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2012年2月10日 (金)

時子・滋子・徳子~女性の助力で清盛・頂点へ…

 

承安二年(1172年)2月10日、平清盛の娘・徳子高倉天皇の中宮となりました。

・・・・・・・・・

今年の大河ドラマの主役・平清盛・・・

以前、このブログでも、その清盛と、あの織田信長が似てるんじゃないの?てな事を書かせていただきましたが(2009年2月11日参照>>)、誰しも思うところは同じなのか、今年の大河ドラマの造り手の皆さまも、何やら、そのキャラ設定が、若き日の信長と、よく似た描き方をしていらっしゃるような・・・

もちろん、一視聴者として、何となくそう感じるというだけで、たまたまなのかも知れませんが、奇抜な衣装で町中をかっ歩するところとか、父親への反発心をつのらせるところとか、元服などの儀式的な場を拒んで暴れるとか、周囲が「後継ぎはこっちの方がイイんじゃないの?」と思うようなしっかりした弟がいるとか・・・

まぁ、ドラマでは、周囲がどんなに反対しようが、父の忠盛の清盛可愛さは揺るぐ事なく・・・と言った感じですが、実際の忠盛さんは、どちらかと言うと、清盛よりも弟の家盛の方が可愛かったのでは?なんて言われてますね。

それは、忠盛の地位が上がると、それに比例して家盛の地位も上がる・・・つまり、自分が出世すると同時に、家盛を朝廷に推挙してたんじゃないか?って事らしいです。

まぁ、現在、正室となっている女性の生んだ子供を引き立てるというのは、当時としては当然だったのかも知れませんが・・・

ただ、以前も書かせていただいたように、その家盛は、忠盛が亡くなる前にこの世を去ってしまいますので(1月15日参照>>)、祇園の乱闘事件でドタバタだった清盛も、家盛の死後はバトンタッチするように朝廷内の地位を高めていき、忠盛が亡くなる頃には、後継ぎには不足なし・・・って感じでしょうか?

ちょっと話がそれたので、戻しますが・・・
清盛と信長・・・似ているようで、決定的に違うのは、朝廷との接し方でしょうか?

確かに、以前から何かと書かせていただいているように、信長は、一般的に言われるほど、実際には天皇や朝廷と関係が悪くは無かったと私は感じております。

せっせと御殿の修復などやってあげてましたし、例の「蘭奢待(らんじゃたい)の一件」(3月28日参照>>)も、あの「御馬揃え」(2月28日参照>>)・・・

とは言え、やはり一定の距離を保っていた気がするのですが、清盛の場合は、その距離が断然短いように思います。

それには、清盛の生きた時代という物もあるでしょう。

清盛の生きた平安末期は、荘園制も全国に行きわたり、中央集権もある程度機能していますから、領地の所有権は朝廷に認められて初めて正式な物となるわけですし、農民から身を起こした地方武士団も、地方に行くのがイヤだからと都に留まる領主からその管理を任されているだけで、その領主を無視して勝手に領地を増やしたりすれば、即、朝廷への反逆者となるわけで・・・

いくら政治的才能があったとしても、ある程度の地位がないと、その腕を奮う事はできないのが現状・・・

清盛も戦国時代に生まれていたら、その武力と富で領地を増やしていったかも知れませんが、やはり、平安末期では不可能でしょうね。

・・・で、清盛は、朝廷内での地位を縁故で拡大して行く事になります。

ちょうど、同じような思いを持つ、平時子(たいらのときこ)と再婚した事も、清盛にとって幸いだったかも知れません。

・・・というより、それも計算だったのかも知れませんが・・・

清盛の最初の奥さんは高階基章(たかしなのもとあき)の娘で、そのお名前もわかりません。

この基章さんという人自身が、娘が清盛と結婚したおかげで少々の出世をしますが、それでも正六位止まりである事を踏まえれば、あまり身分の高いお人ではないようで、その娘さんは、清盛との間に長男・重盛と次男・基盛をもうけますが、もし、子供を産んでいなかったら記録に残ったかどうかさえ危うい雰囲気です。

