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2012年3月31日 (土)

アンケート企画:歴史人物に「密着24時」するなら?

 

さて、旧暦の無い31日という事で、アンケート企画といきましょう!

今回のテーマは・・・
「歴史人物に『密着24時』するなら、いつの誰に?という事で、アンケート募集したいと思います。

テレビなどでお馴染の企画で『密着24時』というのがあります。

アイドルや有名人のある一日を密着取材するという物で、個人的には警察に密着するアレが大好きなんですが・・・

これを歴史上の人物でやるとしたら?・・・
(ただし、関与はNG…あくまで、見て取材するだけです)

いつも通りのおふざけ&お遊びのアンケート・・・固い事は抜きでお願いします。

とは言え、それこそ、人の思いは様々・・・
「そんなアホな」から
「ハッと驚く」提案まで、
多種多様な意見が聞けるのではないか?と・・・

とりあえずは、いつものように、個人的に「これは?」と思う選択肢を16個、下記に用意させていただきましたので、「この人に密着したい!」と思う方に清き1票を・・・もちろんその他のご意見もお待ちしております。

  1. 古代の一大クーデターに密着!
    大化元年(645年)6月12日蘇我入鹿
    血生臭いのは苦手だけれど…(参照ページ:6月12日>>)
  2. あの一大イベントの初回を取材!
    天平勝宝三年(751年)3月12日東大寺の僧
    現在まで続く東大寺二月堂の修二会=お水取りの第1回を…(参照ページ:3月12日>>)
  3. 新皇を名乗った瞬間にインタビュー!
    天慶二年(939年)12月19日平将門
    本当に国家転覆を狙っていたのか?その胸の内を聞いてみたい!…(参照ページ:12月15日>>)
  4. 今年の主役に密着!
    仁安二年(1167年)2月11日平清盛
    太政大臣就任直後に、その抱負とマツケンについて…(参照ページ:2月11日>>)
  5. 大いなる戦いの前にホンネをポロリ…
    延元元年建武三年(1336年)5月25日楠木正成
    後醍醐天皇の采配をどう思いますか?…(参照ページ:5月25日>>)
  6. 鉄砲伝来…これで合戦が変わります!
    天文十二年(1543年)8月25日種子島時堯(ときたか)
    ポルトガルの秘密道具の威力を見た感想など…(参照ページ:8月25日>>)
  7. 戦国の男の中の男に会いたい!
    天正三年(1575年)5月16日鳥居強右衛門(すねえもん)
    長篠での史上最強の伝令ぶりを取材…(参照ページ:5月16日>>)
  8. これはやっぱり外せない!
    天正十年(1582年)6月2日織田信長
    歴史好きの夢のような密着!イロイロ聞きたい…(参照ページ:2007年6月2日>>)
  9. 逆に…
    天正十年(1582年)6月2日明智光秀
    むしろ、こっちに聞いてみたい!…(参照ページ:2008年6月2日>>)
  10. 小牧長久手の後の秀吉と信雄の会見を…
    天正十二年(1584年)11月15日織田信雄
    ヤル気満々だった信雄を和睦に向かわせる秀吉の話術観察…(参照ページ:11月16日>>)
  11. 天下分け目の関ヶ原に揺らぐ心を取材
    慶長五年(1600年)9月15日小早川秀秋
    西軍・東軍の両方からのお誘いに若き心は揺れる…(参照ページ:9月14日>>)
  12. 関ヶ原なら逆に…
    慶長五年(1600年)9月15日湯浅五助
    秀秋の裏切りを察知していたという大谷吉継のそばにいた五助…(参照ページ:9月15日参照>>)
  13. 炎上する大坂城からの脱出劇
    慶長二十年(1615年)5月8日大野治房(はるふさ)
    一説には夏の陣で秀頼の息子=国松を守って脱出したのは大野治長の弟=治房だと…(参照ページ:10月17日>>)
  14. 大政奉還の前日、画策する倒幕派に…
    慶応三年(1867年)10月13日岩倉具視(いわくらともみ)
    明日に控えた大政奉還に蠢く岩倉を取材…(参照ページ:10月13日>>)
  15. 徳川幕府最後の日に…
    慶応三年(1867年)10月14日徳川慶喜(よしのぶ)
    大政奉還を行った最後の将軍に密着…(参照ページ:10月14日>>)
  16. その他
    「やっぱ、この人でしょう」「これを忘れてるヨ!」っていうのがありましたらお知らせください
      

とりあえずは・・・
アンケートパーツが最大16項目しか選択肢にできないため、なんとか上記の16項目に絞ってみました。

★申し訳ありませんが、このアンケートは締め切らせていただきました。

アンケート投票結果は、コチラへどうぞ>>
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2012年3月30日 (金)

江戸時代に西洋式の正月を祝った大槻玄沢

 

文政十年(1827年)3月30日、江戸後期に活躍した蘭学者・大槻玄沢が71歳でこの世を去りました。

・・・・・・・・・・

仙台藩の支藩である一関(いちのせき)藩医であった大槻玄梁(げんりょう)の長男として誕生した大槻玄沢(おおつきげんたく)は、その本名を茂質(しげかた)と言います。

Ootukigentaku500 この玄沢という名前は、医学を目指した彼が、お世話になった二人の師匠の名前を足したもの・・・そう、『解体新書』(3月4日参照>>)で有名な杉田玄白(げんぱく)前野良沢(りょうたく)から一字ずつもらって名乗った通称というヤツですが、有名なお名前なので、本日は玄沢さんと呼ばせていただきます。

お医者様だった父の影響からか、幼い頃から勉学に才能を発揮する少年だった玄沢さん・・・

やがて、その父の口添えで、地元の医師・建部清庵(たてべせいあん)に弟子入り・・・ここで、みっちりと医学&語学を学びます。

その後、22歳の時に、江戸への遊学を許された玄沢は、清庵と交流のあった杉田玄白の私塾に入学・・・ここで医術を学びつつ、前野良沢からオランダ語を教えてもらいます。

・・・と、この良沢の所で、一生モンの友人と出会います。

それは、やはり良沢に教えを乞いに来ていた仙台藩の藩医=工藤平助(くどうへいすけ)・・・

ただ、せっかく仲良くなれたは良かったものの、この時の玄沢が許された遊学期間はわずかな物で、別れはすぐやって来る・・・はずでした。

しかし、何と平助は、「こんな短い期間じゃ、ちゃんと学問を修められない!」とばかりに、一関藩の藩主に談判してくれ、おかげで遊学期間が2年も延びて、玄沢は、医学に語学に、有意義な時間を過ごす事ができたのです。

やがて28歳になった玄沢は、今度は長崎への遊学を許され、日本の中で最も外国に近いこの地で生のオランダ語に触れ、更なる語学力を磨いたのです。

そして1年間の長崎遊学を終えて、天明六年(1786年)に江戸に戻って来た玄沢は、まもなく、仙台藩の藩医に大抜擢!!!

そう、実は、これも、かの平助の推薦してくれたおかげでした。

藩医になった事で江戸に定住する事となった玄沢は、医者として活躍する一方で、私塾・芝蘭堂(しらんどう)を開いて、後世の人材育成にも尽力・・・さらに、蘭学の入門書である『蘭学階梯(らんがくかいてい)をはじめとする数多くの有意義な著作も残す事になります。

寛政二年(1790年)には、師匠の玄白から、かの『解体新書』の改訂版の作成を頼まれ、14年もの歳月をかけて、見事に、それも完成させました。

ただ、その後半生は、少し医学から離れ、どちらかと言うと翻訳中心の仕事をこなし、それらの洋書から知り得る外国の知識を活かして、ロシアイギリスなど、徐々に迫りくる外国勢に対する政策などの助言をする事もあり、その意見は藩内にとどまらず、幕府にも重要視されるようになったのだとか・・・

地元では、玄沢の意思を受け継いだ、息子で漢学者の大槻磐渓(ばんけい)、孫で国語学者の大槻文彦(ふみひこ)とともに「大槻三賢人」と呼ばれて、今もなお尊敬されるそうです。
 .

ところで、そんな玄沢さん・・・オモシロイ逸話が残っています。

それは、西洋式で、しかも太陽暦で、初めてお正月を祝った日本人という事・・・

もちろん、日本に滞在している外国人は、例え日本中が旧暦で祝っていても、彼らだけは西暦で「A Happy New Year」とやったでしょうが、日本人主催で・・・というのは、おそらく玄沢が初・・・

『続南蛮広記』でも
「明らかに年次の知れてゐる所では…大槻玄沢の“阿蘭陀正月(おらんだしょうがつ)”が最初であろう」
と書いています。

玄沢による初回のニューイヤーパーティが行われたのは寛政六年の11月11日・・・この日が西暦で1795年の1月1日にあたる事から、友人たちを招いて、盛大な宴会を催したようです。

「冬至より12日にあたる日を以て、彼国の正月とす。
これをヤニユワレーといふ。
長崎出島に旅宿の蛮人、訳官をまねきて酒筵
(しゅえん)をまふく。
ことに華麗をつくすとなり」

これは、玄沢の解体新書・翻訳仲間桂川甫周(かつらがわほしゅう)弟で、戯作者の桂川甫粲(ほさん・森島中良)という人物の『紅毛雑話』の一文ですが、こんな感じで玄沢もやってみたんでしょうね~

とは言え、宴会に出された物は、なんと西洋料理・・・

「箸を用いないで…匙子(さじ)で取って喫(くら)い、白金巾(しろかなきん)を膝の上に蔽(おお)い、一菜を食し了れば器皿(きべい)を易(か)える」

・・・て、これは、西洋料理どころか、フルコースディナーやおまへんか!

聞くところによれば、この玄沢さんちのニューイヤーパーティ・・・初回以来、数十年に渡って毎年行われたとか・・・

って事は、おそらく、文政十年(1827年)3月30日にお亡くなりになる間際まで・・・

いやはや、おみそれしましたm(_ _)m

さすがは玄沢さん・・・かなりの西洋ツウですね。
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2012年3月29日 (木)

三木の干殺し~別所長治の籠城戦

 

天正六年(1578年)3月29日、織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を、配下の羽柴秀吉が攻撃・・・この先2年の長きに渡る三木城・籠城戦が開始されました。

・・・・・・・・

・・・て事ですが、
三木城の攻防戦の流れについては、5年前の記事ではありますが、2007年にすでに書かせていただいており(2007年3月29日参照>>)、内容がかぶる部分もあるのですが、本日は、その三木城で踏ん張る別所長治(べっしょながはる)を中心に書かせていただきたいと思います。

Bessyonagaharu500 長治の別所氏は、播磨(はりま=兵庫県)の守護であった赤松氏の支族で、長治から数えて4代前の則治(のりはる)の時代には播磨東部の3郡の守護代を務めていましたが、その後、赤松氏が衰退するの見て、則治の孫(つまり長治のお祖父ちゃん)就治(なりはる・村治)の時代に赤松氏から独立・・・

戦国大名としての名乗りを挙げるとともに、勢力を拡大して行き、長治の父・安治(やすはる)の頃には東播八郡=美嚢郡・明石郡・加古郡・印南郡・加西郡・加東郡・多可郡・神東郡を支配するまでに成長・・・最盛期を迎えていました。

そんな中で、あの織田信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)奉じて上洛して来ると、安治はいち早く賛同し、三好氏の撃退(9月29日参照>>)どに加勢しました。

しかし、そんな父・安治は、信長の上洛から、わずか2年後に病死・・・未だ10代前半の少年だった長治が、叔父たちを後見役として別所氏の家督を継いだのです。

もちろん、長治が当主となっても、父が信長と結んでいた同盟は継続中で、長治も、父と同様に、信長配下として先鋒を務めたり、年始の挨拶に上洛したりしておりました。

しかし、信長の中国攻めがいよいよ本格的になった天正五年(1577年)・・・信長が配下の羽柴(後の豊臣)秀吉を、中国攻めの総司令官に相当する役職に抜擢した時、長治は、いきなりの離反を決行するのです。

この突然の離反については、昔から、様々な説が飛び交ってます。

まず言われるのは、なんだかんだで由緒正しき赤松の血をひく別所氏であるだけに、成り上がり者の秀吉の指揮のもとで合戦する事をプライドが許さなかった・・・というもの。

また、信長や秀吉が、なんだかんだと別所氏を冷遇した事から、不満を持った一族の中から離反の声が上がり、当主の長治が、その進言に従って決定した・・・とか、

もちろん、一族の声と同時に、あの毛利からも離反のお誘いがあったでしょうし、長治の奥さんの実家である丹波(京都中部と兵庫県東北部)波多野秀治(はたのひではる)が、すでに天正四年(1576年)の時点で信長に反旗をひるがえしています(1月15日参照>>)ので、そこからのお誘いもあった事でしょう。

さらに、その波多野氏の離反を見てもわかるように、この頃の中国地方一帯の武将たちの間で、一旦支持した信長に反旗をひるがえす=反信長の風が吹いていた事も確かです。

なんせ、この2~3年、あの西国の雄・毛利氏の全面バックアップのもと、一大勢力を誇る石山本願寺が、信長を悩ませていたのですから・・・(7月13日参照>>)

なんとなく「信長、ヤバいんじゃないの?」という空気・・・この長治の三木城籠城中には、あの荒木村重(12月16日参照>>)あんな近くで離反しちゃってますからね。

かくして、東播磨一帯から約7500の国人(地元に根付く武士)が集結し、三木城に籠城・・・そこを、天正六年(1578年)3月29日約2万の秀吉の軍勢が包囲したわけです。

Mikizyoukoubousencc
↑画像をクリックすると、大きな画像が開きます。
このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

とは言え、大軍を擁してもなかなか落ちない三木城・・・秀吉は、本城を後回しにして周囲の支城を攻め落とし、三木城を孤立化して兵糧攻めとしました(4月3日参照>>)

この間には、一番東の三木城が離反した事で孤立化してしまった上月城が落とされたり(5月4日参照>>)谷大膳衛好(だいぜんもりよし)討ち死にしたり(9月10日参照>>)竹中半兵衛が帰らぬ人となったり(6月13日参照>>)・・・

