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2012年3月18日 (日)

美人と言えば…伝説に彩られた小野小町

 

今日、3月18日は『小野忌』・・・あの小野小町の忌日とされています。

・・・・・・・・・・

日本では、クレオパトラ楊貴妃(ようきひ)(11月9日参照>>)と並んで、世界三大美女の1人に数えられる小野小町(おののこまち)・・・

といっても、実際には、史実よりも、伝説としてのお話の方が多い謎な方・・・今回の忌日というのも俳句の世界での話で、俳句の世界では小野小町の忌日を3月18日とし、『小野忌』は晩春の季語として使用されます。

しかし、生前の小野小町が過ごしたという伝説が残る京都隋心院では、11月28日が『小町忌』とされ、現在も法要やイベントなどが行われています。

このように、亡くなった日づけも曖昧なら、もちろん誕生日も曖昧・・・

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京都・隋心院に残る「小野小町・化粧井戸」
隋心院へのくわしい行き方は本家HP:
京都歴史散歩「六地蔵から日野・醍醐・小野へ…」でどうぞ>>(別窓で開きます)

一応、室町時代に成立した『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)「小野氏系図」では、嵯峨天皇の時代(809年823年)に活躍した学者蒹官僚小野篁(おのたかむら)(12月15日参照>>)の孫で、出羽国(山形県・秋田県)郡司(ぐんじ・こおりのつかさ=地方次官)であった小野良実(よしざね)の娘という事になってますが、この良実という人自体が、正史にはまったく出て来ない謎の人です。

なので、第54代仁明(にんみょう)天皇や、その次の文徳(もんとく)天皇の時代(833年~858年)の頃に宮仕えをしていた人であろうと言われますが、それ以上の事は、ほとんどわかっていません。

小野小町という呼び名に関しては、当時、天皇のおわす紫宸殿(ししんでん)が儀式を行う正殿であるのに対し、その北にある常寧殿(じょうねいでん)後宮いわゆる江戸時代の大奥みたいな場所だったので、そこを「后町(きさいまち)と呼んでいた事から、そこに務める更衣(女官)の事を、「后町に務める○○さん」という意味で「○○の町」と呼んでいた中、小町には姉がいて、その姉が「后町に務める小野さん」という意味で「小野の町」と呼ばれていた事から、その妹=小町と呼ばれていた・・・なんて言われてますね。

そんな彼女が、美人の代名詞=○○小町のおおもととなったり、秋田美人の代表格と言われるほどの有名人になるのは、やはり残された歌の数々と、そこに付け加えられている解説・・・

と、言っても、その歌の多くは後世に再選された流布本や異本に掲載されている物で、実際に、確実に小町の作とされる物は『古今和歌集』(4月18日参照>>)に収録された18首だけ・・・という事のようですが、

この『古今和歌集』の編者の一人である紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)小町の歌を多く採用し、その序文で六歌仙(ろっかせん=歌のうまい6人の歌人)のうちの1人に名を挙げ、さらに「衣通姫のようだ」とか「なまめかしいイイ女だ」とかって彼女の事を褒めまくった事で、小町の美女伝説がスタートするという事なのです。

布通姫(そとおりひめ)とは、記紀に登場する第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇后であった忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹で、その肌の美しさが衣を通してもなお輝いていた事からその名で呼ばれた姫ですが、彼女の歌がわずかに1首しか残っていないところから、

「小町を布通姫に例えたのは、歌の比較ではなく、ガチ見ため!」っと考えられ、「やっぱ美人だったんだ~」てな事になってるわけです。

そんな美人が、なまめかしい歌を詠み、さらに、応答する歌や、彼女に贈ったとの注釈がつく歌を詠んだ面々が、なかなかのメンツである事が、さらに彼女の伝説に拍車をかけるわけです。

少し後の時代に、やはり有名人と浮き名を流した和泉式部(いずみしきぶ)(3月21日参照>>)なる女性と、少しキャラかぶりなとこもありますが、和泉式部が、生没年こそ不明なれど、比較的実生活が明らかなのに対し、小町は、そこも謎に包まれているぶん、多くの伝説の入る余地が生まれたのでしょう。

おかげで、和泉式部は「うかれ女」と言われ、小町は「恋多き美女」と・・・

そう、実は、小野小町と聞けば、なんとなくヤマトナデシコ的な、楚々した女性をイメージしますが、意外にも、彼女は、和泉式部バリの積極的な恋女なのですよ。

たとえば、遍昭(えんじょう)という僧には、自分から声をかけているのですが・・・

♪岩の上に 旅ねをすれば いと寒し
 苔の衣を われにかさなむ  ♪
(小町)

♪世を背(そむ)く 苔ぼ衣は 唯一重(ただひとえ)
 重ねばうとし いざふたり寝む ♪(遍昭)

遍昭と言えば、あの桓武天皇の孫で俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)・・・しかも、この時は出家して、僧の最高位である僧正(そうじょう)という位についてるお方・・・

そんな人に、ふと出向いたお寺でバッタリ会って・・・
「今夜、フトンを貸してね!」
と小町が言えば
「フトンは一つしか無いから、一緒に寝よか?」
と遍昭が答える・・・

ありゃま、大胆ですね~

とは言え、そんな美人の小町も、いつかは年齢を重ね、有名な
♪花の色は うつりにけりな いたずらに
 わが身世にふる ながめせし間に ♪

と、美人度の衰えを自らに感じているかのごとき歌を詠む事になり、

さらに、最後は、見るも無残なおちぶれ伝説・・・と、「あんだけ持ちあげといて、最後はコレかい!」と、今も昔も変わらぬスキャンダル好きな女性週刊誌のような伝説と化していくのですが・・・

と、まだまだ、彼女の人生の後半戦のお話を続けていきたいところではありますが、なんだかんだで長くなって参りましたので、そのお話は、2013年の3月18日【美人の代表…小野小町、伝説の後半生】のページでどうぞ>>m(_ _)m
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コメント

能楽「卒塔婆小町」は、100歳になった小町が主人公です。「通い小町」の深草少将の霊に取り付かれています。怪奇すぎる。

投稿: やぶひび | 2012年3月18日 (日) 20時00分

今日の「笑点」の問題でも小野小町に触れていました。「あまたの公達を振り向かせた美人」と言われますが、秋田美人の元祖ですか。日本海側出身の女性は美人が多いようです。

投稿: えびすこ | 2012年3月18日 (日) 21時47分

)「卒塔婆小町」

三島由紀夫の「近代能楽集」にも出てきます。

俗悪な公園のベンチで語る老婆と若い詩人、そこは鹿鳴館の跡で、小町と参謀本部の深草少将が百年後に、再び出会う。永劫に回帰する恋になってます。

投稿: レッドバロン | 2012年3月18日 (日) 22時03分

やぶひびさん、こんばんは~

晩年の頃は、特に伝説が多いですよね。

投稿: 茶々 | 2012年3月19日 (月) 00時42分

えびすこさん、こんばんは~

ほぉ…「笑点」で…
やっぱり、晩春の季語だからでしょうか…

投稿: 茶々 | 2012年3月19日 (月) 00時43分

レッドバロンさん、こんばんは~

小町と少将じゃなくても、そういうシチュエーションにはそそられます(*゚ー゚*)

投稿: 茶々 | 2012年3月19日 (月) 00時46分

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