結局は、清盛が時子と再婚する前には、すでに亡くなっていたという事ですが、そこのところもよくわからない状況です。

一方の時子は、平時信(たいらの ときのぶ)の娘で、同じ桓武平氏ではありますが、清盛の伊勢平氏とは流れが違い、武家ではなく、公家として朝廷内に留まっている堂上平氏と呼ばれる一門でした。

つまり、清盛は、時子と結婚する事で、朝廷との距離も、さらに縮まったという事ですね。

もちろん、そうなると、摂関家だけでなく天皇家とのつながりをも求めるようになるわけで・・・

で、美人だと評判の時子の妹・平滋子(しげこ)後白河法皇に送り込み(7月8日参照>>) 、時子自身も、後白河法皇の息子・二条天皇乳母となり・・・

しかし、その滋子が後白河法皇との間に息子をもうけたあたりから、チョイと先例の無い事が起き始めます。

実は、二条天皇が病気になった時、皇太子である息子に皇位を譲り、その子が第79代六条天皇となりますが、なんと、この六条天皇は、わずか生後9ケ月・・・その即位式では途中でグズり出し、乳母がオッパイを与える事によって、やっと落ち着いたなんで場面も・・・

しかも、この六条天皇の即位を受けて皇太子となったのは、後白河法皇と滋子の間に生まれた憲仁(のりひと)親王・・・なんと、天皇3歳(かぞえ年なので)で皇太子が6歳という何ともアンバランスな感じに・・・

しかも、その後に二条天皇が亡くなると、その3年後には六条天皇が退位して、皇太子である憲仁親王が第80代高倉天皇として即位・・・5歳の天皇から8歳の天皇へのバトンタッチと、何とも奇妙なリレーとなります。

もちろん、こうなると滋子は天皇の生母・・・その実家の力が、さらに大きくなるのは当然と言えば当然です。

Tairanotokuko そして、いよいよ承安元年(1171年)、滋子の働きかけによって後白河法皇の猶子(ゆうし・契約関係上の養子)となった清盛の娘・徳子高倉天皇に入内・・・

「猶子となって」というのは、本来、清盛の娘が天皇に入内できるような身分ではないからで、そこには、かなりの強引さが垣間見えます。

とは言え、これは、清盛だけが強引だったわけではなく、後白河法皇自身にも思惑があり、両者の利害関係が一致したから・・・

かくして、その2年後の承安二年(1172年)2月10日徳子は中宮となります。

徳子:16歳、高倉天皇は5歳下の11歳でした。

そして、その6年後の治承二年(1178年)には、徳子が待望の男の子を出産・・・さらに2年後の治承四年(1180年)、その男の子は第81代安徳天皇として即位し、清盛は念願の外戚(母方の祖父)をゲット!・・・あの藤原氏と同様の方法で(8月19日参照>>)頂点へと・・・

しかし、暗雲はすでに、すぐそばにまで・・・

治承元年(1177年)に、あの鹿ヶ谷事件(5月29日参照>>)が起こっている事でも察しがつくように、すでに、清盛と後白河法皇の蜜月関係は崩壊・・・

さらに安徳天皇即位の、わずか2カ月後には、あの以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)令旨(りょうじ=天皇家の人の命令書)が発せられます(4月9日参照>>)

時子・滋子・徳子と・・周囲の女性の助力によって、思う存分その手腕を発揮できる舞台へと上り、そこで頂点を極めた清盛でしたが、案外、その終焉は、駆け足でやって来る事になります。

*徳子さんのその後については、そのご命日の日に>>
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源平争乱の時代」カテゴリの記事

コメント

茶々さん,こんにちは。

僕も,今回の大河の清盛と若い頃の信長は似ているなぁと思ってました。

僕はかなりの信長ファンのため,戦国が舞台の大河だと信長を演じる役者さんや,その描き方が気になってしまい物語に集中できないのですが,平安末期が舞台の今回はそんなこともなく純粋に物語を楽しんでします(笑)。

