島原の乱が残した物は…
寛永十五年(1638年)2月28日、幕府の総攻撃によって、天草四郎が率いる反乱軍が籠城する原城が落城・・・島原の乱が終結しました。
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・・・と、これまで、島原の乱関連の記事を何度か書いておりますので、その経緯などについては、それぞれのページでご覧いただくとして、
- 10月25日:乱・勃発>>
- 11月9日:幕府が板倉重昌らを派遣>>
- 翌年2月28日:乱・終結>>
- 天草四郎・生存説>>
本日は、乱のその後のお話を・・・
・‥…━━━☆
元和偃武(げんなえんぶ)・・・
これは、あの大坂の陣で豊臣家を倒した徳川家が、元号を慶長から元和の改めて、応仁の乱以来続いた戦乱の世に終止符を打った事をあらわした言葉で、偃武とは「武器を納める」という意味です。
その後、一国一城制を定め、武家諸法度を発布し、参勤交代の制度も完成させて、生まれながらの将軍=第3代・徳川家光のもと、まさに、江戸幕府の基盤が出来上がり・・・
そんな時期に起こった島原の乱は、「やっと完成形を見たか」と思っていた幕府を震撼させたのです。
一つの城に籠城した農民が蜂起するだけでも由々しき問題な中、鎮圧に向かわせた九州の大名たちが、意外にも手こずってしまった事・・・
なので、幕府は、地元の島原藩主・松倉勝家を領地没収の後斬首、唐津藩主・寺沢堅高(かたたか)の天草領没収をはじめ、細川・鍋島・黒田など、鎮圧に参加した九州の諸大名たちにもいっさい加増は行わないという厳しい態度での論功行賞を実施しました。
手こずったとは言え、なんだかんだで最終的に鎮圧した、言わば勝利した戦いに対しての始末としては、ハンパない厳しさです。
もちろん、上のほう人だけでなく、下は鉄砲隊や足軽まで、弾が残ってるのに撃たなかったとか、退却が早すぎたとかで処分・・・中には切腹にまで及んだ者も数多くいたとか・・・
一方のキリシタンに対しても、すでに発令されていた禁教令をさらに厳しい物とするほか、寺請(てらうけ)・檀家(だんか)制度を実施して、寛永十七年(1640年)には諸国に宗門改役(しゅうもんあらためやく=キリシタンの取り締まり役)をおきました。
これで、民衆は皆、幕府→本寺→末寺→檀家として、幕藩体制にバッチリ組み込まれ、(キリスト教以外の)どこかの宗派に属し、寺の檀家として記録されなければ、住民として認めてもらえないわけですから、やむなく改宗するか、表向きはどこかの寺の檀家となっておいて、ウラで信仰を続ける隠れキリシタンになるかしかなくなるわけです。
・・・と、乱の終結直後は、このような動きを見せる幕府側の対策ですが、実は、島原の乱には、もっともっと大きな問題が隠されていたのです。
それは、この乱の一番の責任者として斬首される松倉勝家のお父さん・松倉重政(しげまさ)のご命日のページにもチョイと書かせていただきましたが(11月16日参照>>)、この島原の乱がキリシタンの宗教一揆ではなく、重い税や統治の問題に反発した農民一揆では無かったか?という事です。
宗教一揆なら、上記の通り、禁教令を出して厳しく弾圧すれば何とかなります。
しかし、農民の不平不満による一揆なら、全国各地に不満を抱える農民は山といるわけですし、それぞれ問題が違いますから、いくら島原の乱を鎮圧したとて、次から次へと新たな乱が勃発しないとは限りません。
しかも、これだけ大きな乱となると、その荒廃ぶりも凄まじい物だったのです。
一説には、乱で犠牲になった島原の領民の数は3万7000人を越えると言われています。
つまり、それだけの納税者が、島原&天草地方からいなくなったという事になります。
その場所を統治している大名にとっても、その大名を従える幕府にとっても、これは由々しき問題です。
もちろん、これは、島原に限った事ではありません。
ここまで規模は大きくなくても、役人に反発した村人をかばったとして村ごと根絶やしにしたり、「反発するなら斬っちゃえばいいじゃん」で、無理な重税を課したりする事が、この時代は、まだまだ日常茶飯事だったのです。
これは戦国の名残りとも言えるもの・・・戦国時代なら、領主は、次から次へと武力で以って周囲に進攻し、領地を増やす事ができましたから、むしろ、言う事を聞かない農民は力で抑えつけるのが当たり前・・・むしり取った領地だって、その主人もろとも根絶やしにするのが当然でした。
しかし、幕藩体制が整った江戸時代・・・そんな事をすれば、それが、そのまま税収に響き、荒廃した場所を復活させる事にとてつもないエネルギーがいる事を、彼らは、この島原の乱で知ったのです。
この乱において、島原藩4万石のうち、約半数以上の2万2000石が無人の土地となった言われる島原・・・
幕府は、近隣諸国から島原への移住者を促進するとともに、ここで、大きな政策転換を図らねばならない事を悟りました。
力で押さえる戦国の世を終わらせねばならないのは、誰あろう、自分たち=武士・・・猛き心を抑えて、民衆への愛情を持つ政治家へと変わらなければ・・・
そして、島原の乱から約40年後・・・ここに、見事な将軍が登場します。
ご存じ、犬公方=第5代・徳川綱吉です。
彼は、武家諸法度の第1条にあった
「文武弓馬の道、専ら相嗜むべき事」
(武士たる者、いかなる時も武勇の道を怠ったらあかん!)
