謎多き継体天皇
継体天皇二十五年(531年)2月7日、第26代・継体天皇が崩御されました。
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このブログでもチョコチョコ書いてますが、未だ、様々な議論が尽きない継体(けいたい)天皇・・・。
なぜ議論が尽きないかと言いますと・・・まずは、コチラの天皇系図を→
(画像をクリックすると大きくなります)
ご存じ、初代の神武天皇から数えて、継体天皇は26代めになるわけですが、もともとは万世一系とされた天皇家の血筋が、戦後になって「三王朝交代説」なる物が唱えられはじめた事から議論となります。
まずは、第10代の崇神(すじん)天皇・・・すでに、このブログでも書かせていただいてますが(12月5日参照>>) 、日本書紀では、初代の神武天皇を「始馭天下之(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」としておきながら、10代の崇神天皇にも「御肇国(はつくにしらす)天皇(すめらみこと)」としている・・・この事から(他にもいっぱい理由はありますが)、現在では、おそらく、初代の神武天皇から第9代の開化天皇までは架空の人物で、実在したとおぼしき天皇の初代が崇神天皇であろうと考えられています。
この点は、ほぼ、専門家さんの間でも一致している見解だと思われますが、先の「三王朝交代説」では、その後、5世紀代の第16代・仁徳天皇のところで1回、次に、6世紀以降の新王朝=継体天皇のところで、もう1回・・・と、古代には合計3回、血統の異なる王朝が交代しているとされます。
もちろん、この「三王朝交代説」も一つの説に過ぎず、系図の通り、その血筋は繋がっている可能性も大なのですが、一方では、その系図を見ればこそ、継体天皇の皇位継承には、ちょっと不可思議な部分があり、ここで何かが変わったであろう事は否めませんね。
そもそもは、第25代武烈(ぶれつ)天皇が、子供がいないまま亡くなった事(12月8日参照>>)にはじまります。
子供がいない=後継者がいない・・・という事で、大連(おおむらじ)・大伴金村(おおとものかねむら)なる人物が、まずは第14代・仲哀(ちゅうあい)天皇の5世の孫にあたる倭彦王(やまとひこのおおきみ)に白羽の矢をたて、彼の住む丹波(京都府)に迎えの使者を送ります。
ところが、物々しく武装してやって来た使者を見るなり倭彦王は恐れおののいて「天皇になんかなりたくない~っ!」と、どこかに逃亡してしまうのです。
仕方なく、次の候補者を探したところ、越前(福井県)に第15代・応神天皇の5世の孫にあたる男大迹王(おおどのおおきみ・袁本杼命)という人物をはっけ~~ん!
早速、使者を送って、彼を天皇として迎え入れるわけですが、その人はすでに58歳という年齢で、言われるがまま河内(大阪府)・樟葉宮(くずはのみや・現在の枚方市)に入ったものの、それでも
「自分は天子の才能がなく、力不足やと思う」
と、皇位につく事を辞退します。
しかし、そこを金村ら群臣が頼みに頼んで、ようやく、1年後の継体天皇元年(507年)2月4日に、その樟葉宮で即位・・・これが第26代・継体天皇です。
それにしても、○○天皇の5世の孫・・・って、
5代もさかのぼらなアカンのか?
もっと他に近い人はおらんのか?
