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2012年1月18日 (水)

幕末の名君…「肥前の妖怪」佐賀藩主・鍋島直正

 

明治四年(1871年)1月18日、第10代肥前佐賀藩・藩主の鍋島直正が58歳で亡くなりました。

・・・・・・・・・

幕末に功績のあった藩を、雄藩と称して「薩長土肥(さっちょうどひと言われます。

「薩」薩摩(鹿児島県)「長」長州(山口県)「土」土佐(高知県)、そして「肥」肥前(佐賀県)ですね。

薩摩には西郷隆盛大久保利通、長州には高杉晋作桂小五郎(木戸孝允)、土佐には後藤象二郎板垣退助・・・脱藩してはいても、中岡慎太郎坂本龍馬の名を忘れる事はできません。

・・・で、肥前は???

早稲田の創設者である大隈重信や佐賀の乱の江藤新平(4月13日参照>>)がいるけれど、彼らが活躍するのは、あくまで維新が成ってから・・・

実は、佐賀藩が雄藩の一つに数えられるのは、個人ではなく、藩全体のチームプレーによる功績・・・そこには、幕末の動乱において、見事に藩の動向をリードした当時の藩主・鍋島直正(なべしまなおまさ)があったのです。

Nabeshimanaomasa500 天保元年(1830年)、父の隠居の後を受け17歳で第10代藩主となった鍋島直正・・・後に隠居して閑叟(かんそう)と号するので鍋島閑叟の名で紹介される事もありますが、

とにかく、彼が藩主となった頃の佐賀藩は、とんでもない状況だったのです。

当時、あの長崎が佐賀藩の管轄であった事から、フェートン号事件に代表される外国からの脅威に対して長崎の警備強化に多大な費用がいる事・・・

藩主となる2年前にあったシーボルト台風によって大きな被害が出た町の復興・・・

さらに、隠居した前藩主の父が、けっこうな贅沢好きで、バンバンお金を使う事・・・

などなどが相まって、佐賀藩の財政は破たん寸前・・・直正が藩主になって、初めて国許へ行こうと藩邸を出た時には、借金取りが群がって、その隊列が前に進めなかったほどだったとか・・・

そんな中、藩の財政立て直しに着手する直正でしたが、最初のうちは、隠居してもなお権力を持つ父やその取り巻きに阻まれ、質素倹約を推し進めるくらいしかできませんでした。

しかし天保六年(1835年)に、これまで藩政の中心だった佐賀城・二の丸が大火で全焼して本丸へと移転した事をキッカケに、父の存在を押し倒し、独自の改革を始めたのです。

まずは、役人の人数を大幅カット、同時に、強気姿勢で借金の棒引きを認めさせ、その一方で、国内産業の育成や交易に力を注ぎ、藩校・弘道館(こうどうかん)を充実させて、次代の人材育成にもあたり、見事に財政を立て直していきました。

中でも、自ら蘭学を学び、西洋の技術を積極的に受け入れ、軍事力や産業力を強化する事を実践していきます。

天然痘が流行した時には、いち早くオランダから牛痘ワクチンを輸入し、自らの息子を実験台に試験してみせたのだとか・・・

以前、緒方洪庵(こうあん)先生のページで、牛痘ワクチンを分苗してもらい、そこから予防接種開始する(6月10日参照>>)とお話させていただきましたが、それを洪庵に提供したのがこの直正・・・彼がいなかったら、洪庵先生の功績も半減していたかも知れないのです。

そんな佐賀藩は、軍事・産業面において、反射炉や蒸気船を自前で造り出すほどに、その技術は高まっていきます。

つい先日お話した、からくり儀右衛門こと田中久重が、その才能を思う存分発揮できたのも(1月11日参照>>)直正の政策あっての事・・・

あのペリー来航に慌てた幕府が、品川沖に造ったお台場(8月28日参照>>)に設置された砲台も、ほとんど佐賀藩の技術提供によるものだったとも・・・

ここに来て佐賀藩が持つ火力たるや、あの島津斉彬(なりあきら)(7月16日参照>>)の薩摩にも負けないくらい・・・いや、むしろ表に出ないところで、この時点で最強の軍事力を保有していたのは佐賀藩だったのです。

しかし、何と言っても直正のスゴさは、その身の置き所の選択のウマサ・・・

そこまでの軍事力を持っておきながら、積極的に先頭に立つ事もなく、かと言って「そうせい候」と呼ばれる某藩主のように家臣にまかせっきりという事もなく、尊王攘夷派とも公武合体派とも手を組まず・・・

そのために、まったくとらえどころのない「肥前の妖怪」と言われたりなんぞしました。

しかし、それでいて、国政や天下取りに興味が無いかと言えば、そうではない・・・むしろ、そこに参加するベストな機会を、虎視眈々と狙っていたのです。

その最高の機会が、あの上野戦争(5月15日参照>>)でした。

鳥羽伏見の戦いが終わっても(1月9日参照>>)、続く戊辰戦争も佳境に入って官軍が江戸に押し寄せても(3月14日参照>>)、そこに参戦しなかった直正は、最後の将軍となった徳川慶喜(よしのぶ)恭順姿勢や、官軍の動向を見据え、上野戦争直前になって官軍に加わったのです。