しかしながら、いくら強固な城と言えど、長引けば、そのうち兵糧は尽きるもの・・・

飢餓状態に陥った城内を見て、
「もはや、籠城の継続はムリ」と判断した当主・長治は、残っていた少量の食料でささやかな宴会を開いて兵たちの苦労をねぎらった翌日の天正八年(1580年)の1月17日正室&重臣たちとともに自刃して果てたのです。

「三木の干殺(ひごろ)し」と呼ばれる約2年間の籠城戦・・・

さすがの秀吉にとっても、この戦いは心身ともに疲れたのでしょう・・・
この後の天正九年(1581年)の鳥取城の兵糧攻め(7月12日参照>>)では、一刻も早く兵糧が尽きるように、事前に画策しています。

こうして、三木城攻防戦を終えた秀吉は、この後、播磨宍粟郡に侵攻しますが、そのお話は【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】でどうぞ>>
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2012年3月28日 (水)

清盛嫡流の誇りと責任…平維盛の決断

 

寿永三年(1184年)3月28日、源平争乱の戦線を離脱した平清盛の嫡孫・平維盛が、入水自殺をはかりました。

・・・・・・・・

平維盛(たいらのこれもり)は、平清盛の長男=平重盛(しげもり)の長男・・・つまり清盛の嫡孫という事になります。

源平の争乱がクライマックスを迎える頃には、すでに清盛も重盛もこの世にはいませんから、まさに、彼=維盛が平家一門を背負って立つ役回りにならねばならない人でした。

ただ、その立場は微妙・・・大河ドラマでご存じの方も多いでしょうが、長男の長男って事は、この維盛さんの祖母は、清盛の最初の奥さんなわけで、未だ平家女人の頂点として健在である清盛の再婚相手=平時子(二位尼)とは別の人なわけです。

ドラマのように、見事にしっくりと、先妻の思いを継いでくれる深キョンのような女性だったら、すべてが丸く納まるでしょうが、実際にはどうだったかはわかりません。

まして、先妻と時子さんでは、実家の身分に天と地との差があり、時子の尽力無くしては清盛の出世も無かったかも知れないほどの影響を与えた人ですから・・・(2月10日参照>>)

実際には先妻が亡くなった記録も無いのですから、悪く考えれば、清盛が、自らの出世のために先妻を捨てて時子に乗り換えた可能性もゼロではありません・・・もちろん、そうは考えたくないですが・・・

さらに悪い事に、治承元年(1177年)5月には、維盛の奥さんの父である藤原成親(ふじわらのなりちか)が、『鹿ヶ谷の陰謀』(5月29日参照>>) の首謀者の一人として逮捕され、備前(岡山県)流罪となった後に亡くなる(斬られたとも)という事件が・・・

自分の嫁の父親が、自分たち一族を倒そうという策略に加担していたのですから、そりゃ、一門の中で、肩身の狭い重苦しい空気が漂うのは必至・・・

とは言え、なんだかんだで平家の嫡流・・・治承四年(1180年)10月には、挙兵したばかりの源頼朝を討つべく、討伐軍の総大将となって出陣します。

Tairanokoremori500 この時、維盛=23歳・・・「桜梅少将(おうばいのしょうしょう)とのニックネームで呼ばれ、「まるで光源氏のよう❤❤❤」と女官たちを魅了したイケメン維盛、最高潮の大舞台だったわけですが、残念ながら、この富士川の合戦(10月20日参照>>)では、戦わずして撤退するという体たらくを見せてしまいます。

もちろん、そのページにも書かせていただいたように、この年は、西日本一帯が未曽有の大飢饉に襲われていて、兵糧も軍備も訓練もまともに行えなかったと言われており、歴史家の方の中には平家滅亡の1番の原因を「この年の飢饉」と指摘する方も多いわけで、ここは、負けたのではなく、勇気ある撤退だった可能性も大・・・

しかし、その翌年には清盛が亡くなり・・・さらにその翌年、名誉挽回とばかりに、北陸から迫る木曽(源)義仲を討つべく、総大将として加賀へ攻め込んだ維盛(5月3日参照>>)・・・

しかし、こちらも・・・あの倶利伽羅峠で手痛い敗北を喰らってしまうのです(5月11日参照>>)

この頃から、平氏の主導権は叔父の宗盛(むねもり=清盛の3男)に移っていく事になり、維盛にとっては、いっそう肩身の狭い実家となっていた事でしょう。

それを物語るのが維盛の都落ち・・・やがて、迫る義仲軍に対して、幼き安徳天皇を奉じた平氏が都を後にする事になるのですが、維盛は、平家一門でただ一人、妻子を都に残したまま、一族とともに落ちていくのです(7月25日参照>>)

やがて、寿永三年(1184年)2月一の谷…
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
そして、文治元年(1185年)2月屋島・・・
【めざせ!屋島~嵐の船出】
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】

と続くのですが・・・

この一の谷から屋島にかけてのこの間のいずれかの日に・・・
と、ここからは『平家物語』に沿ってお話させていただきますが、

『平家物語』では、一の谷の敗戦後の寿永三年3月15日維盛は、わずかに3人の供だけを連れて、戦線を離脱してしまうのです。

どうやら維盛さん・・・その身は屋島にあっても、心は都に・・・残して来た妻子の事が気になってならなかったのです。

ただ、妻子の顔を見たさに一族から離れたは良いものの、このまま都に入ってしまっては・・・なんせ、巷では、あの一の谷で生け捕りとなってしまった平重衡(しげひら=清盛の5男)(6月23日参照>>)が、京市中を引き回され、この後鎌倉に贈られるとのもっぱらの噂ですし・・・

そんな中で、自分が安易に都に戻って捕えられでもしたら・・・そう思った維盛は、とりあえず知り合いの僧のいる高野山へと向かいました。

その知り合いとは、三条の斎藤以頼(もちより)の息子で斎藤時頼(ときより)・・・出家して滝口入道と呼ばれていた僧・・・

高野山にて、堂塔を参拝しつつ、その胸の内を滝口に伝える維盛・・・

「ここで出家をさせていただいて、その先は火の中水の中・・・と思っているのですが、ただ熊野に詣でたいという宿願だけは果たそうと・・・」

・・・と、早々に出家をした維盛は、「熊野へお供しましょう」と言ってくれた滝口と、そしてともに出家した従者らとともに熊野参詣を済ませました。

かくして寿永三年(1184年)3月28日、未だ霞がかかった哀愁漂う海に向かって船をこぎ出し、沖へ沖へと進みます。

ここに来ても、まだ妻子の事が気にかかる維盛を、滝口が慰めつつ激しく鐘を鳴らして念仏を勧めると、「今が最善の時!」と悟った維盛は、西に向かって一心に手を合わせ「南無…」という声とともに入水したのでした。

・・・と、ここまでは『平家物語』のお話・・・

平家物語での維盛の入水が「寿永三年の3月28日」となっていますので、本日、ここに書かせていただきましたが、やっぱり、あります生存説・・・

平家の落人伝説が数多く残る紀州(和歌山県)では、維盛は那智の山里に隠れ住んで、そこで再婚して子孫も残っているという伝説の里があったり、やはり、落人伝説の多い阿波(徳島県)では、山に籠って仙人になったという伝説も・・・

また『源平盛衰記』では、無事、都に戻って妻子と再会した後、後白河法皇に助命嘆願したところ、それを伝え聞いた頼朝から、鎌倉へのお呼びがかかったので、鎌倉へと向かいますが、その旅の途中、相模(神奈川県)で病死したという事になっています。

これらの伝説を見てみると、やはり、『平家物語』が一番美しく描かれているように思いますが、私としては、その伝わるお話のほとんどが、もはや伝説の域を越えない物のような気がします。

おそらくは・・・
清盛の嫡流という血筋で光源氏を思わせる美貌の青年が、戦乱という波に呑みこまれ、わずか27歳にしてこの世から姿を消してしまう哀れさに対して、
「もっと長生きさせたい!」
あるいは
「美しく最期を迎えさせてやりたい」
との人々の思いが、様々な伝説を産んでいった・・・という事なのでしょうね。
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2012年3月27日 (火)

独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心

 

弘和三年・永徳三年(1383年)3月27日、父の後醍醐天皇から征西大将軍を任じられ、九州に一大勢力を築いた懐良親王が亡くなりました。

・・・・・・・・

有名な建武の新政(6月6日参照>>)を断行した後醍醐(ごだいご)天皇が、自らの第7皇子である懐良(かねよし・かねなが)親王征西大将軍に任命したのは延元元年(建武三年・1336年)9月だったと言われています(諸説あり)

後醍醐天皇の新政に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、建武二年(1335年)に東国で挙兵して上洛し(12月11日参照>>)、一旦京を制圧した事で、事実上建武の新政は崩壊・・・

翌・建武三年(1336年)1月に、天皇配下の新田義貞(にったよしさだ)京を奪回(1月27日参照>>)するも、九州へと落ち延びて態勢を立て直した(3月2日参照>>)尊氏が、今度は西から上洛し、あの湊川の戦い(5月25日参照>>)に勝利したのが5月・・・

この湊川で楠木正成(くすのきまさしげ)を失った後醍醐天皇は、自らは比叡山に籠り、皇子たちを地方へと落ち延びさせます。

いや、落ち延びるというよりは、自らの分身である息子たちを地方に派遣し、その地方の天皇派の兵力を結集して、新たなる援軍を引き連れて戻って来る事を期待していたのでしょう。

すでに書かせていただいていますが、10月には第4皇子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲り、第2皇子の尊良(たかよし・たかなが)親王とともに、新田義貞を護衛につけて、こちらは北国(福井・石川方面)へ向かわせています(10月13日参照>>)

残念ながら、北国へ落ちたコチラの皇子たちは、足利軍の追撃隊によって、翌年の3月に生け捕り&自害するという結果になってしまいますが・・・(3月6日参照>>)

つまり、上記の二人の皇子が北国へ行く1ヶ月前に、本日の主役=懐良親王が九州に向かったというワケです。

結果を先に申し上げますと・・・
この懐良親王・・・上記の二人の兄の轍は踏まず、見事、九州を制圧します。

ご存じのように、南北朝時代を通じて、京都やその周辺では、ほぼ北朝有利・・・ほとんどが足利配下の室町幕府となる中で、懐良親王が制圧した九州は独立国家のようになって、約12年間に渡って抵抗し続けるのです。

この懐良親王の成功の影には、もともと南朝方だった肥後(熊本県)菊池氏と阿蘇宮司の阿蘇氏・・・そして、九州に向かう段階で味方につけた熊野水軍伊予水軍などの力が大きく働いていたのです。

菊池氏や阿蘇氏の思惑は、当時、大宰府を支配していた少弐氏にとって代わる事・・・今も昔も外国との貿易の拠点である大宰府を制すれば、そこに巨万の富が生まれますから・・・

・・・で、そうなると、大宰府に着いた交易品を瀬戸内海を使って運ぶのは・・・そう、瀬戸内の海運を掌握している水軍にとって、大宰府を制した者と手を組む事は当然の結果なわけで・・・

もちろん、そこには、観応元年(正平五年・1350年)の観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)という内輪モメがあって、北朝が、ちょっとばかりゴタゴタしてる間に、コチラの南朝勢力が力をつけての大宰府制圧でもあったわけですが・・・

おかげで、しばらくの間は、幕府が派遣する九州探題が、海路を阻まれて九州に入れないという状況になっています(8月6日参照>>)

ちょうどこの頃ですね・・・

当時の中国を支配していた(げん)を倒して(みん)を起こした洪武帝(こうぶてい)が、周辺諸国に建国の報告とともに貢物を出して、その傘下に入る事を要求する使者を送って来たのは・・・

Kanenagasinnou500ak 以前、義満の日明貿易のページ(5月13日参照>>)で、チョコッと書かせていただきましたが、この時、大宰府に上陸した明の使者は、その地で政権を掌握していた懐良親王を日本の国王とみなして、彼に国書を送っちゃいます

当時の室町幕府将軍は第3代・足利義満(あしかがよしみつ)・・・なのに、明が「日本国王良懐」(明の記録で名前が反対になってます…間違えたのか?)なんてお墨付きを発行しちゃったモンだから大慌て・・・

早速、義満も明に使節を送るものの、すでに懐良親王を国王とみなしている明は断固拒否・・・やむなく義満は、南北朝合一を果たして明から「日本国王源道義」と認めてもらうまでのしばしの間、「良懐」の名義でペコペコ外交するしか無かったのです。
(よくワカランが、良懐なんて人はいないから、その名義も使い放題なのか?)