という疑問とともに、「迎えの使者を見て逃げる」という不自然な行動から、不可解さはモンモンと湧いて来るわけで・・・
しかも、上記の通り、継体天皇が即位したのは河内・・・これまでの政権の中心は大和(奈良県)であったわけで、本来の天皇家の後継者なら、大和から迎えが来てもよさそうな物ですが、逆に、継体天皇は、この後、抵抗勢力に遭って、20年間も大和に入る事ができず、ようやく、大和に入って都を定める事ができたのは、継体天皇二十年(526年)だったというのです。
さらに、この、わずか2年後に、あの磐井(いわい)の乱(11月11日参照>>)という古代最大の内乱も勃発しています。
つまり、継体天皇は、武烈天皇の死後に起こった大和王朝の動揺に乗じて大和に攻め入った新興の地方豪族ではなかったか?というわけです。
そして、その後、その継体天皇の新勢力が、西へを力を伸ばしたのが磐井の乱というわけです。
とは言え、ここで何らかの政権交代があったという見方の中でも、上記のように、「まったく別の新興勢力」という考え方と、「いや、やはり天皇家の血筋は守られている」という考え方との両方があり、ごくごく最近では、後者の意見のほうが、やや優勢になりつつあります。
・・・というのは、未だ記憶に新しい今城塚(いましろづか)古墳(大阪府高槻市)の発掘・・・
実は、現時点で宮内庁は、茨木市にある太田茶臼山(おおだちゃうすやま)古墳を、継体天皇が葬られた三島藍野陵(みしまのあいののみささぎ)だと比定していて、この太田茶臼山古墳が継体天皇陵という事になっています。
ご存じのように、天皇陵と特定された古墳は、宮内庁の管理下に置かれますので、例え学術調査と言えど、簡単に中を調査する事はできません・・・なんせ、そこには遺骨やら何やらもあるわけで、天皇家にとっては、悪く言えばご先祖様の墓を暴く事になるわけですから、子孫としては、「そっとしておいて欲しい」という気持ちもあるわけで・・・
ところが、最近になってかの今城塚古墳こそが、継体天皇の陵墓ではないか?という証拠が続々・・・幸いな事に、こっちは、天皇陵に指定されていませんから、調べ放題に調べられるわけです。
・・・で、そんな中から、発見された3種の石棺は、その素材が、熊本県産の阿蘇凝灰岩(ぎょうかいがん)、二上山(大阪と奈良にまたがる山)産の白石、兵庫県加古川右岸産の竜山石(たつかまいし)・・・と、これまたバラエティに飛んだ原産地。
また、出土した埴輪などには、多くの船の絵が描かれており、中には2本マストの大型船・・・もはや、外国との交易も可能なほどの船が描かれているのです。
それは、この陵墓の主が、畿内はおろか、遠く九州までをも含める広域な水運ルートを掌握していた事を示すもの・・・
実は継体天皇の父・彦主人王(ひこうしおう)は近江国(滋賀県)高島郡を本拠として琵琶湖の水運を掌握し、そこから北は越前へ、南は美濃(岐阜県)や尾張(愛知県西部)にまで力をのばしていた人・・・それを証明するかのように、その彦主人王の母は美濃牟義津(むげつ)の有力豪族の娘で、奥さん(つまり継体天皇の母ですが)の振姫(ふりひめ)は、越前三国の有力豪族の娘で、その実家は九頭竜川の水運を掌握していたと言われます。
継体天皇は、父が早くに亡くなった事で、近江から母の実家である福井に転居して、そこで育ったとされ、その時点で、広域の水運ルートを持っていたのかも・・・そこに目をつけたのが、金村らの一派・・・
5代前というのはともかく、継体天皇の曽祖父の意富富杼王(おほほどおう)の妹である忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)は、第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇后となって、第20代安康(あんこう)天皇と第21代雄略(ゆうりゃく)天皇を産んでいますから、まったく天皇家と無関係ではなく、少なくとも、これまで何代にも渡って天皇家と血縁関係を結んで来た豪族の出身という事に継体天皇はなるわけですから、
その人に、武烈天皇の妹(もしくは姉)である手白香皇女(たしらかのひめみこ)を皇后に据え、これまで天皇家に何人もの后妃を出している豪族・和珥臣河内(わにのおみこうち)の娘・荑媛(はえひめ)や、淀川の水運に強い茨田連小望(まんだのむらじおもち)の娘・関媛(せきひめ)など、畿内に勢力を持つ豪族や王家の娘を妃に迎え、
つまりは、婿入りのような形で天皇となってもらう・・・そこに、畿内はおろか、広域支配を可能にする政権が誕生する・・・
それこそが、継体天皇を推した大伴金村らのシナリオではなかったか?と思います。
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コメント
大和と難波の関係は、一種の(王位)継承戦争と見ることもできますが、そうすると大和側は誰を担いでいたのか?
九州の情勢と合わせて、古代史最大の謎ですが、いかんせん材料が乏し過ぎて、仮説と伝承、空想とロマンの世界です。皇統の問題と支配豪族の関係、一回分けて考えた方が 良いのかもしれませんね。
投稿: レッドバロン | 2012年2月 8日 (水) 18時25分
天皇を父祖に持つ豪族の争い……
後世の平清盛や源頼朝が皇位に就いたらと思うと、長いこともめるでしょう。
一瞬就いた倭彦王は義仲を連想させます。
投稿: しましま | 2012年2月 8日 (水) 21時55分
レッドバロンさん、こんばんは~
>空想とロマンの世界
そうですね~
致し方ないところですが、伝承のような物しか残って無いところでの論議ですからね。
そういう意味でも今城塚古墳の発掘調査に期待ですね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 8日 (水) 23時50分
しましまさん、こんばんは~
>一瞬就いた倭彦王は…
継体天皇の正統性のための引き立て役みたいな感じですね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 8日 (水) 23時51分