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2012年2月 2日 (木)

終結へ向かう日清戦争~威海衛・攻略

 

明治二十八年(1895年)2月2日、日清戦争にて日本軍が、威海衛を攻略しました。

・・・・・・・・・・

未だ政治の混迷が続く朝鮮をめぐって対立していた日本と清国(しんこく・中国)・・・

明治二十七年(1894年)の2月に勃発した朝鮮の内乱鎮圧のために派兵した両国の間に起こった軍事衝突をキッカケに、両者は日清戦争へと突入します。

日本にとっては、明治維新以降、富国強兵を旗印にまい進して来た中の、初めての本格的な対外戦争・・・一方の清国は「眠れる獅子」と恐れられた大国です。

開戦前には、「おそらく日本が不利」・・・と思われていた予想に反して、連合艦隊が制海権を握り、朝鮮半島と遼東半島を主戦場として戦う陸軍も勝利を収め明治二十七年(1894年)11月には旅順口(りょじゅんこう)を攻略しました。

★これまでの日清戦争の経緯については、コチラのリンクから↓

・‥…━━━☆

旅順口を攻略した事で勢いづいた大本営は、本来なら、翌年の春に予定していた直隷(ちょくれい=北京近郊)での決戦を前倒しして、「冬の間にやってしまおう」と、旅順攻略直後に、第1軍・第2軍、そして連合艦隊に向け、戦闘準備に入るよう命令を出しました。

しかし、そこに「待った!」をかけたのが、第2軍司令官大山巌(いわお)連合艦隊司令長官伊東祐亨(ゆうこう)・・・

二人の連名による電報には、極寒期における直隷付近での戦闘の難しさ、抜海湾の凍結による物資運搬の難しさなどを指摘したうえで、
北へ進むよりは、山東半島の攻略や清国艦隊の撃滅作戦を行ったほうが良いのでは?

という意見が書かれてあったのです。

先の旅順攻略のページにも書かせていただいてますが、ここのところ、夜ともなれば氷点下となり、軍服も凍りつくような寒さの毎日なのですよ。

ちなみに、この頃、最前線にいた兵たちの間には、不思議な話が残っています。

この戦争に一兵卒として参戦していた田中岩次郎という人物の証言によれば・・・

この頃は、もはや頭上を銃弾が飛び交っている時でさえ、意識が朦朧(もうろう)としてしまうような事がしばしばあり、中には、そのまま眠りについて亡くなってしまう者が出るほどの疲労困憊状態だったそうなのですが、

ある時、彼も、途中で意識が飛んでしまい、ハッと我に返って、再び銃をかまえると、なんと、銃弾飛び交う彼らの目の前を、赤い帽子をかぶった10数騎の騎兵が、右に左に縦横無尽に走って行ったのだとか・・・

もちろん、その一団を見たのは、田中一人ではありません。

そこにいた何人かの者が目撃し、「あれは敵か、味方か?」と大騒ぎに・・・また、その後も騎兵隊は何度となく現われ、その度に彼ら将兵たちを励まして、やがて勝利に導いてくれたと・・・

そのために将兵たちの間では、その幻の騎兵隊を「神兵」と呼んでいた・・・って事らしいのですが、これ、明らかに幻覚見てます

そんな話が兵たちの間で語られるほど、限界に来ていた彼らを、現地軍のトップである大山たちは目の当たりにしているのですから・・・意見を言いたくなるのも無理はありません。

かくして12月14日、大本営は、直隷攻略を延期して、山東半島攻略作戦を実行する事を決定します。

やがて年が明けた明治二十八年(1895年)1月20日・・・

連合艦隊の先発隊・4隻は山東半島の東に位置する湾内に入り、海軍陸戦隊の38名が上陸を開始します。

鉄砲射撃で清国軍を撃破しながら付近を制圧し、続いて午前8時頃から、歩兵部隊が本格的な上陸を開始します。

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↑クリックしていただくと大きいサイズで開きます
(このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません)

26日には、全部隊の上陸を完了・・・ここで、司令官・大山は、部隊を2手に分けて西へ・・・鳳林集(ほうりんしゅう)の南東を目指して兵を進めます。

この時の最終目標は威海衛(いかいえい)ですが、そこは堅固な要塞に守られた軍港都市でしたから、「そのまま、まともに攻撃をすれば多大な犠牲が出る」と考えた大山による、まずは、手薄と見られる南側から攻める作戦だったのです。

1月30日鳳林集への集中攻撃を開始した日本軍は、その日のうちに威海衛湾南岸の要塞を制圧・・・そして、さらに左岸を進み、明治二十八年(1895年)2月2日、ついに威海衛を攻略しました。