おもしろいのは、「良懐」の名義を使ってまでペコペコ外交して交易を結ぼうとした義満と対照的な態度だった、この時の懐良親王・・・

明からの使者を受けた彼は、早速、如瑤(じょよう)という僧に400名の決死隊をつけて明へと派遣・・・その貢物として巨大なロウソクを持たせるのですが、

その巨大なロウソクの中には、刀剣と火薬が仕込んであり、かの地の皇帝に謁見する際に、「その場で刺し殺せ」との命令を出していたとか・・・『日本海賊史』

残念ながら、手を下す前に、事が露呈して失敗に終わったと言いますが・・・強気外交もここまで行くと、ホンマかいな?って感じですね~(たぶん盛ってます)

とは言え、やがて、四国細川氏周防(山口県)大内氏が北朝についた事から、九州探題として派遣された今川貞世(いまがわさだよ)によって九州を平定されてしまった懐良親王・・・

応安六年(1373年)には、兄=後村上天皇の皇子である良成(よしなり・ながなり)親王征西大将軍の座を譲った後、晩年には病におかされ、弘和三年(永徳三年・1383年)3月27日筑後(福岡南部)矢部にて、静かにその生涯を閉じたと言います。

思えば、暦応二年(1339年)に父=後醍醐天皇が亡くなって(8月16日参照>>)からの30余年・・・

父と兄の成しえなかった夢を、その一身に受け止め、天皇親政の日々を夢見て、九州に一大勢力を築いた日々・・・

ひょっとしたら、父・後醍醐天皇の高貴なプライドと不屈の精神と負けん気の強さという特異な血筋を、最も受け継いでいたのは、この懐良親王だったのかも知れませんね。
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2012年3月26日 (月)

母の期待とご落胤説…将軍・足利義尚の苦悩

 

長享三年(1489年)の3月26日、第9代室町幕府将軍・足利義尚が、近江鈎の陣中で病死しました。

・・・・・・・・・

第9代室町幕府将軍足利義尚(よしひさ)の死に関して『公方両将記』では・・・

「御出陣の御年より今春迄三箇年、合戦の御営に御身心を苦しめられ、御勝利有つて陣中にて御逝去ある事、武将の本意と申しながら、御年いまだ廿五歳、器量才芸御行迹(さいげいごぎょうせき)、皆以て世に超え給ひ、殊更(ことさら)御父義政公老後の一子、天下の武将、旁(かたがた)以て一方ならずと、貴賊上下おしなべて歎き悲しむ計也」
とあります。

Asikagayosihisa600 3年に渡る合戦の陣中で心身ともに疲れ果て、酒びたりの生活になっていたという25歳の若者=義尚・・・

この時、可愛い1人息子の死を知った父=足利義政と、母=日野富子の嘆きぶりは、例えようも無かったとか・・・・

今回、両親の期待を一身に背負った若き将軍=義尚が命を落とす事になった近江鈎(まがり)の陣・・・合戦の経緯は、すでに書かせていただいてますが(12月2日参照>>) ・・・

そもそもは応仁の乱の後、近江(滋賀県)南部の公家領や寺社領を勝手に占拠し続けていた六角高頼に対して、室町幕府の権威を復活すべく将軍=義尚自ら出陣して高頼の居城・観音寺城を攻撃して、高頼に城を捨てさせたまでは良かったものの、逃走して甲賀に逃げ込んだ高頼は、甲賀者や伊賀者を駆使して、あの手この手のゲリラ戦を展開するわけで・・・

確かに、大軍と大軍がぶつかる大きな合戦も大変でしょうが、ほとぼりが冷めた頃に奇襲をかけられ、怒涛のごとく去って行っては、また、しばらくして奇襲・・・なんていうゲリラ戦も大変・・・

「酒びたり」って事は・・・
当然ですが、1人でお酒だけを飲んでるわけはなく、そこで遊興&宴会の数々があったわけで、「戦時下の本陣で何やってんだ!」とも思う一方で、そんなゲリラ戦を、3年にも渡る合戦の中で、度々しかけられれば、心身ともに疲れ果てて、酒に走ってしまうのも、わからないではない・・・

まして義尚の背中には両親・・・特に、母=富子の期待がドカンと乗っかっていたわけですから・・・

そもそも、富子が義政の正室となったのが康正元年(1455年)・・・義政=21歳で富=16歳という初々しい新郎新婦だったわけですが、(富子にとっては残念ながら)この時、義政には、すでに今参局(いままいりのつぼね)という側室がいた・・・

しかも、この女性・・・もともとは義政の乳母で、大人になった義政に愛の営みの手ほどきをした女性で、その後も義政の寵愛を受けて側室となっていた人・・・すでに、二人の間には女の子も生まれていました。

さらに、今参局だけでなく、もう1人・・・別の女性も、義政との間に女の子をもうけていました。

そんなところにお嫁に来てしまった富子・・・

嫁いで3年目の長禄三年(1459年)、やっとこさ富子にとって待望の第1子が誕生・・・しかも、未だ他の女性の子供が女ばかりの中で、男の子をを出産したのです(女を男と偽った説あり)

ところが、その子が生まれてまもなく死亡・・・そんな中、「今回の子供の死は今参局の呪詛(じゅそ=呪いをかける)のせいだ」との噂・・・

この噂に関しては、富子自身が、あるいは、大叔母の日野重子が流した・・・なんて話もありますが、とにもかくにも、大変大きな噂となってしまったため、事態の収拾をはかるべく、義政は、今参局を琵琶湖に浮かぶ沖ノ島への流罪としました。

こうしてライバルを1人消しさったものの、その後、なかなか子宝に恵まれなかった富子・・・

ところが、そんなこんなしてるうちの寛政六年(1465年)・・・また別の側室との間に、しかも今度は男の子が生まれてしまいます。

「これ、いかん!」
と焦った富子は、なんと・・・
「その子供は義政の子供やない!彼女(側室)が他の男と浮気してできた子供や!」
と言いだします。

未だ大奥なんて、将軍のお相手がはっきりするような機関が無かった時代・・・正室が、そう言いだせば、それに反発する材料はなく、義政は、その男の子を認知する事はできませんでした。

そんなゴタゴタがあったにも関わらず、その年の秋に富子は出産・・・それが、この義尚なのです。

よく言われるのは、そんな富子の「なんとしても、我が息子を将軍にしたい!」という気持ちが、すでに、次期将軍に決まっていた義政の弟・足利義視(よしみ)とのぶつかりを産んで、あの応仁の乱に至る(1月7日参照>>)・・・というもの

もちろん応仁の乱という大乱の原因は、様々にあり、それだけではないのですが・・・

ただ、この経緯を見る限り、成長して第9代将軍となった義尚に圧しかかったプレッシャーがハンパない事は、容易に想像できます。

しかも、さらにオマケの話が・・・

あくまで噂・・・トンデモ説に近いお話ですが・・・
富子が、義尚を懐妊する少し前・・・すでに夫婦仲が冷めきっていた中で、少し距離を置こうと室町御所を出た富子は、親戚の者が働いていた禁中に、しばらく住んでいた事があったとか・・・

そこに時々通っていたのが、時の天皇・後土御門(ごつちみかど)天皇・・・そう、義尚は、天皇のご落胤かも知れないとの噂があったのです。

もちろん、真偽のほどはわかりませんし、あくまで富子を悪女に仕立て上げたいがための後世の創作の可能性大なのですが、

たとえ本当の事では無かったとしても、そんな噂が義尚本人に耳に入ってでもいたら・・・

「何としてでも将軍になってほしい」という母の期待に加えて、「ご落胤かも知れない」の噂話・・・

もはや、25歳の若者には、手に負えない重荷となっていた事でしょうね。

将軍という華やかな地位にも関わらず、なんとなく、気の毒な思いもする足利義尚の死です。
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2012年3月24日 (土)

龍造寺四天王~それぞれの沖田畷

 

天正十二年(1584年)3月24日、肥前島原半島の領有権をめぐって龍造寺氏島津氏が争った沖田畷の戦いがありました。

・・・・・・・・・

この沖田畷(おきたなわて)の戦いで命を落とす肥前(佐賀県)の戦国大名・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・

Ryuuzouzitakanobu600 豊後(大分県)大友宗麟(そうりん)薩摩(鹿児島県西部)島津義久と並んで「九州三強の一角」と呼ばれ、頂点の頃は『肥前の熊』と恐れられる存在だった隆信さんの生涯については、古い記事ではありますが2007年の11月26日に>> 、今回の沖田畷の戦いの経緯についても昨年=2011年の3月24日に>>書かせていただいておりますので、本日は、その隆信最後の戦いで、主君とともに散った『龍造寺四天王』についてご紹介させていただきたいと思います。

昨年のページでも書かせていただきましたが・・・
晩年の隆信は酒におぼれ、「肥前の熊」と呼ばれた面影も無く、手は震えて馬にも乗れず、家臣との信頼も崩れて、まともな作戦も無いままに沖田畷に突入したために、大量の兵を擁しながらも少数の島津に討ち取られてしまったのだと言われます。

しかし、それも勝てば官軍・・・合戦での負け組には、その弁解の余地もないのが歴史の常で、今回の四天王に代表される多くの重臣たちが、主君とともに、この合戦で散る事を選んだ事実を見れば、龍造寺主従の絆は、なかなかに深い物であったのではないか?と思います。

さて、肝心のその四天王ですが・・・
成松信勝(なりまつのぶかつ)
百武賢兼(ひゃくたけともかね)
江里口信常(えりぐちのぶつね)
円城寺信胤(えんじょうじのぶたね)
木下昌直(きのしたまさなお)・・・て、5人おるやないか~い!

そうなんですね~賤ヶ岳の七本槍しかり、利休七哲しかり・・・こういう場合に「人数が合わない場合」もありなんです。

なんせ、文献が複数ありますから・・・龍造寺の場合も、最初の3人はほぼ確定ですが、記録によって円城寺と木下が入れ替わったり、四天王ではなく「四本槍」と紹介される事もあります。

いずれにしても、彼らは重臣と言えど、ものすご~~くエライ・・・言わば、常に主君の隆信のそばについてるような家臣ではなく、合戦となれば先陣を切って駆け抜けて行くという武闘派の旗本中堅クラスの家臣たちなのです。

●成松信勝

四天王の筆頭とも言うべき信勝は、比較的早い段階から隆信の近侍となった家臣で、あの今山の戦い(8月20日参照>>)では、いち早くスパイを放って大友勢の動きを把握し、奇襲作戦成功に一役買いました。

今回の沖田畷では、軍奉行として出陣し、隆信本陣の防衛にあたっていましたが、混乱の中で隆信が討ち取られた事を知ると、「我こそは、先年、大友八郎(親貞=宗麟の弟)を討ち取りし成松遠江守なり!」と、戦場に響き渡るような名乗りを挙げ、100人ばかりの島津勢の真っただ中に突入して果てました。

●百武賢兼

賢兼は、もとは戸田という苗字でしたが、永禄十二年(1569年)に起こった佐賀多布施(たふせ)口の戦いに初参戦して以来、百戦錬磨の活躍を見せた事から、隆信より「百武」の姓を賜ったのだとか・・・

沖田畷では、やはり、隆信の本陣の防衛にあたっていましたが、本陣が島津勢の急襲に遭った際、隆信の盾になるがごとくその前に立ちふさがって奮戦、主従40名とともに防波堤となって討死しました。

●江里口信常

もとは小城(おぎ=佐賀県小城市)千葉氏の家臣だった信常は、後に鍋島信房(のぶふさ=直茂の兄)に仕え、隆信の最盛期の頃に軍団に加わります。

沖田畷では、隆信が死んだと聞くやいなや、味方で討死していた者の首を切り取り、複数の首をひっさげて「大将に分捕りの首を見参!!」と叫びながら、敵陣深く入り込んで敵の大将・島津家久(いえひさ)の間近まで迫り、いきなり、家久に首を投げつけながら「江里口藤七兵衛!!」と名乗りを挙げて馬上の家久に斬りかかり、太ももに重傷を負わせて落馬させるという快挙をやってのけます。

ただ、悲しいかな、たった一騎・・・すぐに、敵の馬廻りの者たちに取り囲まれてしまいますが、その時、家久が
「ソイツは無双のツワモノや!殺すな!助けろ!」
と叫びますが間に合わず・・・後に、家久は「信常に子孫がいるなら養子にしたい」と言っていたとか・・・

●円城寺信胤

小城の千葉氏の支流の出身と言われる信胤は、隆信譜代の家臣である鹿江兼明(かのえかねあき)の娘を妻に娶っていた事もあって、数々の合戦で武功を挙げています。

沖田畷では、軍奉行として本陣にあり、(たぶんわざと)隆信と同じ威(おどし)毛の甲冑を身につけていたと言い、本陣急襲の際には、「我こそは龍造寺山城守隆信なり!」との名乗りを挙げながら敵陣に突入し、壮絶な斬り死にをしたという事です。

●木下昌直

もともとは京都出身ですが、龍造寺の家臣である木下覚順の養子となって隆信に仕えたとされる昌直は、龍造寺四天王の中で、唯一、生存説のある武将です。

沖田畷の時は、山の手に布陣していた鍋島直茂(当時は信生)(10月20日参照>>)の一団に属していた事から、隆信戦死の報を聞いて退却する直茂軍の殿(しんがり)を務め、直茂が無事に引き上げるのを確認してから陣中で戦死した・・・とも言われますが、

一方では、隆信の死を知った直茂隊や龍造寺政家(隆信の息子)隊が退却を考慮している時、隆信の死が本当の事かどうかを確認するために本陣へ向かい、無事生還して、主君の死を報告して彼らの退却を見守った後、船にて帰還したとの生存説があります。

以上、
5人いる四天王のそれぞれの沖田畷を見て参りましたが、冒頭にも書かせていただいた通り、彼らの忠誠心溢れる戦いぶりを見る限り、晩年の隆信が酒におぼれた暴君であったとは、とても信じがたいのです。

命を懸けて主君に報いたいと思う姿は、同じ戦場にいる兵士たちを、敵味方の区別なく感動させる・・・だからこそ、敵である家久が「殺すな!」と叫び、その様子を目にした兵士たちが、後の世に語り継ぐわけで・・・

そこには、やっぱり、しっかりとした主従の絆ができていたと思いたいですね。
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2012年3月23日 (金)

「いざ!鎌倉」の語源~鉢の木と北条時頼

 

寛元四年(1246年)3月23日、鎌倉幕府執権・北条経時が重病となったため、弟の時頼が5代執権に就任しました。

・・・・・・・・

鎌倉幕府の第5代執権である北条時頼(ときより)・・・

Houzyoutokiyori600 父は、第3代執権の北条泰時(やすとき)の嫡男である時氏(ときうじ)ですが、この時氏が執権を継ぐ前に若くして亡くなったために、その長男であった経時(つねとき)が第4代執権となっていたところに、上記の通り、経時が重病になったという事で、その弟である時頼がその後を継いで第5代執権となったわけです。

執権に就任した直後、北条の執権体制に反発する鎌倉幕府第4代将軍・藤原頼経(よりつね)を京都に強制送還して反対派を一掃した事で、不満をつのらせた三浦泰村(やすむら)の一族を滅ぼすというゴタゴタ劇がありましたが、時頼が執権となっていた11年間で、いわゆるモメ事となったのは、この三浦の一件だけで、これまで、発足以来ドタバタ続きだった鎌倉の世を、うまく治めた人物として評価されています。

もちろん、反論もあるでしょう。

モメ事が無いという事は、それだけ執権という地位を揺るぎない物にしたわけで、そのぶん独裁的な一面もあり、特に、第5代将軍・藤原頼嗣(よりつぐ)を追放して後嵯峨天皇の皇子である宗尊(むねたか)親王を第6代の将軍に据えてからは、まさに北条執権の独擅場となった事は確かです。

ただ、その一方では、御家人に対しても数々の融和政策を採用したり、庶民に対しての救済政策を行って積極的に庶民を保護した事などを見れば、やはり時頼=名君と言えるのではないでしょうか?

