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2012年1月15日 (日)

平家台頭の基礎を作った清盛の父・平忠盛が死す

 

仁平三年(1153年)1月15日、武家として初の内裏昇殿を許され平家繁栄の基礎を築いた平忠盛が、58歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・・

平忠盛(たいらのただもり)は、ご存じ、平清盛(きよもり)のお父さん・・・本年の大河ドラマ「平清盛」では、中井貴一さんカッコイイ忠盛を演じておられます。

Tairanotadamori500 白河法皇北面の武士として仕えた平正盛(まさもり)(12月19日参照>>)の息子として、彼も13歳で左衛門少尉となり、盗賊を捕えるなど、京都の治安維持に従事しました。

以前、【平清盛、ご落胤説】(2月11日参照>>)のところで書かせていただいた、「白河法皇が寵愛する祇園女御(ぎおんにょうご)に毎日新鮮な鳥を届けた」というお話は永久二年(1114年)頃・・・忠盛さん、20歳頃の出来事ですね。

同じページに書かせていただいた『忠盛燈籠』のエピソードと言い、この頃の忠盛は、白河法皇の大きな信頼を得ていた事がうかがえます。

その流れからか、永久五年(1117年)には、鳥羽天皇に入内した藤原璋子(しょうし・たまこ=待賢門院)政所別当(まんどころべっとう・家政機関の長官)となり、その2年後には賀茂臨時祭の新舞人にも選ばれ、大治二年(1127年)には従四位下を賜り、備前守(びぜんのかみ)左馬権頭(さまごんのかみ・馬の管理担当)兼任するにまで至り、この頃に藤原宗子(むねこ=池禅尼)正室にもしています。

馬の管理=飼育や調教って言っても、この場合の馬は軍用・・・今で言うところの戦闘機や戦車ですから、軍を担当する武士にとっては、このうえない憧れの任務

これも白河法皇のおひき立てがあればこそ・・・

やがて大治四年(1129年)7月に白河法皇がお亡くなりになりますが、その後を継いで院政を開始した孫の鳥羽上皇のもと正四位下に昇進し、やはり北面の武士として白河法皇の頃と変わりなく重用されます。

この頃のエピソードとして登場するのが、あの『平家物語』の序盤にある『殿上の闇討ち(11月23日参照>>)・・・武士でありながら昇殿をゆるされる身分にまでなった忠盛の事を妬んだ貴族たちが、忠盛の暗殺を計画しますが、結局、見るからに強そうな彼らを目の前にして、ほうほうのていで退散するというお話です。

同じ『殿上の闇討ち』の段には、その後も、祝いの席やら節句の行事やらで、忠盛の舞いにケチをつけたり、しょーもない事であげ足とったりバカにしたりと、貴族たちからのイジメに絶えしのぶ忠盛ですが、そんな時にも、「お前は悪くない!」と常に味方でいてくれていた鳥羽上皇の姿があります。

やがて保延元年(1135年)に、忠盛が中務大輔(なかつかさたいふ・天皇の補佐)に任ぜられる頃、博多敦賀を玄関口にして民間の間で行われていた日宋貿易が一掃盛んになって来ますが、そんな中で、おそらく、この先、貿易の主要ルートになるであろう瀬戸内海に出没する海賊が問題となっていました。

そこで、以前、備前(岡山県東南部)守であった経験をかわれて、忠盛は海賊の討伐を命じられ、これまた見事に退治して、更なる出世の階段を上って行ったのです(8月21日参照>>)

・・・と、この頃には、息子の清盛も従四位下に叙され、父とともに順当な出世街道・・・と言っても、若い頃の清盛の業績はほとんど伝わってはいないのですが、とにかく、北面の武士として朝廷に仕え、同僚の遠藤盛遠(もりとお=後の文覚)(7月21日参照>>)佐藤義清(のりきよ=後の西行)(10月15日参照>>)らと、仲が良かったのだとか・・・この若い頃の人脈が、後々、また絡み合って来る事になりますが・・・

やがて久安二年(1146年)、忠盛は播磨守(はりまのかみ)に任じられ、もはや出世も最高峰・・・公卿昇進も夢じゃないとなった頃、さすがに、もう、この頃には、例の貴族たちのイジメもなくなり、ホッと一息・・・

度々、鳥羽上皇の御所に訪れては、その話相手などしていましたが、『平家物語』によれば、実は、この院御所には、忠盛さんお気に入りのカノジョがいたとか・・・

ある時、彼女の部屋に、月の絵が描かれた扇を忘れて帰ってしまった忠盛・・・同僚の女官たちが、その扇を見つけて、
「あら~、この月はどこから落ちてきた月やろか…出どころがわからへんと気になりますわぁ」
と、彼女をからかいます。

すると彼女は
♪雲井より ただもりきたる 月なれば
  おぼろけにては いはじとぞ思ふ ♪

「雲の間から、ただ、漏れてきた月やから、ちょっとやそっとじゃその出どころは言いまへんえ」
と、一首詠みます。

「ちょっとやそっとじゃ言えへん」と言っておきながら、『ただ漏れて来た』事を『忠盛来たる』とかけて、バラしちゃうところは、やはり自慢の彼氏なのか???

