漢学→蘭学→英学そして再び…夢止まぬ福沢諭吉
明治三十四年(1901年)2月3日、1万円札でお馴染みの福沢諭吉が、66歳でこの世を去りました。
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もはや慶応義塾の創始者としても超有名な福沢諭吉(ふくざわゆきち)さんですが・・・
彼は天保五年(1834年)、豊前国(福岡県東部)中津藩士・福沢百助の次男として生まれますが、その頃、父の百助は中津藩の廻米方(かいまいがた=集めた年貢米を現金に換えて国に送る役)を務めていて、大坂は堂島にあった中津藩の蔵屋敷で生活していたので、実は、諭吉さんは、大坂生まれの大坂育ち・・・
兄弟仲良く、家では、よくしゃべり、よく暴れ、活発な諭吉少年でしたが、実は木登りもできず、水泳も苦手だったので、もっぱら遊ぶのは家の中・・・
そんな息子を見た父は、
「10か11にでもなれば、寺に預けて、坊さんにでもなってもらおか~」
と言っていたとか・・・
とは言え、コレ、息子に対するあきらめムードの言葉ではありません。
当時の中津藩は、厳しい封建制度のもと、世襲の身分に縛られており、家老の息子は家老になれても、足軽の息子は足軽・・・身分の低い福沢家なら、どんなに頑張っても名を成す事はありませんでしたが、僧侶なら、身分は低くても、実力があれば大僧正にもなれるワケで、
この思いは、幼い息子に、学問での出世を期待した父の、篤いエールだったのです。
そんな父の死にともない、一家が故郷=中津に戻ったのは、諭吉が2歳の時・・・
すでに兄弟はバリバリの大阪弁で、当然、「おウチ大好き」の諭吉少年も大阪弁・・・友達と話をしようとするも、「そうじゃちこ」と友達が言うと、「そうでおますなぁ」と答え、???と微妙な雰囲気となり、なかなか話が続かなかったのだとか・・・
しかも、服装も大坂風だったので、中津での諭吉は、なにかと浮いた存在となり、ますます、家に引き籠りがちな少年に・・・
その代わり・・・そのぶん、勉学のほうはバッチリ!
ますます意欲的に漢学を学ぶ諭吉少年でしたが、そんな彼にショックを与えたのが、あのペリー来航(6月3日参照>>)でした。
「時代は変わる!!」
と感じた諭吉は、蘭学を学ぼうと、一大決心して長崎へ・・・実に安政元年(1854年)、諭吉=21歳の時でした。
翌年、大坂に出て、緒方洪庵(おがたこうあん)の適塾に入った諭吉は、みるみる頭角をあらわし、やがて塾長まで務めるようになります(6月10日参照>>)。
しかし間もなく、福沢家を継いでいた兄が亡くなった事を受けて、諭吉が家督を継がなければならなくなり、塾長をやってる場合では無くなるばかりか、藩命によって江戸勤務を命じられてしまいます。
安政五年(1858年)、江戸へと入った諭吉は、築地鉄砲衆の中津藩長屋で暮らしながら、日々の職務をこなしていましたが、もはや、適塾にて、様々な事を学び&経験した彼には、ただ日々の仕事をこなす事だけでは満たされず・・・その年の10月、自宅にて蘭学塾を開くのです。
これが、後の慶応義塾の起源・・・しかし、その翌年、横浜見物に行った諭吉は、そこで、またまたショッ~ク!!