まぁ、この庶民救済も、もともと北条氏がそれほど身分の高い家柄では無いので、血統で統治をする上から目線の政治には限りがあり、庶民を優遇する善政を敷く事で、自らの立ち位置も確保しようとした・・・と言ってしまえば、その通りですが、

とにかく、それまでは弱肉強食世界で、強い者が弱い者を押さえつけ、言わば「斬り捨て御免」がまかり通っていたわけで、上からの略奪や不法行為にも、庶民は泣き寝入りするしかなかった時代だったのですから、そこを、庶民の側に立った政策を自ら行い、それを配下の武士たちにも推し進めた・・・

武士たるもの、民衆から搾取を繰り返して押さえつけるのではなく、民衆とともに生き、ともに豊かになっていくものであるという観念を時頼は、配下の武士たちに植えつけようとしたのです。

これまで政治を行って来た貴族に代わって、初めての武士政権である鎌倉幕府は、民衆を擁護するという形で、その政権を揺るぎない物にしていこう・・・

この時頼の政策は、民衆を撫でるように=「撫民(ぶみん)政策」と呼ばれます。

これは、日本の歴史上、大いなる転換で、古代より受け継がれて来た秩序の大変革・・・時頼は、もっと注目されても良い政治家ではないかと思います。

そんな中で、生まれたのが有名な謡曲「鉢木(はちのき)・・・「万が一の時」「今動かねばならぬ時」みたいな瞬間を言い表す言葉(ことわざ・慣用句)「いざ鎌倉」のもととなった物語です。

もちろん、これは謡曲なので、後世の創作なわけですが、このような逸話が生まれ、後世にまで語られるのも、やはり、時頼の政策が、善政と呼べるものだったからなのでは??
という事で、ご紹介させていただきます。

・‥…━━━☆

ある僧が、全国行脚の途中に立ち寄った上野(こうずけ・群馬県)佐野というところで大雪にみまわれ、やむなく、近くにあった家に一夜の宿を所望します。

とは言え・・・そこには、見た目にも貧しそうな夫婦・・・

しかし、主人は、嫌な顔一つせず、粟の飯を出してもてなしてくれました。

しかも、この冬空で、火にくべる薪(たきぎ)が無かった事から、大事にしていた梅・松・桜の鉢植えの木を切って暖をとらせてくれたのです。

そのもてなしに感動した僧が、主人に名を訪ねると
「私は、佐野常世(つねよ)という武士です」
と・・・

「一族の者に所領を奪われてしもて、今は、こうして落ちぶれてしまいましたけど、これでも、甲冑や長刀(なぎなた)や馬なんかは、いつでも使えるように、常に備えてますねん。

いざ!という時は、いの一番に鎌倉に馳せ参じて、敵陣に突っ込む覚悟でおます」
と、熱く語りました。

それからまもなくの事、鎌倉から諸国の武将に召集がかかった時、常世は、その言葉通りに鎌倉へと向かいます。

向かう途中、坂道で2度も倒れるような痩せ馬にまたがって駆けつけた常世・・・しかし、鎌倉で彼を迎えてくれたのは、誰あろう、あの時の僧・・・そう、その僧が、時頼だったのです。

時頼は常世の忠義を褒め、雪の日の親切に応えるべく、奪われていた旧領を与えただけでなく、火にくべてくれた梅・松・桜の木にちなんで加賀(石川県)の梅田、、上野の松井田越中(富山県)の桜井という3ヶ所の土地も与えたという事です。

・‥…━━━☆

と、まぁ、これは、創作満載の完全なる美談ですが、

他にも・・・
摂津難波(大阪市)で、たまたま知り合ったみすぼらしい尼さんと話すうち、その彼女の夫が治めていた土地が、夫の死とともに奪われてしまったものの、どこへも訴える事ができずにいる事を聞き、急ぎ、鎌倉に戻り、真相の追究にあたって、彼女の領地を回復したと・・・

こちらは、あの黄門様『大日本史』に、事実として語られていますので、やはり、そのような話が、複数残っていたものと思われます。

武士が、新たなる統治者=政治家として目覚めた鎌倉時代・・・そこには、時頼の特筆すべき功績があったのです。
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2012年3月22日 (木)

小牧長久手~岸和田城・攻防戦

 

天正十二年(1584年)3月22日、織田信雄徳川家康に呼応した雑賀・根来一揆衆和泉堺・大坂に進出をするも岸和田城主・中村一氏に撃退されました。

・・・・・・・・・

羽柴(豊臣)秀吉徳川家康の二大巨頭が、唯一直接対決した、ご存じ、小牧長久手の戦いですね。

時系列で並べますと・・・
前年の天正十一年(1583年)4月に賤ヶ岳の戦いに敗れた柴田勝家自刃(4月24日参照>>)
その翌月=5月に、今は亡き織田信長の次男=織田信雄(のぶお・のぶかつ)が、後継者を争っていた弟の神戸(かんべ・織田)信孝自刃に追い込み(5月2日参照>>)・・・

しかし、その信雄は、さらに強大になる秀吉の力を恐れて(3月6日参照>>)、同等の力を持つ家康を抱き込んで、秀吉に抵抗の姿勢を見せる・・・(3月12日参照>>)

で、それを警戒した秀吉が、先手必勝とばかりに天正十二年(1584年)3月、美濃・岐阜城主・池田恒興(信長の乳兄弟)を擁して、信雄配下の犬山城を攻撃(3月13日参照>>)・・・こうして、世に言う小牧長久手の戦いが勃発しました。

・・・と言っても、この時点では、秀吉は、まだ大坂城にいて、前線で戦っていたのは、その配下の諸将たち・・・

秀吉が、大坂を離れられない理由の一つが、かの家康が声をかけていた雑賀(さいが・さいか)根来(ねごろ)といった紀州(和歌山県)一揆勢力・・・1人1人は土豪(どごう=地元に根づいた半士半農の武士)に毛の生えたような彼らですが、集団となれば、戦国大名とも充分に戦える武装勢力となります。

「自分が大坂を留守にすれば、家康に呼応した彼らが、大阪に攻め込んでくるかも知れない」と警戒していた秀吉は、できるなら、自分は大坂に腰を据えたまま、この戦いを乗り切りたかったわけですが、残念ながら、犬山城奪取の4日後に起きた羽黒の戦いで、手痛い敗北を被ってしまいます(3月17日参照>>)

しかも、そこがウマイところなのですが・・・この時、家康は、使えるネットワークをフル活用して、この羽黒での勝利を大々的に宣伝して回って、何となく世間では「秀吉形勢不利」の印象をかもし出したのです。

今でもそうですが、「ネットで大人気!」「今月の売上第1位獲得!」なんて言われると、必要ない物にまで目がいってしまうのは人の常・・・こんな時に、そんな噂になれば、「家康有利」とみて寝返る者続出となるわけで・・・

そこで、秀吉は、自ら出陣して事態の打開をはかるわけ・・・で、その秀吉の大坂城出陣が天正十二年(1584年)3月21日だったのです。

Nakamurakazuuzi144 もちろん、すでに警戒している秀吉は、(和歌山方面)からの最前線とも言うべき岸和田城に、たのもしい男=中村一氏(かずうじ)を配置しております。

かくして天正十二年(1584年)3月22日、秀吉が大坂を発ったとの知らせを聞いた雑賀&根来の紀州一揆勢は、2万3000ばかりの兵力を2手に分け、一方は東の山際を通って堺へ向かい、一方が岸和田に押し寄せたのです。

この軍勢を目に留めた若い兵士たちが、「即座に迎え撃たん!」とばかりに岸和田城を撃って出るのを見て、侍大将の早川助右衛門川毛惣左衛門
「血気にはやるな!引き返せ!」
と、命令しますが、一氏は、それを阻止・・・

「こんな時、すすんで出ていった若者を戻そうなんて事したら、士気が下がって、勝つモンも負けてしまうっちゅーもんや!行くで!!!」
と、自らの甲冑を整えなおして、いざ出陣!!

これが、見事に功を奏しました・・・

先に出て奮戦する若武者たちが、ふと、振り返ると、そこには菅笠(すげがさ)の馬印(うまじるし=戦場で大将がいる場所を示す印…武将によってデザインが違い、一氏の場合は菅笠)・・・

「おぉ、殿が出馬なされた!」
「こら、勝ったも同然や!」

予想通り、彼らの士気は高まり、1万余りの紀州勢に向かって突入!!!・・・一揆勢は蜘蛛の子を散らすように敗走していきます。

その後、一氏が手勢の300ほどを従えて、堂の池なる場所に回り込み、敗走して来る敵を待ち構えていたところ、堺方面に煙が上がります。

「堺がヤラれたかも知れない」
「堺が落ちたなら、堺に向かった一揆勢が、こっちに来るかも・・・」
「新手の大軍が来たらヤバイぞ」
「城に籠って戦ったほうが得策なのでは?」
てな空気が漂いはじめますが、一氏は・・・

「いやいや、今、俺らが退いたら、最前線で戦ってるヤツらの士気が下がって、籠った城まで落とされるかも知れん。
一揆なんてモンは、所詮は烏合の衆・・・何百おろうが、最初のヤツらを切り崩したら、あとは、どないかなるもんや!
俺に任しとけ!」

と、実にたのもしい・・・

さらに、「そばに馬がいれば、ちょっとの苦戦で城に戻りたくなる」として、諸将たちの乗る馬を全部、城へ戻すよう指示して、来たる敵を待ち構えます。

やがて現われた軍勢に向かって、弓の名手として知られる新藤勘左衛門を筆頭に、まずは雨あられの如く矢を射かけます。

驚き戸惑い、矢に逃げ惑う敵軍・・・
そこを、頃合いを見計らって、
「かかれーー!!」
との号令・・・一氏もろとも、軍団は一気に戦場へと駆けだしました。

・・・と、そこへ、挟み撃ちの如く一揆勢の背後に迫る700ばかりの味方の軍勢・・・

それは、岸和田城が攻撃を受けている事を知り、当時、岸和田城にいた16歳の息子の事を心配して駆けつけた黒田官兵衛(孝高・如水)の軍勢でした。

「味方が来たゾ~!」
とばかりに、さらに士気が高まる一氏軍は、叫び声を挙げながら一気に突入し、またたく間に800あまりの首を取って一揆勢を撃退・・・この岸和田城の攻防戦に、見事、勝利したのでした。

ところで、官兵衛が心配した、当時、16歳の息子=ご存じ、黒田長政ですが・・・

息子の姿を求めて、戦場を駆け巡る官兵衛の目の前に、
黄羅紗の陣羽織に鹿毛の馬にまたがった長政は、なんと、その鞍の四方手(しおで=鞍の前後左右につける革でできた輪っか)に複数の首をぶら下げての登場・・・

息子の頼もしい姿に、官兵衛も一安心したとか・・・

なんか、一氏もカッコイイけど、長政もカッコイイぞ!

と、今日のところは、岸和田城の勝利という事で、雑賀&根来ファンの皆さま・・・ゴメンナサイo(_ _)oペコッ

雑賀&根来が得意のゲリラ的奮戦するところも、いずれまた、「その日」に書かせていただきたいと思いますので・・・お許しを

・・・おっとっと、忘れるところだった( ̄◆ ̄;)

一方の、家康は、この同じ日に、小牧山に土塁を構築・・・来たる秀吉に備えていますが、その小牧でのお話は、3月28日の【秀吉VS家康のにらみ合い~膠着・小牧の陣】でどうぞ>>

小牧長久手・関連ページ
3月6日:信雄の重臣殺害事件>>
3月12日:亀山城の戦い>>
3月13日:犬山城攻略戦>>
3月14日:峯城が開城>>
3月17日:羽黒の戦い>>
3月19日:松ヶ島城が開城>>
3月22日:岸和田城・攻防戦>>
3月28日:小牧の陣>>
4月9日:長久手の戦い>>
      鬼武蔵・森長可>>
      本多忠勝の後方支援>>
4月17日:九鬼嘉隆が参戦>>
5月頃~:美濃の乱>>
6月15日:蟹江城攻防戦>>
8月28日:末森城攻防戦>>
10月14日:鳥越城攻防戦>>
11月15日:和睦成立>>
11月23日:佐々成政のさらさら越え>>
翌年6月24日:阿尾城の戦い>>
 

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2012年3月21日 (水)

岡本大八事件と徳川のキリシタン禁止令

 

慶長十七年(1612年)3月21日、本多正純の家臣・岡本大八が火あぶりの刑に処せられ、徳川家康がキリシタンを禁止しました。

・・・・・・・・・・・

事の起こりは慶長十四年(1609年)・・・当時ポルトガル領だったマカオに寄港していた日本の朱印船に乗船していた水夫たちが、ポルトガル船の船員たちと酒場で口論となり、大ゲンカのあげく、50人ほどの水夫が殺害されるという事件が起こります。

この日本の朱印船は肥前(佐賀県・長崎県)日野江藩(ひのえはん・後の島原藩)の船だったのですが、そうとは知らない日本では、待てど暮らせと帰らぬ人たちを心配する妻子たちがおりました。

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入港する南蛮船(「南蛮図屏風」右隻(神戸市立博物館蔵)

やがて数カ月の後、1隻のポルトガル船が長崎に入って来ますが、ちょうどその頃、他の南蛮船の船員たちから、かの事件の話を耳にした日野江藩主の有馬晴信(ありまはるのぶ)・・・もちろん、この時に長崎に入って来たポルトガル船がその船で、例の事件に関与した船員も、何事も無かったかように、この船に乗っている事を確認します。

当然の事ながら、このままでは気持ちが修まりません。

早速、関東に使者を送って、幕府から公式の報復の許可を得て、かのポルトガル船を包囲・・・3日間に渡る猛攻撃を加えて、船を沈没させたのです。

この時、晴信の報復作戦の目付け役として付いていたのが、徳川家康の懐刀として知られる本多正純与力であった岡本大八(おかもとだいはち)でした。

・・・と、ここまでは良かったんですが、この報復作戦成功の後、この勝利に気をよくした家康が、「今は鍋島氏の領地となっているかつての領地を、恩賞として再び有馬に戻す用意がある」という事を、大八が晴信に告げるのです。

もちろん、それは晴信にとってウレシイ事・・・早速、大八に、その実現に向けてうまく手配してくれるようお頼みする事になるのですが、それはそこ、お願いするのに手ぶらというわけにはいきませんから、それ相当の金額を・・・

なんせ、大八の上司は、家康の信頼を一身に受けている正純ですから・・・彼の口ききで、事がうまく運ぶ事間違い無しですから・・・

が、しかし・・・この旧領回復の話は、まったくのウソ・・・大八の作り話だったのです。

・・・というより、今回の勝利に、あまりにゴキゲンな家康を見た大八が、おそらく、「恩賞として旧領を戻すんじゃないの?」と思ったので、それを勝手に言っちゃった・・・って感じ??