と、この話を人づてに聞いた忠盛は、なおいっそう彼女の事を好きになったのだとか・・・この女性が、忠盛の六男・平忠度(たいらのただのり)(7月25日参照>>)母となる女性だとか・・・

まぁ、軍記物の『平家物語』ですので、どこまで事実に近いのかはわかりませんが、忠度さんの歌のウマさは、母譲り・・・と言いたいのでしょうか?
でも、その前には忠盛さんの歌のウマさも書いてるので、両親ともに・・・って感じかな?

・・・こうして、もはや人生も頂点に来た忠盛ですが、晩年に、ちょっとだけ影を落とす出来事が・・・

それは久安三年(1147年)6月15日・・・息子・清盛の郎党が、祇園社(八坂神社)神人(下級の神職)らと乱闘騒ぎを起こし、放った矢が宝殿に突き刺さり、多くの負傷者が出るという事件を起こしてしまったのです。

祇園社の本寺が延暦寺であった事で、神人に延暦寺衆徒が加わって、忠盛・清盛父子の責任を問い、配流処分を要求して、大挙、京に押し寄せるという事態にまでなってしまいます。

忠盛、大ピ~ンチ!
となりますが、結局、忠盛大好き鳥羽法皇の鶴の一声おかげで、清盛の罰金刑のみでカタがつく事になり、一安心・・・

ただ、この事件のおかげで、朝廷内では、
「清盛よりも、2歳年下の弟・家盛(正室・宗子の産んだ子)のほうが、平家の後継ぎにふさわしいのでは?
との声が出始めます。

なんとなく、後継者争いの雰囲気プンプン・・・

ところが、この家盛は、久安五年(1149年)2月、体調の悪い中、鳥羽法皇の熊野詣の付き添いをしていたところ、旅の途中で病気が悪化して亡くなってしまったのだとか・・・享年20歳(もしくは23歳)の若さだったと言います。

後に、平治の乱で捕縛された源頼朝が処刑されそうになった時、母・宗子から「亡き息子にそっくりやから、この子助けたって~」と頼まれた清盛が、頼朝を伊豆への流罪に留める話(2月9日参照>>)は有名ですが、その「亡き息子」というのが家盛さんなわけです。

もちろん、母・宗子だけでなく、息子を失った悲しみは忠盛りも大変な物だったと言います。

その後、仁平元年(1151年)には刑部卿(ぎょうぶきょう=法務大臣)となる忠盛ですが、そのわずか2年後の仁平三年(1153年)1月15日・・・忠盛は、58歳の生涯を閉じる事となり、いよいよ清盛が平家を継ぐのです。

清盛、36歳の時でした。

・‥…━━━☆

・・・と、最後に余談なんですが、大河の中で、ちょっと気づいたのでひと言・・・

以前、白河法皇の院政のお話のページ(11月26日参照>>)で、権力を握った白河法皇の
「賀茂河の水、双六の賽、山法師、是ぞわが心にかなわぬもの」
(自分の)思い通りにならないのは、賀茂川の水の流れ双六のサイの目延暦寺の僧兵だけ・・」
という有名な言葉をご紹介しましたが、

大河ドラマの中で、聖子女御のところに遊びに来る前田前田清盛が、やたら双六が強のは、この先、白河法皇の思い通りにならないって事を暗示しているのかしら??

・・・て事は、タフマン伊東法皇はこのセリフを言うのか?
ちょっと楽しみ~
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コメント

茶々さん、こんにちは。
太田資正のページではありがとうございました。

昨日の伊東法皇の演技は良かったですねもう出番はないのかな??残念。聖子女御も予想以上だし、個々の俳優さんの魅力が引き出されたドラマは見ていて楽しいです。

私は昨年の大河ドラマは途中で見るのを止めてしまってて史実のお江さんや演じた上野樹里ちゃん自体は好きなので、期待が大きすぎただけかもしれませんが。

投稿: ZAIRU | 2012年1月16日 (月) 13時38分

すごろくは昨日の冒頭でもしていましたね。ところでオープニングで「さいころ」が出るのはどんな意味でしょう?鴨川と山法師の事はどこかで出ますかね?白河法皇は2回のみの登場でした。
昨日が平忠盛の命日ですか。
千思万考では「(正盛・忠盛・清盛と)3代かかって平氏の天下になった」と説明しておりました。

投稿: えびすこ | 2012年1月16日 (月) 16時33分

ZAIRUさん、こんにちは~

伊東さん、もう少し長くいてほしかったですが、それこそ、最終回に一番良いところを、一気に…ってな事になってはいけませんので、次からの展開に期待します。

投稿: 茶々 | 2012年1月16日 (月) 16時56分

えびすこさん、こんにちは~

清盛ばかりにスポットが当たりがちですが、おっしゃる通り「正盛・忠盛・清盛」3代の偉業ですね~

投稿: 茶々 | 2012年1月16日 (月) 16時57分

西行、文覚…北面の武士時代に清盛と仲が良かったと言われた二人共が、後に頼朝に歩み寄っていると言うのは…出家したこととは別に、かつての友人であった清盛に対して何らかの反発や失望でも抱いていたのでしょうか。方や頼朝のスパイ疑惑、方や頼朝に挙兵を促して…大河ドラマに影響され過ぎだと言われればそれまでですが…。

うちゃでした。

投稿: うちゃ | 2012年2月10日 (金) 21時11分

うちゃさん、こんばんは~

友人が一生友人のままとは限らないし、そこのところはご本人に聞くしかないですね~

とりあえずは、北面の武士だった時代の人脈をフル活用できたんですから、ヨシでしょう。

投稿: 茶々 | 2012年2月10日 (金) 21時24分

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