為義と弟・為朝(ためとも)を敵に回す事になりました(7月11日参照>>)。
この時、清盛や源頼政(よりまさ・摂津源氏)とともに、後白河天皇側についた義朝は、勝利のキーポイントとなる夜討ちを進言し、大将として、崇徳上皇(8月26日参照>>)らの籠る白河北殿(しらかわきたどの)を急襲するという多大な貢献を果たしました。
おかげで、戦後は左馬頭(さまのかみ)に任じられますが、父を死に、弟を流罪に追いやって(3月6日参照>>)までの大活躍のわりには、一方の清盛と比べて恩賞が少なかったために、その論功行賞を采配した後白河天皇の側近・信西(しんぜい・藤原(高階)道憲)に恨みを持ち、それが、この次の平治の乱の引き金になった・・・
なんて事も言われますが、この左馬頭という役職が、朝廷での軍事や儀式で重要な役どころこなす武士憧れの官職であったと思われる事から、最近では、論功行賞での恨みという物ではなかったとの見方が一般的になりつつあります。
とは言え、論功行賞の恨みでないにしろ、保元の乱で反対派が一掃され、後白河天皇と信西が権勢を奮う政治体制には、いつのほどからか、何かしらの不満を持つようになった事は確かでしょう。
義朝から見れば、かの信西と手を組んで台頭して来る清盛の平家に対して、源氏の旗色が、あまり良くなかった?という事なのかも知れません。
とにかく、同じく信西の体制に不満を持つ藤原信頼(のぶより)(12月9日参照>>)や藤原成親(なりちか)、さらに後白河天皇から皇位を譲られた二条天皇の側近らと手を組む義朝・・・
平治元年(1159年)12月9日、熊野詣へと向かった清盛の留守を狙って、後白河上皇のいた院御所・三条殿を襲撃・・・これが平治の乱です。
この時、逃走した信西を捕縛してさらし首にして(12月15日参照>>)、いち時は、クーデターに成功した信頼&義朝たちでしたが、急を聞いて戻って来た清盛により、天皇と上皇を奪回されると(12月25日参照>>)、信頼・義朝の追討の宣旨(せんじ・天皇の命令)が発せられ、途端に立場が逆転・・・
アチラ(清盛)が官軍となり、コチラ(義朝)が賊軍となったうえ、六条河原で行われた決戦に敗れ、ついに、義朝は東国へと落ちる事になります(12月26日後半部分参照>>)。
実は、前半に書いた通り、源氏の本拠地は東国にあるために、ここ京都に置いていた兵力は、ごく一部・・・それこそ、クーデターを決行する前に、東国から大量の兵士を動員するなんて露骨な事をするわけにはいかないわけですから、この時点で、はなから、清盛の平家軍とは、軍事力においてかなりの差があったわけです。
それでも義朝がクーデターを決行したのは、これ以前には、清盛は信西派か信頼派かという立場を明確にしていなかった事や、先の保元の乱でともに戦った同族の頼政がいた事・・・つまり、義朝は、清盛や頼政が敵に回るとは思っていなかった???という事なのでしょう。
とにもかくにも、わずかな兵で戦場を離脱した義朝は、一路、本拠地の東国へ・・・そこには、長男・義平、次男・朝長(ともなが)、三男・頼朝(よりとも)が従います。
賀茂川沿いを北へと向かい、八瀬から大原・・・そして坂本へと抜ける中、比叡山の僧兵の落武者狩りに遭い、大伯父(為義の伯父)の源義隆(よしたか)を失いつつ、堅田から瀬田・東近江へ向かうも、おりからの吹雪により、ここまで従っていた頼朝が一行からはぐれてしまいました。
さらに伊吹山を越え、美濃(岐阜県)へと入ったところで、郎党の解散を宣言する義朝・・・義平を北陸道を飛騨方面へ向かわせ、朝長には信濃(長野県)方面へ向かうよう指示しますが、すでに、少し前の落武者狩りで深手を負っていた朝長は、わずか16歳の身ながら、この地で自ら死を選んだと言います(落武者狩りにて死亡とも)。
その後、義朝は、自身の乳母の子供であり第一の家臣だった鎌田政家(かまたまさいえ・政清)の舅・長田忠致(おさだただむね)・景致(かげむね)父子を頼って、一路、尾張国知多の野間(のま)を目指します。
吹雪の中の逃避行から抜け出し、忠致らに迎え入れられた義朝は、さぞかしホッとした事でしょうが、残念ながら、忠致らは、すでに、義朝の首にかかっている恩賞に目がくらんでいたようです。
到着後、ほどなく、彼らに入浴を勧められた義朝・・・このお風呂というのは、焼いた石に水をかけて入浴する、いわゆるサウナのような風呂だったようで、刀は錆びてしまうため、当然、持って入れません。
彼らは、義朝が丸腰になるところを狙っていたのです。