だけど、これで味をしめた大八・・・今度は朱印状を偽造して晴信に渡し、それと旧領回復の話コミで、またまた金銭を要求・・・

なんだかんだで晴信は、6000両もの大金を大八に渡してしまいますが、当の大八は、これをすべてポッポにナイナイ・・・自分の懐に入れてしまい、有馬の旧領回復の話を、上に挙げる事はありませんでした。

なので、当然の事ながら、いつまで経っても恩賞なんて貰えない・・・我慢しきてなくなった晴信は、直接、正純に会い、「旧領回復の話は、どないなってまんねん!」猛抗議!

これで初めて、正純は、大八がそんな話をしている事、それにつけ込んで金を貰っていたを知ったのです。

事は、公の場で審議される事になります。

驚いた家康の命を受けて、この事件の調査に乗り出したのは、当時、駿府町奉行だった彦坂光正(ひこさかみつまさ)・・・逮捕されて取り調べを受ける大八は、最初こそ「知らぬ存ぜぬ」とシラを切ってみたものの、もはや、逃れられない事を悟り、最後には覚悟を決めて、罪を認めるのですが・・・

そうなると、「晴信を道づれにしてやれ!」とばかりに、「あの報復作戦の最中、有馬は、“この戦いにケリがついたら、あの奉行のアホを殺ったる!”って言うてました。これって殺人予告ちゃいますのん?」と言いだしたのです。

この、奉行とは、当時、長崎奉行だった長谷川藤広(はせがわふじひろ)の事・・・

実は、あのポルトガル船を攻撃するに当たって、晴信は、自分の立てた作戦を「手ぬるい!」と言って批判した藤広と、現場で大いにモメた事があって、確かに、その時に、「アイツ…殺す!」口にした事があったのです。

結果、事は、さらに大きくなって、幕府の実力者=大久保長安(ながやす・ちょうあん)の屋敷にて、長安&正純立ち合いのもと、晴信&大八の直接対決となります。

そして、それぞれの言い分を直接聞いて下された判断は・・・

朱印状を偽造してワイロを受け取った大八は駿府市中引き回しのうえ火刑・・・一方の晴信は、ありもしない旧領回復に策を講じた罪と藤広の暗殺を計画した罪で、改易のうえ甲斐(山梨県)への流罪となりました。

こうして慶長十七年(1612年)3月21日大八は火あぶりの刑に処せられたのです。

・・・と、この日、同時に行われたキリシタンの禁止・・・実は、この大八と晴信の二人ともがキリシタンだったんですね。

そもそもは、この二人・・・お互いがキリシタンであった事で、日頃から親しく付き合っていて、それがあって、大八が、かのポルトガル船への報復作戦の目付け役となったような物・・・

ただ、それだけなら、家康も、ここまで急速にキリシタンへの対処はしなかったのかも知れませんが、どうやら、大八の手にした大金が、イエズス会に流れていた可能性があったのです。

もちろん、実際には藪の中で、真相はどうなのかは不明なのですが、一説には、この大八の一連の行動は、彼の単独ではなく、イエズス会が黒幕として動いていた・・・などとも言われているのです。

おそらく、そこに脅威を感じた家康が、取り調べの最中で、大八が多くのキリシタン仲間の名前を挙げた事を受けて、処刑の日と同じ3月21日名前の挙がっていた人たちを、追放や流罪の処分にしたものだと思われます。

ずいぶん前に書かせていただいたおたあジュリア(9月1日参照>>)も、この時に伊豆七島の神津島に流されています。

これが、徳川幕府による最初のキリシタン禁止令となりました。

そういう意味でも、この岡本大八事件は、大きな影響を与えた事件となったのです。
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2012年3月19日 (月)

大関メッキの開発者~隠れた名君・大関増業

 

弘化二年(1845年)3月19日、江戸時代後期、下野国黒羽藩の第11代藩主となり、藩政改革に尽力した大関増業が亡くなりました。

・・・・・・・・・・・・

大関増業(おおせきますなり)は、もともと伊予国(愛媛県)大洲(おおず)藩主・加藤泰衑(やすみち)の8男として生まれましたが、文化八年(1811年)に、下野国(しもつけ=栃木県)黒羽(くろばね)の第10代藩主・大関増陽(ますはる)養嗣子として大関家に迎え入れられます。

Oosekimasunari500 しかし、この養子縁組・・・
義父となる増陽が当時28歳で、息子となる増業が31歳という父子の年齢が逆転した変な養子縁組・・・

実は、この時の黒羽藩は、とんでもない財政難に陥って・・・いや、この時ではありません。

黒羽藩の財政難は、すでに第6代藩主・増恒(ますつね)の享保二年(1716年)頃から始まっていて、歴代藩主が必死のパッチで様々な策を講じるものの、いっこうに効果が無く、常に危機的状況の自転車操業・・・

にも関わらず、ここに来て10代藩主となった増陽が病弱でまともな政務を行えない・・・で、何とかならんか?と迎えたのが増業だったというワケです。

こうして藩主となった増業に求められた物は財政難解消に向けての藩政改革・・・それも、一刻も早く・・・

とるものもとりあえず、まずは、藩の収入について家臣に聞いてみると、「年貢米:2万俵、金銀:2000両だ」と言いますが、これが、「だいたいこんなもんかな?」というおおよその見当での算出・・・誰も、実際に調査した事が無い架空の数字だったのです。

あきれた増業が慌てて調査をすると、なんと実際の収入は、その半分以下だったとか・・・
「こんな根本的なとこから、やらなアカンのかい!」
なんだか、増業さんの叫びが聞こえて来そうですが・・・

かくして始まる増業の改革・・・

まずは、お馴染の倹約令を出してムダ使いをおさえたところで、高柳源左衛門などに代表される豪商から融資してもらい、産業開発に取り組みます。

(うるし)(こうぞ)お茶蕎麦煙草などの植林&栽培を促進したり、瀬戸から職人を招いて陶器の製造を開始したりするのですが、実は増業さん・・・本来の彼の好きな分野は政治経済ではなく化学だったんですね。

藩主になる前は、大好きな化学の研究に勤しんでいた彼は、その知識を思う存分活かし、それらの産業をただ、栽培したり促進したりするのではなく、自ら、その栽培方法を指導したり、陶器なら、その捻り方を考案したり窯の構造の指導をしたり・・・

織物に至っては、実際に綿羊を購入して飼育し、増業の考案した器械と織り方で、独自の毛織物を造り上げています。

しかし、こうした努力も、万人に受け入れられるとは限りません。

もともと、養子として入った増業には家内で味方してくれる家臣も少なく、しかも、こういった産業改革は即座に結果が出る物でもなく、その一方で資金作りのための豪商からの借金は見ている間に増えていくわけで・・・

結局、反発する保守派の家臣の声に押されて、増業は、わずか14年の在位期間を経て、先代=増陽の次男であった増儀(ますのり)藩主の座を譲り、隠居する事になってしまいました。

以後、この黒羽藩は、藩内の保守派家臣たちが実権を握り、家臣たちの要望により藩主が交代する(主君押込)という事をくり返しますが、財政が好転する事はありませんでした。

一方、増業は、江戸は箕輪の藩別邸で、茶道など風流を楽しみながらも、例の研究者としての気質も忘れる事無く・・・いや、むしろ、自由な身となって、研究に没頭できるほか、その成果を記録に残す事ができるようになり、ここで様々な著書を書き残しています。

たとえば・・・

「点茶の味わいは水質にある」として江戸中の水を集めて分析し、水の比重が天候によって異なる事をつきとめた『喫茗新語(きつめいしんご)

130種もの病気に対する治療法を明記した医学書『乗化亭奇方(じょうかていきほう)

甲冑の製法を、それを造る道具の作り方からニューデザインまでを丁寧に記した『練革私記(ねりかわしき)

さらに、紅染や紫染・茜染などの染色法金や亜鉛の鍍金(メッキ)の仕方を書いた『紅紫茜染方並金鍍秘伝(べにむらさきあかねそめがたならびにめっきひでん)
などなど・・・

また、自らの財政改革の方針&実践を記した『創垂可継(そうすいかけい)『支戈枢要(しかすうよう)など・・・

まさに、他方面にわたる研究成果をあますところなく記した増業さんですが・・・

イタチの最後っ屁じゃないですが、ちょっとだけ、自分を隠居に追いやった家臣たちへの仕返し?とも思えるオモシロイ行動を・・・

実は、その数ある著書の中で『練革私記』『紅紫茜染方並金鍍秘伝』の二つを、親交のあった信州(長野県)飯田藩の藩主・掘親寚(ほりちかしげ)に、「極秘だからね」念を押して伝授しているのです。

黒羽藩ではなく、他藩の藩主にです。

やっぱり、本当に大切な事は、大事な人にだけ伝えたいですからね~

やがて弘化二年(1845年)3月19日65歳でこの世を去った大関増業・・・

今では、伝授された彼だけでは無く、多くの人が目にする事になった数々の著書は、当時の医学や産業、政治を知る上で大変貴重な文献として高く評価され、増業自身も、大変な名君&研究者として評価されています。

増業さん、あなたの研究が多くの人に理解されて良かったですね・・・それこそ研究者の本望ですから。
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2012年3月18日 (日)

美人と言えば…伝説に彩られた小野小町

 

今日、3月18日は『小野忌』・・・あの小野小町の忌日とされています。

・・・・・・・・・・

日本では、クレオパトラ楊貴妃(ようきひ)(11月9日参照>>)と並んで、世界三大美女の1人に数えられる小野小町(おののこまち)・・・

といっても、実際には、史実よりも、伝説としてのお話の方が多い謎な方・・・今回の忌日というのも俳句の世界での話で、俳句の世界では小野小町の忌日を3月18日とし、『小野忌』は晩春の季語として使用されます。

しかし、生前の小野小町が過ごしたという伝説が残る京都隋心院では、11月28日が『小町忌』とされ、現在も法要やイベントなどが行われています。

このように、亡くなった日づけも曖昧なら、もちろん誕生日も曖昧・・・

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京都・隋心院に残る「小野小町・化粧井戸」
隋心院へのくわしい行き方は本家HP:
京都歴史散歩「六地蔵から日野・醍醐・小野へ…」でどうぞ>>(別窓で開きます)

一応、室町時代に成立した『尊卑分脈(そんぴぶんみゃく)「小野氏系図」では、嵯峨天皇の時代(809年823年)に活躍した学者蒹官僚小野篁(おのたかむら)(12月15日参照>>)の孫で、出羽国(山形県・秋田県)郡司(ぐんじ・こおりのつかさ=地方次官)であった小野良実(よしざね)の娘という事になってますが、この良実という人自体が、正史にはまったく出て来ない謎の人です。

なので、第54代仁明(にんみょう)天皇や、その次の文徳(もんとく)天皇の時代(833年~858年)の頃に宮仕えをしていた人であろうと言われますが、それ以上の事は、ほとんどわかっていません。

小野小町という呼び名に関しては、当時、天皇のおわす紫宸殿(ししんでん)が儀式を行う正殿であるのに対し、その北にある常寧殿(じょうねいでん)後宮いわゆる江戸時代の大奥みたいな場所だったので、そこを「后町(きさいまち)と呼んでいた事から、そこに務める更衣(女官)の事を、「后町に務める○○さん」という意味で「○○の町」と呼んでいた中、小町には姉がいて、その姉が「后町に務める小野さん」という意味で「小野の町」と呼ばれていた事から、その妹=小町と呼ばれていた・・・なんて言われてますね。

そんな彼女が、美人の代名詞=○○小町のおおもととなったり、秋田美人の代表格と言われるほどの有名人になるのは、やはり残された歌の数々と、そこに付け加えられている解説・・・

と、言っても、その歌の多くは後世に再選された流布本や異本に掲載されている物で、実際に、確実に小町の作とされる物は『古今和歌集』(4月18日参照>>)に収録された18首だけ・・・という事のようですが、

この『古今和歌集』の編者の一人である紀貫之(きのつらゆき)(12月21日参照>>)小町の歌を多く採用し、その序文で六歌仙(ろっかせん=歌のうまい6人の歌人)のうちの1人に名を挙げ、さらに「衣通姫のようだ」とか「なまめかしいイイ女だ」とかって彼女の事を褒めまくった事で、小町の美女伝説がスタートするという事なのです。

布通姫(そとおりひめ)とは、記紀に登場する第19代允恭(いんぎょう)天皇の皇后であった忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)の妹で、その肌の美しさが衣を通してもなお輝いていた事からその名で呼ばれた姫ですが、彼女の歌がわずかに1首しか残っていないところから、

「小町を布通姫に例えたのは、歌の比較ではなく、ガチ見ため!」っと考えられ、「やっぱ美人だったんだ~」てな事になってるわけです。

そんな美人が、なまめかしい歌を詠み、さらに、応答する歌や、彼女に贈ったとの注釈がつく歌を詠んだ面々が、なかなかのメンツである事が、さらに彼女の伝説に拍車をかけるわけです。

少し後の時代に、やはり有名人と浮き名を流した和泉式部(いずみしきぶ)(3月21日参照>>)なる女性と、少しキャラかぶりなとこもありますが、和泉式部が、生没年こそ不明なれど、比較的実生活が明らかなのに対し、小町は、そこも謎に包まれているぶん、多くの伝説の入る余地が生まれたのでしょう。

おかげで、和泉式部は「うかれ女」と言われ、小町は「恋多き美女」と・・・

そう、実は、小野小町と聞けば、なんとなくヤマトナデシコ的な、楚々した女性をイメージしますが、意外にも、彼女は、和泉式部バリの積極的な恋女なのですよ。

たとえば、遍昭(えんじょう)という僧には、自分から声をかけているのですが・・・

♪岩の上に 旅ねをすれば いと寒し
 苔の衣を われにかさなむ  ♪
(小町)

