今や父子2代の物語…斉藤道三の長井氏乗っ取り
享禄三年(1530年)1月13日、西村勘九郎が長井長弘夫妻を殺害して長井家を乗っ取り、長井新九郎と改名しました。
(年が天文二年(1533年)説、日付が2月2日説もあり)
・・・・・・・・・
この西村勘九郎という人物が、後の斉藤道三(もしくはその父)ですね。
・・・とは言え、ご存じのように、道三の前半生は謎だらけ・・・
そもそもは、あの『信長公記(しんちょうこうき)』に・・・
「斉藤山城道三は、元来、山城西岡の、松波と云ふ者なり。
一年下国候(げこくそうらい)て、美濃国長井藤左衛門を憑(たの)み、扶持(ふち)を請(う)け、与力をも付けられ候折節(おりふし)、情けなく、主の頸(くび)を切り、長井新九郎と名乗る…」
と、つまり、斉藤道三は、山城(京都)から美濃(岐阜県)にやって来て、長井藤左衛門に仕えたが、非情にも、主君を殺して、その後、長井新九郎と名乗った、と・・・
さらに、その後、守護の土岐頼芸(よりなり)を追い出して(12月4日参照>>)、最後は、息子・斉藤義龍(よしたつ)と長良川にて一戦交え(10月22日参照>>)、敗れ去った・・・と、ここでは、道三が身を起こして亡くなるまでの過程を、一代記のように記してします。
ご存じのように、この『信長公記』は、織田信長に仕えた太田牛一(おおたぎゅういち)なる人物が記した物で、あまたある戦国時代の記録の中でも、屈指の1級史料とされる物です。
なので、以前は、『信長公記』での記述が正しいとされ、あの司馬遼太郎の小説『国盗り物語』を筆頭に、小説や時代劇などでは、ほぼ、そのように描かれてて来ました。
とは言え、以前から、その一代記を否定する史料が無かったわけではありません。
近江(滋賀県)と美濃の戦国時代を描いた『江濃記(えのうき)』という文献には・・・
美濃の守護代である斉藤氏の家臣に長井藤左衛門(とうざえもん)なる人物と、その家来で、もともとは山城国西岡の浪人だった長井豊後守(ぶんごのかみ)がいたものの、豊後守はどんどん力をつけて来て、いつしか、二人は肩を並べるほどに・・・
やがて、守護代の斉藤氏が断絶すると、二人は領地を分け合います。
しかし、豊後守が病死すると、その息子である山城守利政(やましろのかみとしまさ)が藤左衛門を討ち、その後、斉藤氏を名乗って道三と号した・・・と、途中で息子に代替わりしている事が書かれています。
しかし、何と言っても、コチラは軍記物・・・このブログでも度々お話しています通り、軍記物というのは、歴史小説の色濃く、おもしろい事はオーバーに、都合の悪い事は無かった事にするのが常とう手段・・・まぁ、楽しい読み物というのが軍記物のコンセプトですから、創作あって当然なんですが、それ故に、コチラは2流の史料とされていたんですね~
ところが、昭和三十九年(1964年)、岐阜県が『岐阜県史』を編さんするために各地の史料を調べていたところ、永禄三年(1560年)7月21日付けで書かれた六角承禎(じょうてい・義賢)(9月13日参照>>)の書状が発見されたのです。
これは承禎が家臣に宛てた手紙で、当時、持ちあがっていた承禎の息子・義治(よしはる)と斉藤義龍の娘との結婚話を取りやめにするように・・・つまり「俺は、その結婚に反対やゾ!」って手紙です。
そこに、なぜ反対なのか?という理由として斉藤家の事が書かれているのです。
永禄三年(1560年)と言えば、道三が死んでから、まだ4年目・・・しかも、承禎本人の手紙に間違い無しという事なので、その内容は極めて信憑性が高いわけです。
・・・で、その手紙に何と書いてあったか・・・
画像に見える右から3番目の「一、」から、その話は始まります。
『一、彼斎治身上義祖父新左衛門尉京都妙覚寺…』
「義龍の祖父の新左衛門尉(しんざえもんのじょう)は、京都の妙覚寺の僧侶をやめて、西村と名乗り、長井弥二郎に仕えて美濃をグッチャングッチャンにして、ほんで、出世したもんやさかい、自分も長井姓を名乗りよったんや。
父親の左近大夫(さこんだゆう・道三の事)の代になってからは、主家を討ち殺して名跡を奪うて斉藤を名乗り、あまつさえ、守護の土岐頼芸はんと口うらを合わせて、その弟を呼び出して殺したうえに、頼芸はんも追放したんや。
義龍は義龍で、自分の弟を殺して、果ては父親とも合戦やって・・・
この家系は、代々に渡って極悪非道な事やってる成り上がり者や!」
そやから、やめとけ・・・という事だそうです。
とは言え、これまで一代記だと信じられて来た道三の生涯・・・しかも、道三に関する史料も多くない中では、まだまだ検証の余地ありという物ですが、現在では、道三の出世物語は、父子2代の話であったというのが定説となっています。
そんな中、やっぱり気になるのは、それならそれで、いったい、どのあたりから道三自身の出来事なのか?というところ・・・
現在では、長井長弘が急死したのは天文二年(1533年)とされ、京都の公卿の日記から、道三の父の新左衛門尉も、ほぼ同時期に病死したとされます。
・・・で、そんな中、道三が長井新九郎規秀(のりひで)の名で登場する現存最古の文書の日づけが天文二年(1533年)の11月26日・・・おそらく、父の死を受けて、その後を継いだばかりと思われます。
ただし、この文書は、守護代の斉藤氏が出した法度を捕捉する形で出された公式文書で、長井景弘という人物との連名の署名となっています。
この景弘という人は、その名前でお察しの通り、本日、亡くなったとされる長井長弘の息子・・・しかし、この景弘さんの名は、この文書を最後に2度と登場しません。
この9カ月後の、天文三年(1534年)9月に出された『藤原規秀禁制』(華厳寺文)では、長井規秀=道三の単独署名となっています。
つまり、この2通の文書の間で、完全に長井氏の名跡を継いだという事ですね。
果たして、道三は、その景弘なる人物を討って、その名跡を手に入れたのか???そこンところは、もう、しばらくの時間が必要ですね。
・・で、この次の道三は、いよいよ斉藤氏・・・という事になりますが、そのお話は、また、いずれかの「その日」に書かせていただきたいと思います。
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コメント
興味深く読ませて頂きました。
岐阜市内出身の私がこの夏、帰ったおり、いろいろ斎藤道三ゆかりの地を歩きました。稲葉城山のほとりで大仏殿の近くにある彼の菩提寺に詣り,娘にあてた手紙をみていますと、どうも彼がよく記述されている非情な人には思えなくなりました。むしろ信仰心の篤い人ではなかったかと。
投稿: Montague | 2012年1月14日 (土) 08時44分
Montagueさん、こんばんは~
世の常として、負け組の言い分は後世には残りませんからね~
逆に、勝ち組は、自らの悪行を末梢する事ができます。
道三も、非情なばかりの人ではなかったと思います。
ただ、戦国を生き抜くためには、時には鬼にならねばなりませんが、それは、時代の波に乗る事でもあると思います。
投稿: 茶々 | 2012年1月15日 (日) 02時17分