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2012年2月13日 (月)

1万人を救った救世大士…宝蔵国師・鉄眼

 

天和二年(1682年)2月13日、江戸へと旅立った鉄眼が、再び大坂へと戻りました。

・・・・・・・・・・

鉄眼道光(てつげんどうこう)・・・彼は、江戸時代前期の僧です。

九州肥後(熊本県)に生まれた鉄眼は、やはり僧だった父の影響で、はじめは浄土真宗を学んでいましたが、僧本人の善し悪しではなく、寺格によって僧の上下が決まる当時のシステムに嫌気がさしていたところ、京都宇治にて黄檗宗(おうばくしゅう=禅宗の一派)の総本山である万福寺(萬福寺)を開山した隠元隆琦(いんげん りゅうき=中国からの渡来僧)という僧と出会った事から、禅宗へと転向します。

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黄檗山・萬福寺

そうして、若い頃は畿内を中心に各地・各寺を巡り、人を集めては般若心経(はんにゃしんぎょう)の教えを説いていた鉄眼・・・「彼の講義はわかりやすい」なかなかの評判で、彼の話聞きたさにやって来るファンも少なからずいたのですが、一つ難点と言えば、いつも最後のほうは、話が脱線してしまう所・・・

そう、実は、彼には、ある夢があって、結局、講義の最後は、いつも、その夢の話になってしまうのです。

まぁ、彼の講義が好きな人にとっては、それが、また、良い所なのかも知れませんが・・・

その夢とは、いつか
「大蔵経(だいそうぎょう=経典の総集編)」を刊行する事・・・

「この国は、古来より、仏教国と言われていて、現に寺院の伽藍や仏像など、本場中国にも劣らない立派な物がありますけど、悲しいかな、『大蔵経』という物が刊行された事は一度も無い!
これでは、ホンマモンの仏教国とは言えまへん!
僕は、いつかこの『大蔵経』を刊行してみたいと思てます」

と、熱く語って、講義を締めくくるのでした。

もちろん、聞き入る聴衆も、その熱意はわかるものの、ちょっとやそっとでは成し遂げられない大事業ですから、話半分・・・ハッタリの大風呂敷のような感じに受け取っていたのですが・・・

やがて鉄眼40歳となった寛文十年(1670年)、大坂(現在の大阪市浪速区元町)にあった小さな薬師堂を再興して瑞龍寺(ずいりゅうじ=後の通称:鉄眼寺)と名を改め、そこを拠点に黄檗宗の布教活動を続けます。

一方で、ちょうど、その頃、これまで、全国を行脚(あんぎゃ)修行して集めた資金がある程度貯まった事から、かの万福寺の近くに、師匠である木庵性瑫(もくあんしょうとう=中国からの渡来僧)から授かった7000巻近い経典を保管する貯蔵所=宝蔵院を設け、それらの印刷に取りかかろうと、印房(印刷所)を開きました。

そうです・・・とうとう、彼の夢が、実現に向かって走り出したのです。

ところが、いざ事業を始めようとした矢先、大坂(堀江一帯)を大洪水が襲います。

被害に苦しむ人々を目の当たりにした鉄眼・・・なんと、これまで集めた資金のすべてを、その救済に投げ出したのです。

そして、再びゼロからのスタート・・・また、全国行脚で資金を集めて回ります。

しかし、これも・・・
納得いく額が集まった頃に起きた摂津・河内・和泉(大阪府)一帯の飢饉・・・飢えに苦しむ人々を救うため、これも難民救済の資金にあてられたのです。