♪世を背(そむ)く 苔ぼ衣は 唯一重(ただひとえ)
 重ねばうとし いざふたり寝む ♪(遍昭)

遍昭と言えば、あの桓武天皇の孫で俗名は良岑宗貞(よしみねのむねさだ)・・・しかも、この時は出家して、僧の最高位である僧正(そうじょう)という位についてるお方・・・

そんな人に、ふと出向いたお寺でバッタリ会って・・・
「今夜、フトンを貸してね!」
と小町が言えば
「フトンは一つしか無いから、一緒に寝よか?」
と遍昭が答える・・・

ありゃま、大胆ですね~

とは言え、そんな美人の小町も、いつかは年齢を重ね、有名な
♪花の色は うつりにけりな いたずらに
 わが身世にふる ながめせし間に ♪

と、美人度の衰えを自らに感じているかのごとき歌を詠む事になり、

さらに、最後は、見るも無残なおちぶれ伝説・・・と、「あんだけ持ちあげといて、最後はコレかい!」と、今も昔も変わらぬスキャンダル好きな女性週刊誌のような伝説と化していくのですが・・・

と、まだまだ、彼女の人生の後半戦のお話を続けていきたいところではありますが、なんだかんだで長くなって参りましたので、そのお話は、2013年の3月18日【美人の代表…小野小町、伝説の後半生】のページでどうぞ>>m(_ _)m
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2012年3月16日 (金)

平家の圧勝~墨俣川の戦い

 

治承五年(1181年)3月16日、源平争乱の中で数少ない平家の大勝利となった戦い=墨俣川の合戦(洲股合戦)がありました。
(3月10日、あるいは3月11日とも言われますが、とりあえず、本日書かせていただく事にします)

・・・・・・・・・・・・・

ご存じの源平の争乱は、この前年の治承四年(1180年)の後半に大きな転換期を迎えます。

治承四年(1180年)4月9日に発せられた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)・・・(4月9日参照>>)

この以仁王自身が源頼政(みなもとのよりまさ)とともに挙兵した戦いは失敗に終わったものの(5月26日参照>>)、その令旨を受け取ったうちの二人=伊豆の源頼朝8月(8月17日参照>>)木曽(源)義仲9月(9月7日参照>>)と、相次いで挙兵したのです。

義仲の勢力は甲斐(山梨県)源氏を巻き込んで徐々に大きくなり、最初こそ弱かった頼朝も鎌倉に居を定め、再起をはかります(10月6日参照>>)

そんな時にぶつかったのが、あの富士川の合戦・・・(10月20日参照>>)

この戦いで、平家が、戦わずして撤退してしまった事で、東国の武将たちの中に「平家って大丈夫なん?」てな空気が漂いはじめ、風が源氏に吹き始めます。

この不穏な状況に対して、「今は天皇家を反目してる場合じゃない!」と感じた平清盛は、都を福原から京へと戻し(11月26日参照>>)、対立していた後白河法皇幽閉を解き、院政の再開を要請して、その承諾を得る事に成功・・・つまり、この源平の戦いにおいて、「平家が官軍」というお墨付きを、後白河法皇から得たわけです。

その直後に行われた12月の南都攻めで、東大寺興福寺などの反平家の仏教勢力を抑え込む事に成功しますが、仏を焼いた事で、寺院側からは「仏敵」と罵られる事になり、(12月28日参照>>)開けて治承五年(1181年)、清盛は病に倒れます。

南都攻めの直後だった事で、当然、「清盛は仏罰で体を焼かれた」なんて噂がまことしやかに囁かれる中の2月4日、「ただ一つの無念は兵衛佐(頼朝)の首を見れなかった事だ」なんていう言にも似た言葉を残して、清盛はこの世を去ります(2月4日参照>>)

そして翌・3月・・・平重衡(たいらのしげひら=清盛の5男)(3月10日参照>>)を総大将に、3万の軍を率いて、平家は東国へと進撃するのです。

そう、これは亡き清盛の弔い合戦・・・

これを迎え撃つ源氏側は、源行家(みなもとのゆきいえ)が率いる6000・・・

この行家という人は、源為義(ためよし)の十男・・・つまり、頼朝の父=義朝の弟で、かの以仁王の令旨を全国の源氏勢力に届けて回り、挙兵を即した人で、その後も、頼朝配下というよりは、つかず離れず、何かチャンスがあれば独立しようと企てる野心満々の策士でもあります。

かくして治承五年(1181年)3月16日、両者は尾張(愛知県西部)美濃(岐阜県)の国境付近を流れる墨俣川(すのまたがわ)の両岸に陣を敷き、対峙したのです。

・・・と、ここで、夜陰にまぎれて渡河し、一番乗りを狙う源氏の武将が・・・

それは、この合戦に2000の兵を率いて参戦していた義円(ぎえん)・・・彼は源義朝を父に常盤御前を母に持つ頼朝の異母弟=あの源義経のすぐうえのお兄さんで、常盤御前が清盛のもとに自首した時(1月17日参照>>)に連れていた3人の男の子のうちの真ん中乙若(おとわか)です。

闇にまぎれての奇襲作戦は一か八か・・・成功すれば無勢でも大きな成果となりますが、そのぶん失敗する確率も大・・・

残念ながら、今回の義円は、渡河した直後に平家側に発見され、またたく間に包囲され、2000の兵は壊滅状態・・・義円も討たれてしまいました。

これで、焦ったのが本隊の行家・・・いや、もちろん、彼の心の内は本人に聞いてみないとわかりませんが、たぶん、焦ったのでしょう。

なんせ、彼は、事あるごとに独立を企む・・・つまり、トップor中心に立ちたい性格と思われ、援軍である義円の軍に抜け駆けされた事は、そのプライドが許さぬはず・・・

現に、このあと、行家は、相手が渡河して来るのを待てずに、全軍を渡河させて決戦に挑んでしまうのです。

川を挟んだ決戦の場合、相手が川を渡って来るのを待って、川辺で迎え撃つほうが、圧倒的に有利です。

後の戦国時代でも、あの武田信玄上杉謙信が、川中島で何度も対峙しておきながら、まともにぶつかったのが第4次の1回くらいというのも、お互い、どちらが川を越えるかの探り合いだったからで、「勝算がなければ、川を渡らない」というのが鉄則なわけです。

その勝算というのが、一つには相手の不意を突く奇襲であり、もう一つの正攻法では渡る側が大量の兵力を持っている事・・・一般的には、相手の5倍以上の兵力が必要だなんて言われてます。

しかし、この時の行家は、逆に、平家の5分の1の兵力しか持っておらず、奇襲はすでに義円がやってしまって、相手にバレています。

素人の私でも知っているのですから、プロの行家たるもの、そんな事はとうにお見通しのはず・・・にも関わらず渡河作戦を決行します。
(なので、焦っていたのではないかと…(゚ー゚;)

Sunomataheikemonogatariema
「平家物語絵巻」洲股合戦のこと(部分・林原美術館蔵)

川に入った行家軍は、激しい流れに足を取られ、あちこちに身動きが取れない者が続出・・・そこに、対岸からは、雨のように矢が撃ち込まれます

必死のパッチで何とか対岸にたどり着いた者も、もはや馬も兵も疲れ果て、まともに戦う事なんてできません。

あれよあれよという間に、全軍が壊滅状態となり、多くの源氏の勇将が討ち取られてしまいました。

結果は、平家の圧勝・・・ただし、行家自身は、うまく戦場を逃れていますが・・・

その後は、平家も少しは追撃しますが、頼朝率いる源氏本隊の出撃の噂もあり、あまり深追いする事なく撤退しました。

こうして、清盛亡き後の面目を保った平家・・・しかし、北陸では間もなく、あの義仲が、怒涛のごとき進撃を開始するのです。

北陸での戦いは6月14日:横田河原の合戦でどうぞ>>
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2012年3月15日 (木)

千年の思いを込めて創建された平安神宮

 

明治二十八年(1895年)3月15日、平安遷都1100年を記念して、京都・岡崎で開催された第4回内国勧業博覧会にともない、平安神宮が創建されました。

・・・・・・・・・・

第50代桓武天皇の平安京遷都以来、明治維新に至るまで、約1000年の都であった京都・・・

もちろん、正式な詔(みことのり)が出ていない事もあって、今でも都は京都にあり、天皇さんは東京に行幸してはるだけ・・・なんて考え方もありますが、やはり、明治維新とともに首都機能が東京に移転し、現在の首都は東京というのが一般的です。

それは、当時の京都の人たちも、実は重々承知・・・「正式には何も言われて無いやん!」と言ってはみるものの、現実として、すべてが東京に移り、なんとなく見捨てられた感がぬぐえず・・・

落ち込む気持ちに反して、「ならば、博覧会を誘致して、この京都を盛り上げよう!」となったのが、明治二十八年(1895年)4月1日開幕した第4回内国勧業博覧会だったのです(4月1日参照>>)

場所は、当時は京都の郊外で、未だ多くの空き地が残っていた岡崎周辺・・・その年が、ちょうど平安遷都から1100年という節目の年になる事から、博覧会は準備段階から大いに盛り上がり、開催2ヶ月前の2月1日には、メイン会場へお客さんを運ぶための日本初の路面電車も開通しました(2月1日参照>>)

その博覧会のシンボル的目玉メインパビリオンとして建てられたのが、明治二十八年(1895年)3月15日創建の平安神宮・・・大阪万博で言うところの太陽の塔???

とは言え、太陽の塔が万博のシンボル&記念碑として残されているのとは違い、この平安神宮は、今現在も、博覧会というよりは京都の町そのもののシンボル的存在として、あり続けているのです。

それは、博覧会の開催後に、平安京への遷都を行った桓武天皇を祭神としてお祀りし、その後、昭和十五年(1940年)には、事実上平安京最後の天皇となった孝明天皇を祭神に加え、さらに、都を東西南北から守る四神相応(しじんそうおう)(2007年10月22日参照>>)の思想を受け継いでいるから・・・つまり、今も平安京を守り続けているわけですね。

Dscf1080pa600 さらに、建物も魅力的です。

歴史的建築物の多い京都では、比較的新しい建物ではありますが、手前にある応天門は、平安京の時代にあった應天門を、8分の5のサイズで忠実に再現した物・・・

社殿は、まさに当時、日本の中心だった大内裏の正庁である朝堂院の正殿=大極殿を、やはり8分の5のサイズで模しているのです。

それは、左右に蒼龍楼と白虎楼が連なる圧倒的なな風景・・・

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そうなんです。

千年の都=平安京と言えど、「あの応仁の乱で焼け残ったのは、千本釈迦堂(大報恩寺)だけ」と言われるくらい、すべての物を戦火で焼き尽くし、さらに続く戦国時代・・・その後半になって天下を取った豊臣秀吉によって、やっと現在のような京都の町が整備された(6月25日参照>>)のですから、今となっては、平安時代のソレを垣間見る事のできる建物は皆無なわけです。

そんな中で、ここは、まるで1200年前の平安京にタイムスリップしたかを思わせてくれる空間なのです。

修学旅行でも観光でも・・・年間を通じてたくさんの方が訪れる平安神宮・・・それは、そこに、あの平安時代の面影を求める事ができるからなのですね。

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本殿を取り囲むように裏に続く神苑も、四季折々の美しさを見せる美しい庭・・・というよりは、平安京の古の国風文化を意識した物で、池を鏡・・・それも自分を映す鏡に見立てて、自分自身を見つめ直し、心落ち着ける場所という神聖な思いが込められたお庭なのです。

訪れた人が心安らかに・・・それこそが平安・・・

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平安神宮・神苑のくわしい事については本家HP:京都歴史散歩「平安神宮」でどうぞ>>(別窓で開きます)
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2012年3月13日 (火)

長宗我部元親、最後の手紙

 

慶長四年(1599年)閏3月13日付けで書かれたと思われる長宗我部元親の書状があります。

・・・・・・・・・

ご存じ、土佐の出来人長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・

元親が亡くなったのは慶長四年(1599年)5月19日なので、この手紙はわずか2カ月前・・・結果的に、これが元親最後の手紙という事になります。

・・・といっても、実は、この手紙自身には、日づけも宛名もありません。

ただ、この手紙と同文の物が『金地(こんち)文書』『土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)なる古文書に収められていて、その日づけが両方ともに慶長四年(1599年)閏3月13日である事から、この現物も同じ時に書かれた物と考えられています。

宛名は『金地文書』では筒屋金地十兵衛(つつやこんちじゅうべえ)という鉄砲鍛冶屋で、『土佐国蠧簡集』では春田五郎兵衛(はるたごろべえ)という香美(かみ)郡岩村の住人・・・この五郎兵衛さんは、いわゆる一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる春田一族の人であろうと言われています。

一領具足とは、土佐の地に根づいた半農の武士の事で、関ヶ原の後に長宗我部が土佐を没収されても、まだ、抵抗をしたという地元の人たちですね(くわしくは12月5日浦戸一揆参照>>)

なので、おそらく、現存するこの元親最後の書状も、そういった地元に根付いた武士か鍛冶屋の誰かに出した物と推測できます。

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長宗我部元親・書状(高知県立歴史民俗資料館蔵)

・・・で、気になる内容は・・・

「種子島筒(たねがしまづつ)の儀…」
つまり、鉄砲に関しての事が書かれています。

(鉄砲の)製造に関しては、ウチの者なら、どないでも自由にやってもろてええねんけど、他の国の者の製造は、一切禁止やからな。

もし、どっかから発注があるようやったら、必ず上の者に報告する事・・・

万が一、内緒で製造して他国の者に売るような事したら、即刻、討ち首にするからな」
てな感じですね。

ご存じのように、日本に鉄砲が伝来したのは天文十二年(1543年)8月25日(2006年8月25日参照>>)・・・
異説もあります→2009年8月25日参照>>)

それから、またたく間に全国に普及していったわけですが、長宗我部ももちろん、他者に遅れをとる事なく、最新兵器に喰いつきます。

とは言え、最初の使用となるとよくわからないのですが、天文十六年(1547年)の長岡大津城の攻防戦で使用した事が記録に残っているそうなので、少なくとも、その頃には・・・