もちろん、鳥羽伏見の戦いからここまでの状況を見れば、薩長有利で、慶喜に戦う意思が無いのは誰が見ても明らかですから、このあたりで官軍に寝返った藩は多数・・・むしろ会津藩(8月20日参照>>)長岡藩(5月13日参照>>)のように、最後まで姿勢を全うした藩のほうが少ないです。

しかし、他の藩とは違い、佐賀藩は特別・・・それは、その見事な軍事力を発揮できる最高の舞台である上野戦争での参戦というベストなタイミングを見計らったという事・・・

佐賀藩が保有していた最新鋭の武器=アームストロング砲をひっさげての参戦が、物を言ったのです。

もちろん、上野戦争には、それを指揮した大村益次郎の見事な作戦という物があり、上野戦争がたった1日で終結するのも、益次郎の手腕あればこそ!とも言われますが、佐賀藩の参戦が官軍の火力を飛躍的に向上させた事は間違いなく、それこそ、この佐賀藩のアームストロング砲の存在ありきの益次郎の作戦という事もあるのではないでしょうか?

こうして、佐賀藩を幕末の雄藩の一角に滑り込ませた直正は、維新後に新政府の議定(ぎじょう)に就任した後、明治四年(1871年)1月18日藩邸にて、58年の生涯を閉じました。

その最後の言葉は
「廃藩置県に協力せよ」

元藩主として、いち早く廃藩置県に賛同していた直正は、蝦夷開拓にも力を注ぎ、満州開拓オーストラリアなど、外国にも広い目を向けていたと言われます。

この先、そんな外国と対等に渡り歩かねばならない日本・・・そのための中央集権に欠かせない廃藩置県・・・

もはや、彼は、50年先、100年先の日本を見据えていたのでしょう。

その廃藩置県が発布されるのは、直正の死から半年後の明治四年(1871年)7月14日の事(7月14日参照>>)・・・

個人パフォーマンスを好まず、チームの全体の向上に徹し、その力を一番発揮できる場所へと導く手腕は、まさに最高のリーダーと言えるかも知れませんね。
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コメント


我らが大先輩に、直正公のお孫さんと親友だった方(故人)がおられました。学生時代、一緒に上海に遊びに行ったとか。

その鍋島さんがパリに行くので、仕えていた腕っこきのコックさんを貰い受けたそうです。すっごい美味しかったらしいですよ。

鍋島さん、パリで華やかな生活を送ってたらしいですが、ひょっとしたら、贅沢好きは、直正公の父君の隔世遺伝?若死にされてますが、交互にタイプが入れ変わるのかも。
もちろん、戦前の、古き良き時代の話です。

投稿: レッドバロン | 2012年1月19日 (木) 05時05分

>明治四年(1871年)1月18日、第10代肥後佐賀藩~
はい、ツッコミま~す。( ̄ー ̄)ニヤリ
肥後は熊本県ですよね?

投稿: ことかね | 2012年1月19日 (木) 12時37分

レッドバロンさん、こんにちは~

あの古き良き時代の方々はね~
庶民とは違うので致し方ないでしょうね~

その時代に、パリに行けるわけですから…

まぁ、お金に余裕があれば、それも良いと思いますが…

投稿: 茶々 | 2012年1月19日 (木) 13時28分

ことかねさん、ありがとうございます

ウォー!!
しょっぱなに!!
めっかちゃった

訂正しときます。
♪あんたがたどこさ♪

投稿: 茶々 | 2012年1月19日 (木) 13時31分

こんばんは。

肥前の妖怪こと鍋島直正さんのどっち付かずな所が面白いです。種痘や洋式化に早くから目を向けていた事に、変わりゆく時代の名君と思わされます。

アームストロング砲と叫ばしてください!

投稿: Ikuya | 2012年1月19日 (木) 21時01分

Ikuyaさん、こんばんは~

アームストロング砲、バンザイ!

ちなみに、軍備・武器にウトイ私は、アームストロング砲以外は、波動砲しか知りません(。>0<。)

投稿: 茶々 | 2012年1月20日 (金) 03時48分

昨年「ロンギヌス迷宮」を執筆・出版しました。宗教観、世界史ー古代から現代まで、WW2期の航空機技術論など多彩な色を散りばめた話。YAHOOで書名を入れ、検索してみてください。鍋島家の皆様とも交流があり、4月5日に行われた吉浦神社(嬉野市、肥前鹿島駅)の春の例大祭でも、蓮池藩鍋島家の殿様と会い、イロイロ話をする機会がありました。さて、幕末の雄藩・佐賀藩を舞台にした歴史小説を考えています。上記の内容大変興味深く読ませていただきました。物語を書くには、膨大な資料(史料)が必要です。また機会がございましたら、ご協力いただければ幸いです。なお、連絡先は拙著「ロンギヌス迷宮」にg-mailアドレスがございます。

投稿: 龍造寺こうゆう | 2013年5月26日 (日) 22時05分

龍造寺こうゆうさん、こんばんは~

執筆活動ですか…
大変だとは思いますが、頑張ってくださいませm(_ _)m

投稿: 茶々 | 2013年5月27日 (月) 01時59分

滑空砲に、中隊規模の指揮体制改革
肥前の鼠は日ノ本の明日にしか興味がなかったのかもしれませんなあ

投稿: 上瀧ごんべえ | 2016年9月18日 (日) 17時58分

上瀧ごんべえさん、こんばんは~

先見の明はあったでしょうね。

投稿: 茶々 | 2016年9月19日 (月) 02時27分

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