を、
「文武忠孝を励まし礼儀を正すべき事」
(忠義の心、孝行、礼儀が大事やで~)
に変更します。
以前も、書かせていただいたように、稀代の悪法と言われる生類憐みの令を発令する綱吉ですが、見方を変えれば、この法令は、人を含む、あらゆる動物の命を大切にする法でもあるのです(1月28日参照>>)。
そこに、血で血を洗う戦国を終わらせたい綱吉の意図があったとしたら・・・
いやはや、歴史という物は、様々な見方ができるものだ・・・とつくづく
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コメント
犬公方綱吉公って、文化面では一目おかれるそうです。能楽「大原御行」とか復活されたとか。
後白河院が建礼門院を訪ねる話。
テレビの「水戸黄門」の影響で、かなり
評価が低いのが残念です。
この時代は景気よかったみたいですね。
投稿: やぶひび | 2012年2月28日 (火) 16時23分
安土桃山時代には総人口の「1%強」いた日本のクリスチャンの人口が、江戸時代初頭に激減したわけですね。
ちなみに日本人のクリスチャン比率は、江戸時代より人口が大幅に増加した今日でも、1%の大台に届かないそうです。
ところで明日・「2月29日」のネタは何か考えていますか?
投稿: えびすこ | 2012年2月28日 (火) 16時27分
やぶひびさん、こんにちは~
黄門様はたしなめてましたからね~
将軍家と水戸藩の仲も、ちょっと…という感じになりましたから、黄門様主役のドラマじゃ仕方ないですね~
「昭和元禄」という言葉もありましたね~
あの頃は、景気が良かった
投稿: 茶々 | 2012年2月28日 (火) 16時42分
えびすこさん、こんにちは~
長き禁制でしたからね~
ところで、2月29日は、旧暦の場合は普通に毎年あるので、たぶん、何かあるでしょう。
明治5年からあとの出来事は、極端に少ないと思いますが…
投稿: 茶々 | 2012年2月28日 (火) 16時44分
3万7000人って町ひとつ消えますね……。
当時の九州の人口1%くらいでしょうか。
学校では「島原・天草一揆」と習いましたが、
「島原の乱」と、二通りの言い方があるのはどうしてでしょうか?
ちょっと不思議です。
投稿: ティッキー | 2012年2月28日 (火) 17時23分
ティッキーさん、こんばんは~
>学校では「島原・天草一揆」
へぇ、そうなんですか?
私の時は「島原の乱」オンリーでしたね。
やはり、一揆か聖戦か、解釈によって分かれるのかも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年2月28日 (火) 19時08分
茶々さん、こんにちは。
島原の乱=農民一揆という説を始めて知ったのは30年ぐらい前でしたが、まだ定説になってなかったのかな?この乱で島原半島南部には誰も居なくなったそうで、今住んでいる人たちは主に瀬戸内から移住してきた方たちの子孫だとか。
投稿: 高来郡司 | 2012年2月28日 (火) 23時30分
高来郡司さん、こんばんは~
う~ん??
どうでしょう?
もう、定説になってるんでしょうか?