伝来から、わずか4年かと思うと、いかに猛スピードで普及していったかがうかがえます。

もちろん、元親自身は、まだ初陣も済ませていませんので(初陣は永禄三年(1560年)>>)、お父さんの長宗我部国親(くにちか)が使った・・・という事になるわけですが、

最初の頃は、紀伊(和歌山県)根来(ねごろ)などに注文していた元親も、やがては、鉄砲を国内で生産するようになり、阿波(あわ)の平定(9月21日参照>>)や、讃岐(さぬき)の平定(4月22日参照>>)鉄砲を使用して大きな成果を挙げています。

とは言え、ご存じのように、四国を統一(10月19日参照>>)するも、つかの間で羽柴(豊臣)秀吉の配下となり(7月25日参照>>)、さらに天正十四年(1586年)12月12日戸次(へつぎ)川の戦いにて、息子・信親(のぶちか)を失ってからという物、元親は人が変わってしまったと言われます(12月12日参照>>)

反対した一族や家臣団を死に追いやってまで、強引に四男・盛親(もりちか)後継者に指名したり、家臣の志和勘助(しわかんすけ)が阿波の蜂須賀家政(はちすかいえまさ)からのヘッドハンティングを断ったにも関わらず、ヘッドハンティングの話があったという事だけで寝返りと決めつけて殺してしまったり・・・

しかし、その後継者となった盛親は、後の大坂夏の陣で徳川方に生け捕りにされ、二条城の大木に縛りつけられた時、
「命惜しさ生け捕りにされるとは・・・あの世のオヤジさんも、ゆっくり眠れんなぁ」
と、からかった敵方の兵士に、
「ああ、命は惜しいで!
今の俺に、命と右手さえあったら、家康にひと泡吹かせたる!」

と言ったとか・・・

元親の父の国親も、その死を前にして
「ワシへの供養は、本山を討つ事以外にはないと思え!」
という遺言を残しています。

父にも息子にも共通する「最後まであきらめない」という気質・・・おそらく元親さんも持っていた事でしょう。

この最後の手紙は、国防上の理由から鉄砲の流出を避けようという業務命令のような物なので、ここから、その心の内を垣間見る事はできませんが、もう少し・・・もう少しだけ、元親に時間があれば、息子の死を乗り越えて、再び、夢追いかける熱き姿が見られたのかも知れませんね。
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2012年3月12日 (月)

半ドンの日~号砲1発!大阪城の大砲

 

明治九年(1876年)3月12日、この日から、日曜日の休日と土曜日の半休が、官公庁で実施された事から、3月12日「サンデーホリデーの日」「半ドンの日」という記念日なのだそうです。

・・・・・・・・・・・・

ご存じのように、それまでは旧暦=陰暦を採用していた日本・・・

明治元年(1868年)9月には、
「31日を除く1と6のつく日を休日」
と、太政官布告されていましたが、やっぱり、どうやっても、欧米との交易&交流するにあたって、公私ともに不便を感じた事で、明治五年(1872年)に太陽暦を採用したわけです(11月9日参照>>)

その後、
「休日も欧米と同じ仕組みに・・・」
という事で、明治九年(1876年)3月12日から、官公庁にて日曜日の休日と土曜日の半休が実施されたのです。

もともと、明治四年(1871年)から、皇居で毎日正午に大砲(午砲=通称:ドン)を撃っていた事から、この大砲の音が、土曜日の就業終わり=半休の合図となり、そこから、一日の半分が休みになる事を「半ドン」と言うようになったのだとか・・・

.。.。..。.。..。..。..。..。.

注:半ドンの語源には異説あり
オランダ語で日曜日を意味するzondag=ゾンタークが訛って「ドンタク」となり、土曜日は半分が休日であることから「半分ドンタク」を略して「半ドン」となったとする説、
「半分休みの土曜日」が縮まって「半土」から「半ドン」になったという説もあります。

.。.。..。.。..。..。..。..。.

もはや週休2日制も定着した今となっては、「半ドン」という言葉も、死語になりつつあるのかも知れませんが、大阪生まれ大阪育ちの茶々としては、ここで、ひと言・・・
というより、東京の事はあまりわからないので、得意な大阪城のお話(*´v゚*)ゞ

そう、実は、この号砲に関しては、東京より大阪にほうがちょっぴり早い・・・

大阪では、明治三年(1870年)から、朝・昼・夜の一日3回、時を知らせる=時報としての空砲が鳴らされていたのです。

それが、大阪城に行かれた方が、皆、天守閣に入る時に目にする、入口の右側にある、あの大砲です。
(現在の位置=天守閣の大門の横に設置されたのは平成になってからです)

現在は大阪市の指定文化財となっています。

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大阪城天守閣横の号砲

全長348cm、砲口の内径20cm、外径40cm、先込め式の旧式砲で、材質は青銅製です。

幕末に、大坂に入ってきた外国船を迎撃するために、天保山の砲台に設置された物で、文久三年(1863年)に、美作(みまさか=岡山県)津山藩の鋳工・百済清次郎(くだらせいじろう)が制作した物・・・

それが、明治維新を機に、大阪城内に移されて来ていたのを、一日3回「ドーーーン!」とやってたわけですが・・・

実は、これが、ものスゴイ音だったそうで、音にビックリしてひっくり返る人が続出・・・

まぁ、考えようによっちゃぁ、それだけ平和になったって事ですね。

なんせ、ちょっと前までは、それでドンパチやってるのが日常だったわけですから・・・

とにもかくにも、
「音が凄すぎる」の苦情が殺到したために、明治七年(1874年)からは、お昼の1回のみ号砲を鳴らす事に・・・

とりあえず、今も昔もクレーマー比率の高い大阪庶民も、「昼だけくらいやったら・・・」と納得したのでしょう、それからは「お昼のドン」「お城のドン」と呼ばれて、市民に親しまれたそうですが、

いつしか、そのお昼の1発もなくなってしまいました。

その時期も、廃止の理由も、今となってははっきりしませんが、時期は大正二年~三年(1923年~24年)頃、その理由は、単に火薬の節約ではないか?と言われています。

まぁ、時計の普及率なんかの影響もあったかも知れませんね。

もはや「半ドン」の言葉とともに、ひとときの眠りについた幕末の大砲・・・

どんな音だったのか・・・
「1度聞いてみたい」
なんて、思うのは、
動乱の幕末維新を生きた人たちから見たら
「平和ボケしたバカな発言」
なんでしょうが、やっぱ、聞いてみたい!
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2012年3月11日 (日)

天目山…武田勝頼の最期

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川の両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに甲斐・天目山にて自害しました。

・・・・・・・・・・・

武田勝頼自害と武田の滅亡・・・いわゆる天目山の戦いに関して、すでに何度か書かせていただいていますページを時系列で並べますと・・・

まずは、滅亡へのカウントダウンが始まったのが、武田信玄亡きあとに勝頼が奪取した高天神城(5月12日参照>>)を、徳川家康に奪い返されたのが天正九年(1581年)3月・・・(3月22日参照>>)

その後、武田の勢いに陰りが見えた事で、次々と離反者が出て、やがて、翌・天正十年(1582年)1月には、勝頼の妹・真理姫の夫である木曽義昌(きそよしまさ)織田信長に寝返り、続く2月には、依田信蕃(よだのぶしげ)田中城を開城し、家康に降ります(2月20日参照>>)

さらに3月1日には、同族の穴山梅雪(あなやまばいせつ・信君)も・・・(3月1日参照>>)

そして、離反者相次ぐ中でも最後の最後まで勝頼に味方した勝頼の異母弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)が命がけの高遠城攻防戦を演じたのが3月2日・・・(3月2日参照>>)

やがて勝頼は、父・信玄以来の重臣だった小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼って、その居城である岩殿山城(山梨県大月市)に向かいますが、城に近い笹子峠にて矢玉が射掛けられた事で、信茂までが、織田・徳川に降った事を悟った勝頼らは、最後は50人ほどとなって、死に場所を求めて天目山へ・・・

そして、わずか5年間の夫婦生活だったにも関わらず、夫とともに死ぬ事を選んだ妻=北条夫人・桂林院(2010年3月11日参照>>)の自害を見届けた後、勝頼自身も天目山にて自刃(2008年3月11日参照>>)したのが天正十年(1582年)3月11日・・・

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天目山勝頼討死図(歌川国綱)

というのが、定説となっています。

これは、武田の一級史料である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の記述をもとにした物ですが、一方では、その『甲陽軍鑑』にも、誤りとおぼしき記述もあり、異説がある事も確かです。

今日は、そんな異説の一つである『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)の中の、勝頼の最期を・・・

・‥…━━━

死に場所を求めて天目山へと向かった勝頼一行をさらに追い詰めるように、各地で一揆が起こります。

そこで、ともに連れだっていた女性たちを、近くの百姓の家の中へと入れ、出入り口を塞いでから、周辺の家よりかき集めた(かや)を積み上げて、そこに火を放ちました。

その後、小高い丘の上に上って、武田家先祖伝来の源義光(みなもとのよしみつ=八幡太郎義家の弟)『小桜葦威鎧(こざくらあしおどしよろい)=別名『盾無鎧(たてなしのよろい)(楯が無くてもやりや刀を通さないと言われる)を、嫡子である信勝(のぶかつ)に身につけさせました。

この時、肩入れの役(鎧を着せかける役)を務めたのは、この最後の戦いで「片手千人斬り」の武勇を誇った土屋昌恒(まさつね)・・・

そうしておいて、勝頼は、今まさに攻め寄せようとする一揆勢に立ち向かおうと、長刀をかざしますが、その様子を見た昌恒が・・・

「御屋形様は、新羅三郎(しんらさぶろう)源義光から数えて28代めの弓矢の家をお継ぎになられたお方・・・
例え、どんなに窮地に立ちましょうとも、一揆勢なんかに御首を渡す事なんて、くやしいです!」

と、涙ながらに訴えると、

勝頼は
「もっともや・・・わかった」
と鎧を脱ぎ、昌恒に介錯をさせて、その命を終えました。

それを見て、その場にいた息子や従者たちが次々と刺し違えて勝頼に殉じ、それら全員の最期を見届けてから、昌恒も、自ら自刃した、と・・・

・‥…━━━

『常山紀談』の筆者である湯浅常山(ゆあさじょうざん)は、自ら、地元の人々の言い伝えを調べて、この話を記しているので、
「勝頼が斬り死にしたと書いてある『甲陽軍鑑』は後の人に誤って伝わったのだろう」
と高らかに、「こっちが正しい」宣言をしちゃってますが、

一方で、同じ『常山紀談』に、ぜんぜん違う話も書いています。

それによると、

伊東伊右衛門(いえもん)という者が、天目山に落ちて行こうとしていた落人たちの一団に攻め入り、ある武将の首を討ち取りますが、それが誰かわからず、そのへんの溝に捨ててしまっていたところ、その溝の前を通る百姓たちが、皆、平伏して、礼をしながら通って行く・・・

「なんで、そんな事するんや?」
と、問いただすと
「溝の中に御屋形様の首がございます」

って事で、その首が勝頼の物だという事がわかったと・・・

って事で、結局は、
討たれたのか?切腹したのか?
斬られたのか?介錯されたのか?

そもそもは、百姓たちが勝頼の顔を認識できるほど、見る機会があったのか?というところも微妙ですが、おそらく影武者もいただろうし、敵方の中で勝頼を見た事がある人がいるのかも怪しいですしね。

まぁ、今日のところは、
「そんな説もある」という事でお許しをm(_ _)m・・・

この後の出来事としては、信長による戦後の論功行賞と新領地への訓令発布(3月24日参照>>)、武田ゆかりの寺=恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)があります。
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2012年3月 9日 (金)

大坂夏の陣の激戦地=道明寺天満宮の梅が満開

 

昨日はチョイとおでかけをしておりました。

道明寺天満宮を起点に、大坂の陣・道明寺合戦の古戦場を散策・・・

とかく、豊臣秀頼淀殿自刃や大坂城の炎上真田幸村(信繁)討死などに注目が集まる大坂夏の陣ですが、このブログでも度々書かせていただいている通り、この道明寺周辺をはじめ、若江八尾など、複数の野外戦も行われていたわけで・・・

 

★参照
 ・道明寺・誉田の戦い
  【後藤又兵衛基次・起死回生の大坂夏の陣】
  【奮戦!薄田隼人~IN夏の陣】
 ・若江の戦い
  【若江に散った四天王=木村重成】
 ・大坂夏の陣・八尾の戦い
  【夏の陣・八尾の戦い~ちょっとイイ話】

とは言え、昨日の今日で、内容をまとめるなんて事は、とてもとても・・・一朝一夕というわけにはいかないので、細かな事は、おいおい、おりにふれて、それこそ、大坂夏の陣のお話をさせていただく時に、随所に散りばめさせていただくとして・・・

本日は、せっかく、梅の盛りの季節に訪問させていただいた、その現地視察の起点の場所=道明寺天満宮のお話と梅園の写真の数々をupさせていただきます。

Dscf0882pa1100 道明寺天満宮・梅園(パノラマ撮影)

・・・と、「今が盛り」と書かせていただきましたが、実は、昨日はまだ7分咲き・・・

しかし、天満宮の禰宜(ねぎ)南坊城光興さんのお話によりますと、梅は…特に、梅園や梅林というような、梅が複数ある場合は、満開より7分咲きが、一番の見ごろなのだそうです。

というのは、梅が複数ある場合、大半が満開になると、逆に、その中で早く咲いた梅は、すでに盛りを終えた感じになってる事が多い・・・

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でも、梅は、つぼみも楽しむ花なので、大半が、まだつぼみをつけている7分咲きで、その中で一部早く咲いた物が満開になってるという段階が一番美しいのだとか・・・

昨日は、ちょうど、その段階で、見事な梅園を拝見させていただきました~

天満宮は、ご存じ、学問の神様=菅原道真公をお祀りする神社ですが、この道明寺天満宮は、全国に数多くある天満宮の中で、唯一、生前の道真公にゆかりのある場所です。

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道真公が、政争に敗れて(無実と言われます)(1月25日参照>>)大宰府に左遷となり、かの地で死亡・・・その恨みが怨霊となって災いをもたらした事から(6月26日参照>>)大宰府天満宮や北野天満宮など、道真公ゆかりの地に天満宮が建立される事になりますが、この道明寺天満宮は、その前身を土師(はじ)神社と言い、もともと土師氏の氏神様だったわけです。