信長と言えば個人的に,美濃攻略までの若い頃を市原隼人さん,それ以降は吉川晃司さんが演じている信長が見てみたいなぁと思っています。
吉川さんは大河で演じられてましたけどね。

あっ,信長の話になってしまいした(笑)。

投稿: | 2012年2月11日 (土) 00時37分

あっ,コメントしたときに名前を書き忘れました。
00時37分のコメントは僕です(笑)。

たびたびスミマセン。

投稿: えぴおん | 2012年2月11日 (土) 00時43分

えぴおんさん、こんばんは~

やはり、えぴおんさんも、そう思われましたか?
スタッフさんが意識してるのか?してないのかはわかりませんが、やっぱり似てますよね~

私も、よく、「もし演じるなら誰が良いかなぁ」なんて考えたりします。

確かに、市原さんはイイかも…
何となく熱い感じの若手の役者さんが少ない中で、市原さんは「熱い」感じがします。

投稿: 茶々 | 2012年2月11日 (土) 01時49分

安徳天皇即位の時点で清盛は「入道」なので、藤原家が世襲した摂政にはなれませんでしたが、清盛の息子たちは帝の伯父&叔父として存在感を高める一方で、長男の平重盛は板挟みで気の毒な立場でしたね。6日の「THEナンバー2」を見て思いましたが、今の自民党幹事長みたいです。
「皇太子より天皇の方が年下」と言うのは今だとほぼありえない事ですが、記事のケース以外では他に例がありますか?

投稿: えびすこ | 2012年2月11日 (土) 13時10分

追記
重盛が亡くなったは安徳天皇即位の前年ですが、重盛が30歳を過ぎた時から父・清盛と後白河法皇の関係が思わしくなく、相当やきもきしたと思います。

投稿: えびすこ | 2012年2月11日 (土) 13時16分

こんにちは。
やっぱり、みんな思っていたんですよねぇ。
完全に信長のコスプレです。。。(いや、時代は前後しますが、周知度としては)
「父親への反発」という点では、信長も想起されますが、政宗や信玄なども父親とのドラマが濃い方々ですよね。
なので、今はしみじみ「男の子って父親の背中を見て、それを越えなきゃいけないんだなぁ」と思いながら、大河を見ている次第です。

投稿: やんたん | 2012年2月11日 (土) 15時00分

えびすこさん、こんにちは~

>記事のケース以外では

今、この場で、全部を把握しているわけではありませんので、今一度調べてみないとアレですが、「平家物語」の中では「ただし寛和二年に一条院七歳にて御即位、三条院十一歳にて春宮に立たせたまふ。先例なきにあらず」と言ってますので、初めてでは無かったと思いますが、やはり「平家物語」では、その次に、「元服しないままの太政天皇は初」と驚いた感じで書かいていますので、やはり異例だったと思います。

投稿: 茶々 | 2012年2月11日 (土) 15時36分

やんたんさん、こんにちは~

確かに戦国では多いですね。
父子でも敵味方に分かれなければならない状況も多かったでしょうし…

個人的には、政宗の場合は、お父さんよりお母さんのほうがややこしかったような気がします。

投稿: 茶々 | 2012年2月11日 (土) 15時41分

一条天皇即位時に春宮になった三条天皇の方が年長だったんですね。情報提供ありがとうございます。
ちなみに来月の時代劇SP「濃姫」での、織田信長役は城田優くんです。テレビ朝日系で放送されます。信長の若い時の物語なので20代の城田くんは「適任」ですね。

投稿: えびすこ | 2012年2月11日 (土) 16時23分

えびすこさん、こんばんは~

そうかぁ、もう番組改編時期なんですね~
早いです。

投稿: 茶々 | 2012年2月11日 (土) 22時31分

そうですね。
なんか、ごっちゃになってました…。
しかし、宗子さまとの関係は後々の、いい伏線になっているように感じられて、とても楽しみです。

投稿: やんたん | 2012年2月17日 (金) 16時03分

やんたんさん、こんばんは~

そうですね。
清盛と弟と宗子さまと…
ドラマでの展開が楽しみですね。

投稿: 茶々 | 2012年2月17日 (金) 22時21分

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