「もはや蘭学やない!これからは英学や!」
と、思うのですが、当然の事ながら、当時は英学塾なんて物はありませんから、ひたすら独学・・・
そんな中で、万延元年(1860年)、「幕府がアメリカに使節を派遣する」事を小耳に挟んだ諭吉は、「なんとか、その船に乗り込んで、アメリカに行きたい!」と思い、使えるコネをフルに使いまくり、軍艦奉行・木村喜毅(よしたけ・芥舟)の従者という名目で、なんとか、あの咸臨丸(1月13日参照>>)に乗り込む事に成功したのです。
この時の滞在は、短い物でしたが、有効な辞書も持ちかえる事が出来たうえ、何より、その目で外国を見て来たという自信とともに、諭吉にとっては大きな成果となった渡米でした。
帰国後、すぐに『華英通語』という辞書を出版した事もあって、中津藩士の身分ながら幕府の外国方に雇われ、外交文書の翻訳をこなす諭吉・・・なんせ、この頃は、英語が出来る人が少ないですから・・・
やがて文久二年(1862年)・・・今度は、幕府の遣欧使節にくっついて、フランス・イギリス・ポルトガル・オランダ・ドイツ・ロシアと、ほぼ1年をかけて巡りますが、それこそ、今度は以前のような従者ではなく、正式な使節の一員として同行・・・(1月22日参照>>)
後に、この時の経験を記した『西洋事情』という著作がベストセラーになって、彼の名は一躍有名となるのです。
その翌年、ご存じの『学問のすゝめ』を刊行し(11月25日参照>>)、ますます有名になるのですが、そんな諭吉に、新政府からのお誘いは無かったのか???
実は、慶応三年(1867年)12月の王政復古の大号令(12月9日参照>>)のすぐ後に、新政府からのお声がかけれらていたのですが、諭吉は、それを丁重にお断りして、その後も、新政府の官職につく事はありませんでした。
そのお断りの翌年、塾の名前を『慶応義塾』と改めるとともに『学問のすゝめ』を刊行するのですから、もはや、「自らの進む道は著作活動と後進の育成」と、しっかりと決めていたという事でしょうね。
上野戦争(5月15日参照>>)の時、銃声轟く中でも塾の講義を続けた事は有名な話で、それはそれで、一本筋の通った、男の生きざまを感じます。
こうして時代の最先端を行き、時には「西洋かぶれ」と称された諭吉さんですが、晩年は一転、和に親しむ生活を送っていたのだとか・・・
趣味は居合抜き・・・和服を好み、朝早くに塾の寄宿舎の生徒を起こして散歩するのが日課で、散歩から戻ると、朝ごはんは必ず和食・・・米のメジに、辛めの味噌汁がお好みだったのだそうです。
病気にかかった時は、西洋医学に頼るより、日本人的な生活を習慣づける事を重視し、こんな事を・・・
「僕は、田舎の貧乏士族の生まれやさかい、子供の頃は、麦飯ばっかり食べて、着物も木綿のつんつるてんのヤツやった・・・
それが、どや、開国の波に乗って東京に来て・・・おかしなモンで、こんな贅沢な暮らししとったら、体のほうが驚いてしもとるがな。
昔みたいに、風吹きさらしのとこで、まともな服も着られんくらい貧乏でも、汗水たらして働いとったら、そのうち体は丈夫になるんや」
ベストセラーを生みだして、有名大学も創設して、一万円札にまでなって・・・さぞかし、満足で「ドヤ顔」満載の晩年を過ごされた事だろう・・・うらやましい限り!!!
と思っていましたが、どうしてどうして、人とは、とかく無い物ねだり・・・諭吉さんも、1周回って、「若き頃の夢あふれる自分の姿を、晩年に再び」と願っていたのかも知れませんね。
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コメント
福沢諭吉が訪米中に現地の人に、「初代大統領のワシントンの末裔は、今はどこに住んでいますか?」、と聞いて周りに知る人がいなかった、あるいは「ワシントンには末裔の女性がいますが、政治とは関係ない仕事についている」と聞いて驚いたと言う逸話がありますが、これは事実ですか?
1984年に登場してから「一万円札の顔」ですが、この前の新札移行時(デザイン変更)に福沢諭吉だけが続投になった理由が、小泉総理と塩川財務大臣(いずれも新札移行発表当時)が慶応OBであると言う事情とのウワサです。
投稿: えびすこ | 2012年2月 4日 (土) 17時02分
福沢さんが大阪生まれで、大阪弁だったとは知らなかったなあ…。
してみると、後に「痩せ我慢」の論で、無血開城の勝海舟をコテンパにやっつけたのは、大坂城における豊臣家の最期に比べても、徳川家は余りに情けない…という思いがあったか、どうか?
