弘法大師・空海と東寺
弘仁十四年(823年)1月19日、空海が、嵯峨天皇より教王護国寺を賜りました。
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教王護国寺(きょうおうごこくじ)とは、皆さんご存じの東寺(とうじ)の事です。
新幹線でも在来線でも、京都駅に着くと、その車窓から、日本一デカイ五重塔を眺める事ができ、
「あぁ、京都に来たなぁ~」
と、しみじみ実感できる、あのお寺です。
『教王護国』とは、読んで字のごとく、国家の鎮護をする役目を担う寺院の事・・・そもそもは、この教王護国寺というのが、お寺の正式名称です。
・・・と言っても、平安京が造営された時点で、その南の玄関となる羅城門を挟んで、都を守るように建立された東西二つの寺院のうちの東の寺院なので、創建当時から「東寺」と呼ばれており、こちらも、俗称や別名ではなく、正式名称として扱われます。
ちなみに西寺のほうは、現在は、公園となっていて、そこに礎石のみが残ります。
ところで、ご存じ、弘法大師・空海ですが・・・
彼は、宝亀五年(774年)に讃岐国(香川県)多度郡の豪族の子として生まれ、もともとは、僧になるはずではありませんでした。
今でもそうであるように、自らの立身出世のため・・・「一旗挙げてやろう」と夢見て、地方豪族の坊ちゃんが都を目指したのです。
なので、上京から3年目の18歳の時には、大学の明経道(みょうきょうどう)という試験に合格して、そのまま行けば、官人として政務に励む生活をおくった事でしょう。
おそらく、故郷の両親も、それを願って息子を送り出したはず・・・ところが、ちょうど、その頃、空海は、1人の名もなき僧に出会います。
その僧から『虚空蔵求聞持法(こくうぞうぐもんじほう)』なる修法を示され、もともと優秀な彼の探求心が目覚めます。
そして、その修法を実践すべく、阿波(徳島県)や土佐(高知県)や吉野の山に入り込み、修業三昧の日々・・・やがて京に戻り、延暦十六年(797年)、儒教・道教・仏教の3つの教えを比較検討した『三教指帰(さんごうしき)』なる書物を著し、その中で「仏教、サイコー!」と絶賛し、自らも仏教の道に生きる事を決意します・・・空海、24歳の時でした。
そして、例の中国行きです。
このブログでも、再三、空海と比較している天台宗の開祖=伝教大師・最澄(さいちょう)(6月4日参照>>)・・・と同じ遣唐使船に乗って、延暦二十三年(804年)に中国へ渡ります。
アッ!スンマセンm(_ _)m
同じ遣唐使船と言っても、同じ船という事ではなく、当時、4隻同時に出航していた(4月2日参照>>)遣唐使船だったという事で、最澄は1号車に乗り、空海は2号車・・・ちなみに、同時に出航したうち、3号車は暴風で引き返し、4号車は遭難してしまっているので、彼ら二人が1号と2号に乗っていたというのは、まさに神様の・・・いや、仏様の奇跡
・・・で、以前から度々お話しております通り、この時、空海より7歳年上の最澄は、生まれながらに仏の道に生きていたせいもあって、すでに立派な高僧としての名もあり、第50代・桓武天皇の庇護も受け、この遣唐使船には、公費で留学する特待生として乗船していました。
一方の空海は、自費で留学する一学問僧に過ぎず、その差は歴然としていたんです。
空海自身も、おそらく、留学期間が決まっている最澄とは違い、20年・30年の長きに渡って、本場中国の仏教を学ぶつもりで出立した事でしょう。
ところが、その天才的素質は、その教えを、どんどん吸収していきます。
はじめ、密教の奥儀を習得するためには、まずはインドから・・・と、長安にいたインド僧から、サンスクリット語とインド哲学を学び、その後、真言密教の大成者とされる青龍寺の恵果(けいか)のもとへ・・・ここでは、退蔵界灌頂(たいぞうかいかんじょう)・金剛界灌頂(こんごうかいかんじょう)・伝法灌頂(でんぽうかんじょ)などの大法を、わずか3ヶ月で授けられるというスピード習得・・・
しかも、その年の12月に亡くなった恵果から
「帰国して、密教を広めるように…」