かくて平治二年(1160年)1月4日・・・入浴中に暗殺を決行され、義朝は38歳の生涯を閉じました。
(ちなみに政家も、同日に亡くなっています)
この時の義朝は、無念のあまり「我に木太刀の一つあらば…」と叫んだと言われ、現在、この殺害された地に建つ大御堂寺(愛知県)の境内にある義朝の墓には、おびただしい数の木太刀が供えられています。
一方、北陸へ逃げた長男・義平は、思うように援軍が調達できないうちに父の死を知り、京へと舞い戻っていたところを捕縛されて六条河原で斬首(1月25日参照>>)、途中ではぐれた三男の頼朝は、ご存じのように捕縛され、伊豆への流罪となるのです(2月9日参照>>)。
義朝らを一掃し、信西も亡くなってしまった今・・・世は、まさに、清盛主導となっていく事になります。
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コメント
源氏の頭領で この後、一応天寿を全うしたのは頼朝さんだけでしょう?二代将軍・頼家さん、三代将軍・実朝さんと、悉く非業の最後を遂げてます。
その外だって、義経さんはじめひどいものです。茶々様、この暗さはどこから来るのでしょうね?確率統計論的に 呪われているとしか思えませんが。
投稿: レッドバロン | 2012年1月 4日 (水) 21時56分
レッドバロンさん、こんばんは~
ホントですね~
その頼朝さんでさえ、落馬で死亡という何とも謎めいた物ですもんね~
何か因縁めいた物があるのかも…
投稿: 茶々 | 2012年1月 5日 (木) 02時17分
遅ればせながらあけましておめでとうございます。本年の茶々さまのご活躍をお祈りさせていただきます。
さて、義朝と信頼との関係は信頼が武蔵守だったころからの関係だったとの説もありますよね。
例の大蔵合戦で義平が罰せられなかったのは当時武蔵国を知行国としていた信頼の黙認があったからだとも・・・・
ところで平治の乱では六波羅合戦、信頼、義朝死亡の後も混乱が続きましたよね。
二条親政派の経宗、惟方が政権を牛耳ったものの、彼等に圧迫されていた後白河院が清盛と手を組んで復活し、経宗、惟方を逮捕させ、流刑の追い込んだり
二条親政派の武士源光保が失脚したり、
六波羅御幸を計画実行させた藤原公教が病死したり、
それから数年間、後白河派と二条派の対決が続いたりと
このあたりも茶々さまに是非取り上げていただきたいなあと願っております。
投稿: さがみ | 2012年1月 5日 (木) 07時27分
2005年の「義経」ではこの場面を取り上げましたね。今年もあるかな?
息子の頼朝が鎌倉に幕府を置いたのは、南関東が「源氏の本拠地」だからですね。
投稿: えびすこ | 2012年1月 5日 (木) 08時53分
さがみさん、明けましておめでとうございます。
確かに、戦後のゴタゴタは興味深いですが、そこらあたりは、専門的なお勉強して更なるを究明したいという趣味の方や研究者のレベルではないか?と思います。
専門的にやっておられる方から見れば、「そこを飛ばすな」とイライラされるかも知れませんが、すべての時代を扱っている「今日は何の日」ですので、ひょっとして、この先20年くらいブログをやっていたら、そのレベルまで到達するかも知れませんね~
まだまだ、遠いです(*´v゚*)ゞ頑張らねば
投稿: 茶々 | 2012年1月 5日 (木) 14時03分
えびすこさん、こんにちは~
いけません!
もはや、2005年の事がうろ覚えです。
なんか、1回目の最後にタッキーが出て来て、早くも子供時代が終わったような??
いや、もっと、あったのかな?( ̄○ ̄;)!
投稿: 茶々 | 2012年1月 5日 (木) 14時08分
>2005年の事がうろ覚え
7年も前ですからね。滝沢くんは第3回から登場しました。
でも作品ごとの配役は案外記憶しています。
「義経」ではたくさん出た清盛の息子たちですが、今回は出番があるかな?今年は清盛の兄弟(夫人の兄弟を含め)はたくさん出ますね。さて今年の義経は誰でしょうか?大河ファンの間ではただいま持ち切りの話題です。
投稿: えびすこ | 2012年1月 5日 (木) 17時08分
えびすこさん、こんばんは~
おぉ…タッキーは3回目からでしたか~
タッキーが滝ツボの前に初登場したのは、覚えてるんですが…
んん?…それは龍馬か??(><)
投稿: 茶々 | 2012年1月 6日 (金) 02時25分