綏靖天皇・即位~記紀の「弟優先の法則」
綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日、第2代・綏靖天皇が即位しました。
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その年代も月日も・・・いやいや、もはや、ご本人の存在すら危ういお話ではありますが、それこそ、長年受け継がれて来た伝説には、それが真実か否かという事とともに、たとえ創作であっても、その物語が生まれた根拠や、受け継がれて来た背景など、次世代の歴史へとつながる何かが存在するわけで、ここは、あえて『記紀』に従って、お話を進めさせていただきたいと思います。
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綏靖(すいぜい)天皇は、初代天皇=神武天皇の第3皇子で、『古事記』では神沼河耳命、『日本書紀』では神渟名川耳尊という表記で登場し、ともにカムヌナカワミミノミコトと読みます。
(以下、登場する方のお名前は「読み」(「古事記の表記」・「日本書紀の表記」)とさせていただきます)
ご存じのように、神武天皇は、高天原から天孫降臨したニニギノミコト(邇邇芸命・瓊瓊杵尊)の曾孫で、生まれ育った日向(ひゅうが・ひむか)を後に、豊国(とよくに・大分)→竺紫(つくし・福岡)→阿岐(あき・広島)→吉備(きび・岡山)と東征して浪速(なにわ・大阪)に上陸し、幾多の戦いを制し、畝火(うねび)の白檮原宮(かしはらのみや)にて即位して、初代天皇となったわけですが(2月11日参照>>)、
実は、東征の旅に出る前に、故郷の日向でアヒラ(ツ)ヒメ(阿比良比売・吾平津姫)を皇后に迎えて、タギシミミノミコト(多芸志美美命・手研耳命)とキスミミノミコト(岐須美美命・書紀には登場せず)という二人の男の子をもうけていました。
しかし、いざ東征して即位してみると、アヒラヒメでは「なんか、もの足らん…」
・・・と、下積み時代を支えてくれたカノジョを捨てて、売れっ子女優へと乗り換えるミュージシャンかお笑い芸人のような事を言いだします。
そこへ、グッドタイミングで側近が、「えぇ子、いてまっせ」との耳より情報・・・
その側近によれば・・・
「その昔、三島にセヤタタラヒメ(勢夜陀多良比売・三島之溝樴姫)というメッチャ美人がいてまして、この娘に一目惚れしたオオモノヌシノカミ(大物主神=大国主命の別名と言われる)(12月21日参照>>)が、彼女がトイレでキバッているところを、赤い矢に変身してホト(陰処=○○です)を一突き!
驚いた彼女が、その矢を部屋に持って帰ると、その夜にイケメン男の姿に戻ったオオモノヌシと彼女がラブラブチョメチョメ(←古い)・・・
(ちなみにオオモノヌシさんは活玉依毘売(いくたまよりびめ)にも手を出してます…【運命の赤い糸】参照>>)
ほんで生まれたのがホトタタライススキヒメ(富登多多良伊須岐比売)・・・まぁ、今はホトというのを嫌がって、ヒメタタライスケヨリヒメ(比売多多良伊須気余理比売・媛蹈鞴五十鈴媛命)と名乗ってるらしいですけど・・・」
との事・・・
早速、彼女を見物に行った神武天皇は、爽やかな丘で野遊びをする7人の乙女たちから彼女を見つけ出し、即、ナンパ・・・
そして、皇后になったイスケヨリヒメとの間に生まれたのが、ヒコヤイノミコト(日子八井命・書紀には登場せず)とカムヤイミミノミコト(神八井耳命・書紀には登場せず)、そして、後の綏靖天皇であるカムヌナカワミミノミコトが末っ子というワケです。
ところがドッコイ、神武天皇が亡くなると、にわかに波風がたちはじめます。
長兄のタギシミミが、次の皇位を狙って義母のイスケヨリヒメを皇后に娶り、その3人の息子たちを亡き者にしようと企むのです。
♪狭井(さい)河よ 雲立ち渡り 畝火(うねび)山
木(こ)の葉さやぎぬ 風吹かむとす ♪
「狭井川がにわかに曇り、畝火山の木の葉が騒ぐ・・・今に激しい風が吹くわよ!」
母・イスケヨリヒメが詠んだこの歌を聞いて、3人の息子たちは、異母兄・タギシミミ謀反に気づきます。
「そっちがその気なら」と、末弟のカムヌナカワミミが「兄ちゃん、殺られる前に殺ってまえや!」と、2人の兄を焚きつけると、二人は手に手に武器を持ってタギシミミの屋敷に・・・しかし、いざ、屋敷の前に着くと、二人の兄は手が震え、どうしてもタギシミミ殺せませんでした。