という遺言までされちゃってます。
「もはや、学ぶべき事は学んだ…あとは、これを日本に持ち帰って…」
と、思っていたであろう空海・・・と、これまたグッドタイミングで、ちょうど、中国に、次の遣唐使船が入って来たばかり・・・
空海は、その遣唐使船に乗って帰国・・・わずか2年の留学でした。
しかし、それこそ長けりゃ良いってモンじゃありません。
短くとも、しっかりと真言密教を会得して来た空海は、帰国直後こそ、あまりの帰国の早さに筑前(福岡県西部)に留め置かれましたが、大同四年(809年)に京に戻って来ると、またたく間に真言密教の大家として受け入れられ、密教に興味を持った第52代・嵯峨天皇の庇護を受ける事になります。
やがて弘仁三年(812年)には、あの最澄が、わずかな期間の留学だったため、中国で思うように学べなかった密教の教えを請うために、空海のもとを訪れるまでになりました(12月14日参照>>)。
この間、東大寺の別当(寺務の統轄役)などを歴任し、弘仁七年(816年)には高野山の地を賜って、そこに現在の金剛峯寺の開創に着手しました。
そして弘仁十四年(823年)1月19日・・・かつて、平安京の誕生とほぼ同時期に創建されていた東寺=教王護国寺を賜り、そこを真言密教の根本道場としたというワケです。
残念ながら、その後、焼失と再建が繰り返されたため、現在の東寺の建物の多くが室町時代の物ですが、その伽藍配置は、まさに空海が構想したそのままに再建されています。
それこそ、見どころは数え切れないほどあるのですが、中でも必見は講堂内部・・・普通は、曼荼羅(まんだら)で平面的に描かれる密教の宇宙観を、合計21体の仏像を堂内に配置する事によって3D=立体の世界で現される・・・
21体のうち15体が国宝って事もスゴイんですが、その中におわす帝釈天がなおスゴイ・・・何がスゴイって、メッチャ男前=イケメンなのです。
最近では、興福寺の阿修羅像がイケメン(アタシャ中学の時から目をつけてましたデス)と評判になりましたが、ぜひ、コチラのイケメンも・・・目の保養になりますです。
あと、ここの油取り紙は、京都一って評判ですので、お土産にどうぞ・・・
って、なんだか、邪心まるだしの寺詣りしてるのがバレてしまいましたが、今日のところは、このへんで・・・
●東寺&西寺跡のくわしい行き方は、本家HP:京都歴史散歩「平安京朱雀大路を東寺から二条城へ…」で>>
文中に差し込んだ「平安京の比較地図」の散策ルートも紹介しています。
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コメント
高野山へ行ってから、空海のファン?になりました。やっぱり仏教が、それも真言密教がしっくりきます。昨年、上野の国立博物館で空海と密教美術展で曼荼羅と、立体曼荼羅見ました。帝釈天は超イケメンでした。http://bullerbyn.cocolog-nifty.com/blog/2011/09/post-c34f.html
投稿: Lisa | 2012年1月19日 (木) 22時03分
Lisaさん、こんばんは~
真言密教は独特の雰囲気がありますね~
信心には、とんと縁の無い私ですが、曼荼羅を見るのは落ち着きます。
投稿: 茶々 | 2012年1月20日 (金) 03時50分
こんにちは。
私も昨年上野の国立博物館で立体曼荼羅見ました。一部でしかなかったはずですが、なかなかすごかったですね。
東寺の五重塔は、本当に京都のシンボルで、神奈川の私は、新幹線であれが見えてくると、「ああ京都だ!」といつも思います。
最澄と空海の話は、ホントおもしろいですよね。
投稿: YUMI | 2012年1月20日 (金) 14時49分
YUMIさん、こんばんは~
>新幹線であれが見えてくると、「ああ京都だ!」と…
本文にも書きましたが、大阪の私もそう思います(*^-^)
四天王寺のソレとは風情が違うし、周囲のの建物の雰囲気も…
パッと見て「京都」とわかる景色ですね~
投稿: 茶々 | 2012年1月20日 (金) 19時32分