「財物の喪失は一時」「士風の喪失は永遠」とまで言ってますからね。必ずしもピース&ラブ今風でない福沢さんの一面は、ほとんど紹介されることが無いようです。
福沢さんの「義塾」はpublic school の訳です。publicを「義」と訳した福沢さんの独立・自尊は、英国風ジェントルメンのもので、エンタープライズ・カレッジから大企業に就職する意味ではないのですがね。言っても詮ないことでしょうが。
投稿: レッドバロン | 2012年2月 4日 (土) 18時16分
えびすこさん、こんばんは~
ワシントンの話は『福翁自伝』の中で、「咸臨丸でアメリカにいった時の話」として書かれているそうなので、本当なのではないでしょうか?
ご本人に聞く以外に確かめようもありませんが…
投稿: 茶々 | 2012年2月 5日 (日) 01時49分
レッドバロンさん、こんばんは~
江戸っ子丸出しの勝海舟と、大阪弁の福沢諭吉のトークバトルを見てみたかったですね~
投稿: 茶々 | 2012年2月 5日 (日) 01時52分
茶々様、えびすこ様
>ワシントンの件、同じような話が勝海舟と坂本龍馬の会話としても伝わってますね。龍馬が「堯舜の世のと同じだ」と言って感服したとか。
アメリカ共和制の理解として悪くはないのでしょうが、ワシントンはとんでもない広さの大プランテーション農場主、ジェファーソンも黒人奴隷を所有してました。アメリカ独立戦争の英雄たちは、私のイメージからすると 蘇我、物部氏とまでいかなくとも、後醍醐天皇の詔に応じて、足利氏や新田氏が家の子・郎党を率いて馳せ参じる感じ。
坂本や中岡ら 幕末の志士と彼らは違うのですよね。対米誤解の始まり?でもあるような気がします。
ちなみに 南北戦争時の南軍総司令官、リー将軍はワシントンの縁戚と聞いてます。
投稿: レッドバロン | 2012年2月 5日 (日) 14時22分
500万アクセス達成しましたね。おめでとうございます。
>レッドバロンさん
なるほど、それでアメリカの建国間もない頃をハリウッド映画で扱わないのかも?「ハリウッドはアメリカ建国直後の18世紀末期を扱わないのは何故だ?」と思っていたんですよ。
西部劇もこの30年くらいではほぼ皆無ですね。西部劇の方は「動物愛護の観点」もありかと。
投稿: えびすこ | 2012年2月 5日 (日) 16時33分
レッドバロンさん、こんにちは~
確かに、「国のため」というのとは、違いますね。
投稿: 茶々 | 2012年2月 5日 (日) 17時45分
えびすこさん、ありがとうございます。
先ほど、記念のページを書いたところでした。
これからもよろしくお願いします。
投稿: 茶々 | 2012年2月 5日 (日) 17時47分
しょうもない質問なのですが、辛い味噌汁ってどんな味ですか?韓国味噌、しょっぱいでなくて?関西風、大阪風の味噌汁だったのかな。でも、辛くないと思うんですけど。塩分が多いのかも。つまらない質問でした、ごめんなさい、皆様
投稿: minoru | 2013年2月 3日 (日) 15時13分
minoruさん、こんばんは~
味噌汁の場合の「辛い」というのは、スパイス的な辛さではなく、「味が濃い=ダシに対して味噌が多い」という意味で書かせていただきました。
濃い目の味噌汁を、辛めの味噌汁と表現するのは、ひょっとしたら大阪弁かも知れません…解り難くて申し訳ないです。
投稿: 茶々 | 2013年2月 3日 (日) 18時13分