将軍の教育係も大変!青山幸成と兄・忠俊
寛永二十年(1643年)2月16日、徳川秀忠と家光の2代の将軍に仕え、摂津尼崎の初代藩主となった青山幸成が59歳で亡くなりました。
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青山幸成(よしなり・ゆきなり)は、徳川譜代の家臣・青山忠成の四男として生まれ、17歳の時に、徳川家康の息子・秀忠の近侍となりました。
その後、大坂の陣などに参戦した功績を挙げ、元和五年(1619年)に常陸国(ひたちのくに=茨城県)新治郡・筑波郡など加増され1万3000石の大名となりました。
さらに、寛永十年(1633年)には遠江(静岡県西部)掛川藩に2万6000石、寛永十二年(1635年)には摂津(兵庫県)尼崎5万石・・・と出世していきます。
初代尼崎藩主となった幸成は、各村の庄屋を統轄する役人=郡右衛門(大庄屋)制度を制定して体制の整備を行い、積極的に新田開発を行った事から、尼崎藩が4000石も石高を増やした・・・という事なので、なかなかの名君でもあったのでしょう。
2代将軍・秀忠の後を継いで、家光が第3代将軍になった時には側用人(そばようにん)として仕えていた幸成・・・
ある時、その家光が、出来上がったばかりの印籠を自慢げに幸成に見せます。
印籠と言えば黒漆塗(うるしぬり)が普通の時代・・・そのシロモノは、それこそ、将軍でしか作れないような派手派手な蒔絵が施された、いかにも高そうな物・・・
「これ、どや!」
と言わんばかりの表情の家光・・・もちろん、その見事さを褒めてもらいたくて見せてるわけですが・・・
すると、幸成は、いきなり顔をゆがめたかと思うと
「印籠っちゅーもんは、薬を入れるためにある物・・・そこにこんな派手な装飾をしても何の役にもたちまへんがな!
長たる将軍様が、そんな事をしたら、大名や町人までマネして、しまいには、どないもならん事になりまっせ!」
と言い、家光から、その印籠を奪い取って、庭にあった飛び石に投げつけ、さらに、足で踏んでブッ壊し、その場で捨ててしまったのだとか・・・
当然の事ながら、そんな幸成の態度に激怒した家光は、すぐさま、彼の所領を没収したのです。
さすがの幸成は、そんな事をすれば、そのような状況になる事は覚悟の上だったのか?、さっさと、嫡男・幸利(よしとし)を連れて相模(神奈川県)藤沢に向かい、とっとと蟄居(ちっきょ・謹慎)してしまったのです。
しばらく経って、少し落ち着いた家光・・・確かに、その時は激怒しましたが、落ち着いて考えてみれば、幸成のやった事に対して、与えた処分はちと大き過ぎ・・・
「度が過ぎた処分をしてしまったなぁ」と反省する中、考えてみれば、息子の幸利には何の罪もないわけで・・・
そこで、幸利に「出仕せよ」との命を出す家光・・・
しかし、幸利は
「父が、あなた様のご機嫌をそこねたのですから、その息子が仕えるなどできません」
と、キッパリ!
その後、何度も出仕要請が来ますが、幸利は断わり続け、一生蟄居の身分のままでいたのだそうです。
この幸成・幸利の行動は、自らの進退を懸けて主君の間違いをいさめたとして、後世の側用人たちの鏡になったとか・・・
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と、幸成さんと家光にまつわる逸話をご紹介しましたが、実は、『駿江雑説弁』という書に出てくるというこの逸話・・・どうやら、違うみたいなのですね。
というのも、『寛政重修家譜』という幕府公式の系譜集には、尼崎初代藩主となって家光に仕えた幸成は、寛永二十年(1643年)2月16日に59歳で亡くなるその時まで、老中だった事になっています。
しかも、死が間近に迫った頃には、家光はたいそう彼の事を心配して、周囲の者に容態を訪ねたり、見舞として使者を何度もよこしたりしたようですし、もちろん、その死後の領地は、息子の幸利がしっかりと継いでいます。
どちらが信用できるか?
と言えば、もちろん後者の『寛政重修家譜』のほうが、幕府の公式文書なので、信用度は断然高いわけですが・・・
とは言え、この『寛政重修家譜』・・・完成したのが、文化九年(1812年)って事ですから、幸成さんが亡くなってから150年以上経ってる事になるので・・・
しかも、気になるのは、この幸成さんには7歳年上の忠俊(ただとし)さんというお兄さんがいるのですが、実は、この方にも同じような話があります。
この方も、初代家康から秀忠・家光と3代に仕える人なのですが、父・忠成の死を受けて常陸国江戸崎藩の第2代当主となった後、家光の傅(もり)役となった彼は、たびたび家光をいさめていたため、元和九年(1623年)に老中を免職されて上総国大多喜藩・2万石に減転封されますが、その2万石を幕府に突き返し、長男の宗俊(むねとし)ともども蟄居の身となったと言うのです。
さらに、その後の再出仕の要請を断り続け、蟄居の身のまま、寛永二十年(1643年)4月15日・・・つまり、幸成さんの2ヶ月後に亡くなったとされます(4月15日参照>>)。
まぁ、息子さんのほうは、寛永十一年(1634年)に家光からの許しが出て再び出仕していますが・・・
これはいったい???
『駿江雑説弁』が人を取り違えたのか?
『寛政重修家譜』の記録が違うのか?
実は、この忠俊・幸成兄弟が一番活躍した時代は、ちょうど秀忠から家光へとバトンタッチされる頃・・・この頃の幕府は、引退しても大御所として君臨する秀忠を中心としたその家臣たちの旧グループと、新生・家光を中心とする新グループとが、何やらきな臭い雰囲気を醸し出していた頃・・・
表立った大きな衝突こそ無いものの、その中をうまく泳いだ者と、泳げなかった者とがいたわけで・・・そこには、将軍のご機嫌をそこねたのそこねないのにかこつけた追い落としがあったのかも・・・
幸成の話も忠俊の話も、そんな中でのドタバタと言えるかも知れない出来事ですが、後に、呼び戻された宗俊は、家光から、
「お前のオヤジさんがやったように教育したってくれ」
と言って、世継ぎとなるべき男子=家綱の教育係を頼まれたようなので、時とともに、そのゴタゴタは丸く納まった?という事でしょうか。
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