結局、またまた全国行脚の旅に出る鉄眼・・・

その後、ようやく資金が集まり、3度目の正直とばかりに事業にとりかかり、天和元年(1681年)、やっと事業は完成したのです。

鉄眼は、すでに51歳という年齢になっていました。

1618部7334巻からなる、この大蔵経は「黄檗版」あるいは「鉄眼版」と呼ばれ、日本仏教史上に残る一大事業でありました。

翌年、この大蔵経を幕府に献上するため、江戸へと旅立った鉄眼・・・しかし、その旅の途中で、畿内に大飢饉が発生しているとの噂を耳にします。

「餓死者が急増し、道にバタバタと人が倒れている」

そんな話を聞いて、いても立ってもいられなくなった鉄眼は、すぐさま東海道を引き返し、一路、大坂へ・・・

かくして天和二年(1682年)2月13日大坂に舞い戻った鉄眼が見た物は、噂に聞いた通りの悲惨な光景・・・

鉄眼は、すぐさま、手配した米を人々に配ると同時に、彼自身も粥を作って、目の前の餓死寸前の人々を救おうと働きます。

その姿を見た人は、口々に、
「救世大士(ぐぜだいし)
と、彼の事を呼び、崇めたと言います。

なんと、この時に鉄眼が、餓死がら救った人の数は1万人を越えたのだとか・・・

ところが、彼自身は、この救済活動のさ中に、疫病に感染し、翌月の3月22日(20日とも)この世を去ってしまったのです。

後に、彼には、朝廷から「宝蔵国師」の諡(おくりな)がおくられたとの事・・・

何度も足踏みしながらもあきらめず、夢を叶えた鉄眼・・・しかし、完成した夢を幕府に披露するという、最も「ええかっこ」できる舞台を踏めなかった・・・

いや、踏まなかった・・・

もし、あの時、大坂に戻らなければ、将軍の前で「ええかっこ」できたかも知れません。

しかし、そんな華やかな舞台を蹴って、現場に戻る事こそが、最も鉄眼らしい生き方・・・そんな生き方に人は感動し、尊敬するのだと思います。

鉄眼の残した大蔵経の版木は、今も、万福寺の塔頭・宝蔵院に保管されていて、重要文化財に指定されています。
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江戸時代」カテゴリの記事

コメント


江戸時代には 仏教にもこんな立派なお坊様がいたのですね。

マザー・テレサはじめ、ノミの街の神父さんなど、窮民救済と言えば、キリスト教専門かと思う昨今です。

鉄眼さんの嫌った、寺の格上げのため、せいぜい本山への上納に励む僧侶の姿を、鉄眼さんは、なんと思し召すことか。

黄檗宗のお経って、今でも唐音で読むのだそうです。明代の香りのする禅宗なのですね。

投稿: レッドバロン | 2012年2月13日 (月) 18時34分

レッドバロンさん、こんばんは~

万福寺は建て物も中国風ですね。
何か、異国の香りがして、良い雰囲気です。

投稿: 茶々 | 2012年2月13日 (月) 23時36分

こんにちわ、茶々様。

今日の記事も感動しました。

>何度も足踏みしながらもあきらめず、夢を叶えた鉄眼
私は海外で事業をしていますが、現地の人に騙されたり、現地の在住日本人に騙されたりした経験があります。

それでも歯を食いしばって現在に至ります。

今日の鉄眼さんの記事を読んでいて、いつの日か自分の目標・夢を達成したいと強く思いました。

今日も茶々様に感謝です。

投稿: DAI | 2012年2月14日 (火) 19時12分

DAIさん、こんばんは~

そうですか…
海外でのお仕事は、こちらからでは想像もできない大変さでしょうね。

そうですね。
少しずつでも進んで、立ち止まってもまた進んでいれば、いつかたどりつくもの…
夢はあきらめた時点で、本当にに叶えられない夢になってしまいますからね。

…と、自分自身に言ってます(*´v゚*)ゞ

投稿: 茶々 | 2012年2月14日 (火) 23時57分

素晴らしいお話です。
小学生の孫にも読ませたい話です。
いつかこの話が小学校の
教科書に載るような時が来れば
いいとも思いますが、日教組が
ある限り無理でしょう。

投稿: | 2012年2月15日 (水) 10時29分

そうですね~
教科書にも載せてほしいですね~

今の教科書は、どんなお話が掲載されているのでしょう

投稿: 茶々 | 2012年2月15日 (水) 12時42分

東日本大震災の被災者です。
再び今の世に広めて欲しい話です。
日本を救いたい。

投稿: 麦なでしこ | 2013年5月10日 (金) 07時02分

麦なでしこさん、こんばんは~

それは…大変な思いをされた事と思います。
おっしゃる通り、多くの皆さんに知っていただきたい人物です。

投稿: 茶々 | 2013年5月10日 (金) 10時23分

茶々様

鉄眼道光や黄檗宗について初めて知りました。
ありがとうございます。
鉄眼も鑑真に重なる素晴らしい僧侶がいたのですね。
これからもたくさん勉強させてください。
お願いします。
                 山根秀樹

投稿: 山根秀樹 | 2021年2月22日 (月) 10時37分

山根秀樹さん、こんばんは~

私も、たまたま萬福寺を訪れた時に、そばにあったおかげで宝蔵院と鉄眼さんの事を知りました。

自らが先頭に立って動かれる姿に頭が下がります。

投稿: 茶々 | 2021年2月23日 (火) 04時45分

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