ただ、島原半島では農民一揆の色が濃かったですが、天草の島々ではキリシタン一揆の性格が強かったような気もしますし、そこに旧小西の浪人も絡んで来ますから、なかなか複雑かも知れません。
投稿: 茶々 | 2012年2月29日 (水) 00時24分
島原の乱の後、幕府の直轄領となった天草の代官に赴任した鈴木重成さん。検地をやり直し、年貢の減免を願い出る交渉中に急死します。幕府に対して、抗議の切腹をしたという説があります。
後を継いだ息子さんに 幕府は年貢の半減を認め、天草はほっといても農民が流入してくるような、豊かな土地になったといいます。
命がけで農民を守った鈴木親子は 天草では神様(鈴木神社)として祭られているそうです。茶々さま、機会がありましたら、おとり上げを。
投稿: レッドバロン | 2012年2月29日 (水) 02時13分
レッドバロンさん、こんにちは~
鈴木重成さんは名代官だったようですね。
自刃については、否定説もあるようなので、もう少し、イロイロと調べてみたいと思います。
ありがとうございました。
投稿: 茶々 | 2012年2月29日 (水) 09時31分
島原の乱のその後ですが、天草四郎と首謀者一味が長崎で晒し首にされたのはよく書かれていますが晒された場所が出島前だったそうです。
その一味の首の中に四郎さんの父親は含まれていなかった様で、私はてっきり反乱軍の実質的な指揮をとっていたのは四郎くんのお父さんだと思っていました。
元小西行長の家臣で地元の盟主、所謂元国人衆のお家復興の野心が絡んだ反乱だと思っていたので、そういう側面は有ると思いますが、四郎くんのお父さんはそんなに積極的な働きはしていなかった様です。
変わりに四郎くんのお姉さんが首魁一味で首を晒されたそうです。実質四郎の後見役はお姉さんだったのでしょう。
因みにこの頃の出島の住人はポルトガル人でした、ポルトガルを追い出してからオランダ商館を出島に移した訳で、何でポルトガル商館前で首謀者一味の首を晒したのかはさて置き(笑)松倉勝家さんですが、1万人以上の反乱軍(2万人とも)を相手に守備兵1千人余りで島原城を守り切りました、私は勝家が愚かな領主だったとは思えません、少なくとも可也優秀な司令官だったと思います。勝家さんは悪役で語られる事が多いので、ちょっと弁護(笑
投稿: udauda | 2016年7月29日 (金) 06時04分
udaudaさん、こんにちは~
天草四郎のお姉さん=レシイナ(福)さんですね。
そうですか、お姉さんの首が晒されたんですか。
お母さんや妹さんはどうだったんでしょう?
お母さんはけっこう関わってたような印象ですが…
松倉さんは、そのお父さんと同様に、かなり印象操作されているように感じています。
投稿: 茶々 | 2016年7月29日 (金) 17時39分
茶々さん、
島原城は大きな城だとバスから見てもわかるのですが、あれは国内向けでなく海外向けだなと口之津のカラ行きさんの話を聞いてそう思いました。
実際に松倉家は海外遠征を考えていたようですし、幕府もそれを真剣に練っていました。
それを考えますとあの乱の背後にカトリック勢力またはルソンに逃れた豊臣家が黒幕かなと思ったりします。実際にルソンはシドッチを取り締まった新井白石がルソンで日本語を習ったと言っていましたし、新井白石の頃でも日本人町が残っていたのでそうかなと思ったりしますし、四郎はルソンに逃げた説もありますので・・・
ところで私は松倉も寺沢も嫌いだったのですよ。洗礼を一応受けていますのでクリスチャン的な見方をするのですが、でも松倉、寺沢みたいなことをしている大名はこのころ珍しくないし、加賀の亡霊伝説を見ても残酷な仕打ちをしている大名が多いのに何故ここだけが反乱を起こしたのか?または何故お家断絶になったのか?また勝家だけ斬首というのも納得できないし、勝家も寺沢も島原城、富岡城を落とされていないし、原城に追い込んだのです。その点がシャクシャインの乱の時よりも有能なのにです。この点の謎がまだまだ明らかになっていないと思います。
投稿: non | 2016年7月30日 (土) 17時13分
nonさん、こんにちは~
不可解な事が多いですね。
幕府は何を隠したかったんでしょうか...
投稿: 茶々 | 2016年7月30日 (土) 17時48分