この様子を見たカムヌナカワミミ・・・すかさず兄の武器を奪ってタギシミミの屋敷へ押し入り、有無を言わさず即座に殺害・・・
すると、兄たちは
「俺らは、いざという時に怖じ気づいてしもた・・・その点、お前は武勇に優れてるさかい、お前が次の天皇になって世を治めたらええ、俺らはお前を助ける役になるから・・・」
てな事で、綏靖天皇元年(紀元前581年?)1月8日、カムヌナカワミミは、無事、第2代・綏靖天皇として即位したのです。
とは言え、この綏靖天皇は、以前、お話した『欠史八代(けっしはちだい・缺史八代)』(8月5日参照>>)の1番目の天皇・・・つまり、この2代・綏靖天皇から9代・開化天皇までの8人の天皇に関しては、記紀の両方ともに、ほとんど逸話が書かれていない空白の状態になっているのです。
今回の綏靖天皇に関しても、即位するまでの上記の話が神武天皇の話の続きのように登場し、即位後の事は、どこに宮殿を置いて、誰と結婚し、子供は誰々で何歳で死んだとして書かれていないのです。
架空の人物だからくわしく書けないのか?
実在の人物だけど、書けない歴史なのか?
そこのところは、先の「欠史八代」のページで書いた通りですが、ここで注目なのは、天皇となったカムヌナカワミミが末弟だったという事・・・
有名な海幸&山幸のお話でも、天下を握るのは弟・・・(2月8日参照>>)
父である神武天皇にも、イツセノミコト(五瀬命・彦五瀬命)、イナヒノミコト(稻氷命・稻飯命)、ミケノノミコト(三毛野命・三毛入野命)という3人の兄がいますが、いずれも東征の途中で亡くなり、天皇になるのは末弟のカムイヤマトイワレヒコノミコト(神倭伊波礼琵古命・神日本磐余彦尊)=神武天皇です。
天皇ではありませんが、第12代景行天皇の息子で、諸国平定に大活躍するヤマトタケルノミコト(倭建命・日本武尊)も弟です(7月16日参照>>)。
さらに、第21代・雄略天皇のゴタゴタで後継者がいなくなった後、偶然発見された天皇家の血を引く兄弟・・・兄・オケノミコト(意祁命・億計王)と弟のヲケノミコト(袁祁命・弘計尊)でも、先に天皇になったのは弟の顕宗(けんぞう)天皇、兄の仁賢(にんけん)天皇は、弟が亡くなってから即位します(8月8日参照>>)。
この、「いざという時、弟優先の法則」はいったい何なのか???
やはり、これは、記紀が誕生する時代、最もカッコよく描かねばならなかった天武天皇(3月13日参照>>)が弟だったという事と、大いに関係があるのかも知れませんね。
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コメント
飛鳥のスーパースター聖徳太子も、弟ですね。
ー ー 昨晩から‘平清盛’が始まりましたが、武士の世では、そこの処が違ってきますよね。
頼朝も長子ですし、江戸時代の徳川家も、家光以来、長子をずっと優先する習わしです。
久々のコメントとなりましたが、あらためまして、本年も宜しくお願い致します。
投稿: 五節句 | 2012年1月 9日 (月) 12時47分
五節句さん、明けましておめでとうございます。
綏靖天皇の場合も、「本来なら長子が継ぐべきだが…」というセリフが出て来るので、この時代でも、同母の子供同志なら長子優先という考えがあったのでしょうが、やはり、弟の天武天皇が後継する事への配慮なのかも…って感じですね。
投稿: 茶々 | 2012年1月 9日 (月) 18時41分
祖母は明治天皇を「神武さまにそっくりじゃ…」と語っておりました。
さすがに この時代まで遡ると、うちらでは祖母以外に確信を持って話すことが出来る人はいないのですよ。
投稿: レッドバロン | 2012年1月10日 (火) 03時33分
レッドバロンさん、こんにちは~
>明治天皇が神武さまにそっくり
戦前の方(おそらく戦前ですよね?)の教科書に書かれた神武天皇は、やはり、記紀方式で、そのお顔を明治天皇に似せてあったという事かしら…
投稿: 茶々 | 2012年1月10日 (火) 10時12分
茶々様 こんばんは〜
祖母は 戦前も何も 明治の人です。お寺(寺子屋)を改造した小学校に通い、鉄道馬車で転任する先生を泣いて見送ったと。 四十何年前に亡くなっています。
