織田信長と相撲大会
天正六年(1578年)2月29日、織田信長が安土城に、総勢300人の力士を集めて相撲大会を行いました。
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そもそもは神代の昔・・・
高天原(たかまがはら)から降り立って、「この出雲の国を譲れ!」と迫った建御雷神(タケミカヅチノカミ)に、
「それなら勝負しよう!」
と、建御名方神(タケミナカタノカミ)がもちかけ、
国を懸けての大一番を行ったという『古事記』の記述が発祥と言われる相撲・・・
やがて『日本書紀』では、垂仁天皇の時代に、7月7日の夜に、命を懸けた天覧死合(←この字です)が行われ、奈良時代には大仏でお馴染の聖武天皇も七夕の夜に相撲見物を楽しんだのだとか・・・(7月7日参照>>)
その後、鎌倉時代から室町時代になると、神事やお祭りの余興として行われる一方で、武士たちの合戦の合い間の体力作りなどでも行われ、子供たちの遊びとしても全国に広がっていきます。
さらに、それは競技化されて、江戸時代には興行という形でプロスポーツとなり、土俵入りの元祖と言われる第4代横綱の谷風梶之助(2007年11月19日参照>>)や、そのライバル釈迦ヶ嶽雲右門(しゃかがたけくもえもん)(2010年11月19日参照>>)、今なお史上最強の声が高い雷電為右衛門(らいでんためえもん)(2月21日参照>>)など、数多くの名力士を産む事になる日本を代表する競技となるわけですが・・・
そんな、現代に至るまでのプロスポーツとしての相撲の原点を造ったのが、かの織田信長なワケです。
もちろん、信長が開催した相撲大会は、今回の天正六年(1578年)2月29日以外にもたくさんあるわけで、有名なところでは元亀元年(1570年)3月3日に安土の常楽寺で開催した相撲大会・・・
この時は、この大会の開催を聞きつけて、近江中の力士が集結したと言います。
この時、勝ち残ったのは、鯰絵又一郎(なまずえまたいちろう)と青地与右衛門(あおちよえもん)の2名・・・信長は、この2名に刀と脇差を進呈し、相撲奉行として召し抱えたと言います。
天正六年(1578年)8月15日の相撲大会では、1500人の参加者のうち、良い成績を収めた14人の力士に、100石の土地と家を与えたのだとか・・・
また、天正七年(1579年)8月6日と7日の2日間渡って行われた大会では、数人の従者とともに厩(うまや)に立て籠ってから勝負に挑むスタイルで、7人抜きの大活躍を見せた伴正林(ともしょうりん)という少年に100石を与え、馬廻りとして家臣の列に加えたのだそうです。
ちなみに、この正林は、なんと、あの本能寺の変で信長とともに亡くなっています。
また、ある時は、最後の二人になって、どうしても勝負がつかず、両者の検討を讃えて、引き分けではなく、両方の勝ちという采配をしたとか・・・信長さん、ゴキゲンです。
この時の二人の勝者は、東から土俵にあがった豊浦の伝蔵と、西から土俵にあがった常楽寺の右馬次郎(うめじろう)の二人・・・
この二人には、それぞれが土俵にあがった方角から、「東」という姓と「西」という姓を与えたのだとか・・・しかも、なんと、そのご子孫の東さんと西さんが、現在も安土に住まわれているとの事・・・おそらくは、姓とともに、家屋敷や、ある程度の禄(給料)もいただいたのでしょうね。
しかも、東と西って・・・そうなんです、一説には、相撲が東西になったのも、信長さんのこの出来事から・・・なんて話も・・・
さらに、相撲の信長発(初)は、他にも・・・
はじめのうちは、土俵などなく、力士や観客が周囲を囲んで、その中で戦いをやるというスタイルで、しかも、時間短縮のため、次から次へと、真ん中に力士が入って来ちゃ戦いが始まるといった具合で・・・(伴正林の7人抜きって、そういう事なのねん)
それでも、キレイに勝負が決まった時は良いですが、当然の事ながら微妙な勝負だとモメにモメまくりで・・・やむなく、次回からは、見極め人なる者を設置したのだとか・・・そう、これが行司のはじまりなんて事も言われてますね。
なんせ、途中の大会からは、木瀬蔵春庵(きせぞうしゅんあん)と木瀬太郎太夫(きせたろうだゆう)なんてうやうやしい名前の二人が、進行&審判のような形で登場してきますので・・・
さらに、現在、全取組みが終わったあとで行われる弓取り式も、ある大会で優勝した宮居眼右衛門(みやいげんえもん)なる力士に、信長が褒美として弓を与えた事にはじまるとも・・・
ポルトガルの宣教師=ルイス・フロイスは、その著書『日本史』の中で、
「信長は身分の上下に関わらず、裸にして相撲をとらせる事を好んだ」
と書いています。
外国の方なら、上記の「裸に」に喰いつくかも知れませんが、相撲は裸が当たり前の日本としては「身分の上下に関わらず」という、いかにも信長さんらしいところに注目ですね。
幼い頃、有名なあのスタイルで、野山を駆けまわった信長さん・・・おそらくは、ワル仲間たちとも、相撲をとって遊んだ事でしょう。
身分の上下に関係なく、「我こそは!」と思う力自慢を集めて、頑張った者には褒美を与えて、さらに家臣にまでする・・・
プロがプロたるゆえんは、力士の場合は、相撲をとって収入を得るという事なわけですが、そのスポンサーとなった・・・つまり、今も「タニマチ」とよばれる力士のごひいき筋=後援者の元祖が信長だったのですね。
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コメント
両国国技館の館内には「織田信長公相撲観覧之図」と言う絵画があります。
滋賀県に東さんと西さんがいらっしゃる?
東西両家は親交があるのでしょうか?
先日の「福祉大相撲」では江戸時代の横綱秀ノ山の末裔の小学生が登場したとか。
投稿: えびすこ | 2012年2月29日 (水) 16時23分
えびすこさん、こんばんは~
へぇ、そんな絵画があるんですね~
やはり、信長さんあっての相撲ですね。
投稿: 茶々 | 2012年3月 1日 (木) 02時12分
茶々さま、こんばんは
今は昔、相撲大好き”女子”だった私。
そして、戦国三大武将の中で、
これも私が一番好きな信長さんが
そのルーツに深くかかわっていたとは・・・
勉強になりました。
ありがとうございます。
両国国技館の絵、見てみたいです。
投稿: hana-mie | 2012年3月 1日 (木) 20時32分
hana-mieさん、こんばんは~
皆でワイワイやってる感じ…信長さんらしくて楽しそうです。
私も、絵、見てみたいです。
投稿: 茶々 | 2012年3月 1日 (木) 23時28分