そして休む間もなく、放棄する時に清国兵が自ら壊していった各要塞砲の修理に入ります。

一方、この時、天候の悪化による激しい風雪に行く手を阻まれ、零下20℃の気温で甲板も凍りついて身動きとれなかった連合艦隊・・・

やっと晴れ間の見えた2月3日威海衛沖に集結した後、6日には水雷艇(すいらいてい)が出撃・・・敵・旗艦の定遠(ていえん)をはじめ、清国艦隊の来遠(らいえん)威遠(いえん)などを撃沈させました。

一方、陸に戻って・・・やがて威海衛砲台の修理が完了した7日・・・沖に浮かぶ日島(にっとう)砲台に向けて、陸からの砲撃を開始すると、それに連動するかのように、連合艦隊から劉公島(りゅうこうとう)への艦砲射撃が開始されます。

海から陸からの縦横無尽の砲撃に、湾周辺にいた清国艦隊はほぼ壊滅状態・・・まともに動ける大きな艦は鎮遠(ちんえん)のみとなり、その後、動けなく定なった遠に代わって、この鎮遠が清国艦隊の旗艦となりました。

しかし、この日の戦闘により、もはや、進退窮まった清国軍・・・

かくして2月12日、日本の旗艦・松島が停泊する陰山口(いんざんこう)に、清国艦隊の小型軍鑑・鎮北(ちんほく)が、白幡を掲げてやってきます。

そこには、この威海衛での作戦を指揮していた清国軍水師提督丁汝昌(ていじょしょう)降伏文書を携えた使者が・・・

日清戦争がいよいよ終結に向けて進みはじめました。

ただ・・・その日の夜、丁汝昌は鎮遠の船内で服毒自殺を遂げたという事です。

★その後の終結に向けてのお話は、また「その日」に書かせていただきたいと思います。
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コメント


日清戦争も いよいよ大円団ですね。それにしても、漢字の国だけあって、威海衛とか、地名が素晴らしいですよねえ〜。日露戦争に出てくる水師営、黒溝台、奏天なんて地名も いいですけど。

一点だけ、山東半島上陸の箇所で、海軍陸連隊となってましたが「海軍陸戦隊」が正しい表記では?軍の用語を普段は使わない茶々様には御苦労ですけれど。

投稿: レッドバロン | 2012年2月 3日 (金) 03時35分

レッドバロンさん、こんにちは~

アッ!ホントだw(゚o゚)w

きがつきませんでした~
ありがとうございますm(_ _)m

訂正しときます。

投稿: 茶々 | 2012年2月 3日 (金) 12時18分

清国海軍提督の丁汝昌といえば、陳舜臣先生の『小説日清戦争 江は流れず』の主人公ですね。当時は軍隊の規律が低かったため、読み書きを覚えて真面目に勤めているだけで貴重な人材として昇進できたのですが、そこでとどまらず、海軍や国際法について研究していたそうです。

十分な軍備費用が渡されない中での艦隊運営を強いられ、それでいて負けたら、中央政府に出頭して斬首ですからね…。伊東祐亨がそのことを心配して亡命を勧めたけれども、それも潔しとせず、降伏文書の中で乗員の助命を日本側に要請して服毒自殺。皇帝は葬儀を出すことも許さなかったそうです。非協力的なくせに結果に厳しいトップを持つ集団の現場責任者は辛いですね…。

投稿: おぺりん | 2012年2月 5日 (日) 20時08分

おぺりんさん、こんばんは~

>皇帝は葬儀を出すことも許さなかった

ホント、つらいですね。。。
その結果を予測すればこそ、自らの命を絶ったのでしょうね。

投稿: 茶々 | 2012年2月 6日 (月) 03時33分

日清戦争で、清が負けた“裏の原因”は西太后が原因です。というのも、この人のお気に入りの別荘〔い和園〕(すんまへん。ガラケーなので“い”の字だけが出んかった。)を改装工事したら、予算オーバーで「足んないなら寄越してよ。」と(中国語で何て言ったか知らないけど)軍資金を改装工事費用に回させ、そのせいでやる気を無くした兵士たちは士気が上がらず、結果、大惨敗になった…。これが“裏の理由”なんです。

投稿: クオ・ヴァディス | 2015年5月16日 (土) 21時20分

クオ・ヴァディスさん、こんばんは~

西太后には、様々な噂がありますね。

投稿: 茶々 | 2015年5月17日 (日) 02時20分

>その幻の騎兵隊を「神兵」と呼んでいた…

十字軍の時代のプレスター・ジョンの伝説、
第一次世界大戦時の「モンスの天使」、
ファティマの予言、等を連想しました。

茶々様のご推察のように幻覚の可能性が高いとは思いますが、伝説や幻覚が歴史を動かすこともあります。

時には為政者がうまく利用しますから…

投稿: とらぬ狸 | 2016年2月 2日 (火) 14時45分

とらぬ狸さん、こんばんは~

極限状態でしたからね~
おっしゃる通り、幻覚でも伝説でも、縁起かつぎでさえ、歴史が動く事もありますね。

投稿: 茶々 | 2016年2月 2日 (火) 16時55分

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