多分、真実は茶々様のご指摘に近いかと。明治天皇以前の天皇の肖像は誰も知らない訳ですからね。
国定教科書に神武天皇東征の場面が出てきた時に、お髭の武人姿の天皇を明治帝に似せたというより、皇室に失礼にあたらぬよう描こうとしたら、当然、イメージを重ねますよね。という事だろうと推理しています。
投稿: レッドバロン | 2012年1月11日 (水) 19時45分
レッドバロンさん、こんばんは~
確かに…
お顔がわからないのですから、その方の子孫に似せて書くのは当然でしょう。
最近の戦国ゲームを見てもわかるように、曖昧な場合は、できるだけカッコ良く書くのも当たり前ですもんね。
投稿: 茶々 | 2012年1月11日 (水) 22時39分
茶々さん、こんばんは。
精神的に参っています。狂いそうです。と言うくらいに落ち込んでいます。
多分スサノオノミコトに似ているのかなと思いました。
ところで古代エジプトでは女系主義なので長子優先でなく、実際にラムセス大王みたいに弟が即位しています。それ以外だとユダヤ人社会ですが、弟が継承しています。聖書にその事を描かれています。
日本も古代はそうだったのでしょう。長子優先主義だと南北朝問題は起こらなかったと思います。
多分確立したのは江戸時代からでしょう。
投稿: non | 2016年4月22日 (金) 18時24分
nonさん、そういう時は、ゆっくりお休みください。
もうすぐGWです。
楽しい事を考えましょう!
投稿: 茶々 | 2016年4月24日 (日) 04時45分
茶々さん、こんにちは。
少しましです。でも疲れていますので家にいます。
ところで弟が上位と言うのはモンゴル、エジプト、ユダヤにありますが、どうも日本もそうみたいですね。
これは弟は幼いので両親に育ててもらい、兄たちは独立するみたいです。そう言う習慣は古代には多いみたいです。
聖書なんかそう言う習慣を強調しています。
綏靖天皇は現実にいたと思いますが影が薄いです。でも弘文天皇、長慶天皇よりも記録が残っています。この時代も古事記よりも竹内文書の方が詳しい感じがします。
ただ言えるのは日本の歴史は世界で一番古いと言うのをアインシュタインもマルローも公言しているので日本人も誇りにするべきでしょう。
投稿: non | 2016年4月29日 (金) 15時25分
nonさん、こんばんは~
私は本文にも書かせていただいた通り、日本神話の場合は、「天武天皇age」のための弟優先だと感じています。
世界史はよくわかりません。
投稿: 茶々 | 2016年4月30日 (土) 03時16分
茶々さん、こんにちは。
弟が後を継ぐ習慣なのかどうか分かりませんが、応神天皇は仁徳天皇でなく弟を皇太子にしました。
これも古代の習慣かなと思いました。
そう言えば足利も徳川も二代は地味ですね。
投稿: non | 2016年5月 1日 (日) 14時39分
nonさん、こんにちは~
そうですね。
仁徳天皇は、弟と譲り合った末に、その弟が自殺しての即位でしたね~
う~ん、また考えなくてはいけませんね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 2日 (月) 15時59分
応神天皇も弟ですが即位しました。仁徳天皇の場合は弟が自殺して即位です。何かありそうな感じがします。
海幸、山幸もそうですね。
投稿: non | 2016年5月 3日 (火) 11時44分
nonさん、こんにちは~
編さんされたのが天武天皇の時代ですから…
投稿: 茶々 | 2016年5月 3日 (火) 16時23分
天武天皇は孟子を読んでいたのではないでしょうか?
あれは国家転覆の書ですが、朱子学以降だと嫌われる書です。
考えてみますと物部崩壊、大化の改新もクーデターなので渡来人を通じて伝わっていたのではと思います。
ただ綏靖天皇の頃は弟が継承したと思います。その事実を取って天武天皇のクーデターである壬申の乱を正当化したと思います。
投稿: non | 2016年5月 5日 (木) 15時33分
nonさん、おはようございます。
やはり天武天皇のために記紀を編さんしたので、初代が神武天皇なのでしょうね。
投稿: 茶々 | 2016年5月 6日 (金) 06時25分