・・・で、この土師氏というのが道真公の属する一族・・・

もともとあの垂仁天皇の時代に、日本初の相撲の死合(しあい)(7月7日参照>>)当麻蹶速(たいまのけはや)に勝利した野見宿禰(のみのすくね)が、その褒美に、この道明寺一帯を領地としてもらい請け、土師氏を名乗ってはにわ制作を担当する一族となりますが、その土師氏が、のちに菅原に改姓し、道真公に至るというわけです。

天満宮の近くにある道明寺も、もとは土師寺と称した土師氏の寺で、寺と神社は一体の物でしたが、ご存じの神仏分離で別れ、コチラも現在は道明寺という名前になっているのです。

大好きな叔母様がいた場所でもあり、度々、この地を訪れていた道真公・・・天満宮には、道真公ご愛用の硯など、宝物も数多くありますので、機会がありましたら、せひ、訪れてみてください。

もちろん、梅園に広がる約800本の梅も、まだまだ見頃で、この日曜日=3月11日までは「梅まつり」も開催していますヨ。
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2012年3月 7日 (水)

隠岐へ…後醍醐天皇と児島高徳

 

元弘二年(1332年)3月7日、鎌倉幕府との交戦に敗れた後醍醐天皇が隠岐へ流されました。

・・・・・・・・・・

鎌倉幕府を倒すべく、何度も挑戦した第96代後醍醐(ごだいご)天皇・・・

正中元年(1324年)の正中の変(9月19日参照>>)では、事前に計画がバレた事で事無きを得た後醍醐天皇でしたが、その後、楠木正成(くすのきまさしげ)という強い味方を得た元弘元年(1331年)、再びの討幕計画を立てます(8月27日参照>>)

これが元弘の変・・・

ご存じ!正成が赤坂城にて幕府を翻弄する痛快な戦いを演じてくれるわけですが、悲しいかな多勢に無勢・・・なんたって幕府が相手ですからね。

しかも、この戦いの最中に肝心の後醍醐天皇が幕府側に捕らわれてしまった(9月28日参照>>)事で、やむなく正成は、元弘元年(1331年)10月21日赤坂城に火をかけ、自らを死んだと見せかけて、金剛山の奥へと脱出したのです(10月21日参照>>)

こうして終わった元弘の変・・・捕虜となった天皇方の要人は、ことごとく厳しい処分となりますが、張本人である後醍醐天皇にも、「隠岐(おき=島根県)への流罪」という処分が下される事になりました。

この時、(中国)から来日していた俊明極(しゅんみんき)なる禅僧が、後醍醐天皇の顔を見て、
「あなたは2度帝位につくだろう」
と予言し、天皇は、かたくなに出家を拒否したのだとか・・・

かくして元弘二年(1332年)3月7日後醍醐天皇は隠岐へと発ったのです。

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後醍醐天皇の配流ルート

お供の公家2人に、身の回りの世話をする女官が1人・・・この3名以外は、甲冑に身を固め、弓矢を装備した警固の武士たちが総勢500余騎、先頭を行くは千葉貞胤(ちばさだたね)小山秀朝(おやまひでとも)佐々木道誉(どうよ)などなど・・・

後醍醐天皇を乗せた車が、七条通を西へ行き、東洞院通を南に曲がれば、天皇を見送ろうと集まった京中の老若男女が
「一天の主である天皇様を、臣下の者が流罪にするやなんて!」
「言語道断!!そのうち運も尽きるて」

と、口々に幕府批判を囁いたのだとか・・・

やがて桜井の宿(大阪府三島郡)を通過する時には、一旦、輿を下に下ろして、遠くに見える石清水八幡宮を拝礼し、後醍醐天皇は、再び、京都に戻って来る事を願ったと言います。

湊川(みなとがわ=神戸市)を通る際には、かつての福原京を思い起こし須磨(すま)の海岸では、源氏物語の光源氏に思いを馳せ・・・

と、後醍醐天皇の行列の行く先の備前(びぜん=岡山県東南部)の国に児島高徳(こじまたかのり)なる武将がおりました。

彼は、後醍醐天皇が笠置(かさぎ)で挙兵したとのニュースを聞いて、それを救援すべく、自らも挙兵しましたが、間に合わず・・・正成討死の一報(実は誤報)を聞いて落胆していたところでしたが、

ここに来て、自らのそばを後醍醐天皇の行列が通ると聞いて、仲間を集めて天皇奪回計画を立てていたのでした。

ところが、直前で、幕府側がルートを変更してしまったために、計画は挫折・・・

とは言え、なんとか、その熱き思いを後醍醐天皇に伝えたいと思い、百姓姿に身を変えて、天皇がお泊りになっている宿の周辺をウロつきます。

「何とか、そのお顔だけでも拝顔できたら・・・」
と、心ははやるものの、警固が厳しくて、なかなか近づけません。

しかたなく、高徳は、宿の庭にあった桜の木の幹を削って、大きな文字で1句書きつけのです。

♪天莫空勾銭 時非無范蠡♪
「天勾銭(てんこうせん)を空(むな)しうすること莫(なか)
時に范蠡
(はんれい)無きにしもあらず」

翌朝、警固の武士たちは、桜の幹に書かれた詩句を見つけて
「これは何だ?」
「誰が書いたんだ?」

と、ちょっとした騒ぎとなりますが、誰もその句の意味がわからないため、大した問題にもならず、後醍醐天皇への事情聴取もありませんでした。

しかし、その噂を聞いた後醍醐天皇だけは、その歌の意味を悟り、
『龍顔(りょうがん)(こと)に御快(おんこころよ)く笑(え)ませ給え…太平記より心からうれしそうな笑みを浮かべられた・・・と、

この句の意味は・・・
その昔、戦いに敗れて捕虜となった越王勾銭(えつおうこうせん)が、後に忠臣の范蠡の進言に従って戦い、呉(ご)を倒す事ができたという中国の『史記』にある逸話に後醍醐天皇をなぞらえた物で、

「天よ、どうか勾銭(=後醍醐天皇)を見捨てんといてください!
ひょっとしたら、そのうち范蠡
(=高徳自身?)のような忠臣が現われるかも知れませんからね」
という事だったのです。

こうして旅をするうち、やがて天皇は出雲(島根県)三尾(美保)の港に到着・・・ここに10日間ほど滞在した後、軍船300余艘に護衛され、はるか隠岐へと北上して行ったのでした。

現在、高徳が詩句を刻んだ桜があったとされる場所には、作楽神社(さくらじんじゃ=岡山県津山市神戸)が建立されています。

また、この時、後醍醐天皇が行かれた道筋には、本来なら、天皇のような身分の人とはふれあうはずもなかった庶民たちが、流人という身分なればこそ、後醍醐天皇と親しく交流したという逸話が、各地に数多く残ります。

Daigozakura600kuri 岡山県真庭市落合という所にあるこの桜の木も、その一つ・・・

配流の際に、この桜を見て、後醍醐天皇が絶賛したとして「醍醐桜」という名がついた桜で樹齢1000年との事・・・もちろん、岡山県の天然記念物に指定されています。
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2012年3月 6日 (火)

壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦

 

延元二年・建武四年(1337年)3月6日、新田義貞率いる南朝方の籠る越前金崎城が落城・・・恒良親王が生け捕りにされ、尊良親王が自害しました。

・・・・・・・・・

越前(福井県)金崎(かねがさき)の戦いと言えば・・・
戦国好きなら、浅井・朝倉の挟み撃ちを恐れた織田信長が、決死の撤退を試みる『金ヶ崎の退き口』(4月27日参照>>)で有名な手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)を思い出しますが、本日の話題は、南北朝時代の金崎の戦い・・・(太平記の表記では「ヶ」の文字は入りません)

舞台となった金崎城は、平安末期に平家一門の平通盛(たいらのみちもり)が、北陸から京を目指して攻め上った木曽義仲(源義仲=みなもとのよしなか)(5月3日参照>>)に対抗するために、敦賀湾に突き出た小高い丘に城を構築したのが最初と言われ、以来、何度か歴史の舞台となりました。

・‥…━━━☆

ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して京へ攻め上った足利尊氏(12月11日参照>>)・・・

一旦、足利軍に占領された京の町を奪回し、尊氏を敗走させた(1月27日参照>>)天皇方でしたが、九州に落ち延びて態勢を整え(3月2日参照>>)、再び攻め上った尊氏に湊川の戦い(2007年5月25日参照>>)で破れ、主力の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)(2011年5月25日参照>>)を失います。

Nittayosisada600b 京都合戦(6月20日参照>>)に敗退した後醍醐天皇は比叡山へと逃れた後、尊氏とかりそめの和睦を結ぶ(11月2日参照>>)一方で、新田義貞(にったよしさだ)に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を預け、北陸へと落ち延びさせたのです。

多くの凍死者を出しながらも極寒の木ノ芽峠を越え(10月13日参照>>)、敦賀に入った義貞らが越前金崎城へと入城したのは、延元元年(建武三年・1336年)10月13日の事でした。

ここで義貞は全軍を分散する作戦に・・・

総司令官となる自らは、恒良親王と尊良親王を守るべく金崎城に留まり、息子の義顕(よしあき)越後に、弟の脇屋義助(わきやよしすけ)瓜生(うりゅう)兄弟の守る杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)へと派遣します。

そうこうしているうちに足利の大軍が金崎城を包囲・・・その後しばらく、一進一退の攻防が繰り広げられます。

この間に後醍醐天皇は幽閉先から脱出し吉野へと逃れ(12月21日参照>>)、そこには、散り々々になっていた楠木正行(まさつら=正成の嫡男)らの忠臣も続々と・・・

一方、足利軍の攻撃を受ける金崎城では、籠城も時間の問題となって来ます。

海に面した金崎城では、はじめのうちは、入り江で魚を釣ったり、海藻を採って飢えをしのいでいましたが、籠城も半年以上続いた今となっては、もはや、そんな少量の粗食では、やっていけないほどの飢餓状態に陥っていたのです。

やがて、皇族用の馬や武将たちの愛馬まで、涙を呑んで朝夕の食糧にあてる日々・・・

まもなくの落城が見えたある日、新田義貞&義助の兄弟は、密かに金崎城を脱出し、かの杣山城へと支援の要請に向かいます。

しかし、金崎城の包囲以来、義助の息子・義治(よしはる)が大将となって瓜生兄弟とともに、何とか金崎城を支援すべく動いていた杣山城とて、その戦いの中で長兄の瓜生保(うりゅうたもつ)を失い(1月12日参照>>)・・・

今となっては、杣山城に残っている兵を入れても、その数は500余騎ほど・・・10万の兵(たぶん盛ってますが)に囲まれた金崎城を救援できるほどの戦備も無かったのです。

この間にも金崎城では、もはや馬も食べつくし、絶食に次ぐ絶食で餓死寸前の状態・・・

かくして建武四年(延元二年=1337年)3月6日その飢餓状態を見越した足利軍が、金崎城へ、怒涛のごとく攻め込んだのです。

金崎城を守るのは、杣山城へ向かった父の代行として総司令官を務める事になった長男の新田義顕・・・

彼のもとに刻々と戦況が伝えられます。

「城中の兵は、ここ数日間の疲労のため、矢をまともに撃つ事もできません」
「敵が、第1・第2の城門を突破し、コチラに向かってます!」
「もはや、どう考えても、応戦はムリです!」

しかし、義顕の戦況報告をする彼らでさえ、報告をを終えて引き下がろうとする瞬間に足をふらつかせるほどの疲労困憊状態だったのです。

「こうなったからには、親王様たちを何とか脱出させ、残りの者は一つ所で自害しよう」
という事になります。

一方、その間だけでも、第2城門の侵入口で、なんとか敵の攻撃を食い止めようと考えた河野備後守(こうのびんごのかみ)は、なんと、第2城門の脇で射殺されて息絶えていた兵士の太ももの肉を切り取り、20人余りの兵士たちとともに、一口ずつ食し、力をつけたと言います。

想像もしたくない地獄の光景ですが、これも、「何とか主君の自害を敵に妨げられたくない」という武士の思い・・・常識ではあり得ない状態での行為ですから・・・

そのおかげで、河野らは、その後1時間ほど、攻め込む敵を防いだ後、ほぼ全員が深手を負ったのを見届けて、侵入口を一歩も退かぬまま、その場で壮絶な自刃を遂げたと言います。

その間、城内では義顕が自害の覚悟を告げ、二人の親王に脱出を勧めますが、この時、尊良親王だけは、
「同胞を見捨てて逃げる事は出来ない」
と言って、かたくなに義顕らとともに散る事を望んだと言います。

そのため、恒良親王一人だけ、気比社の大宮司であった気比斉晴(けひなりはる)が小舟に乗せて海を渡り、蕪木の浦(かぶらぎのうら=福井県南条郡)漁夫に預けられたとか・・・まぁ、恒良親王は皇太子ですからね、それこそ、その身は自分一人の物ではありませんから・・・

やがて恒良親王が去った城内・・・その覚悟はあるものの、自害の仕方がわからない尊良親王が義顕に尋ねると、
「こうします」
と言って、義顕は壮絶な割腹を・・・

その姿を見た尊良親王は、自ら、義顕が果てた刀を手に取り、自身の胸を突いて自害を遂げました。

二人の様子を見ていた将兵たちも次々と彼らに殉じ、金崎城は、足利軍の手に落ちたのです。

一方、そうして城を脱出した恒良親王ではありましたが、まもなく、足利軍に捕らえられてしまいます。

合戦後、新田軍の首実検を行った足利軍は、義貞&義助兄弟の首が無い事を恒良親王に問いただしますが、親王は
「昨夜、覚悟を決めて自刃したので、我々が火葬にした」
と、キッパリと答えたのだとか・・・

さすがは後醍醐天皇の息子・・・親王様でも肝が据わってますね。

とは言え、この先、まだまだ続く南北朝は、始まったばかり・・・すでにいくつかの出来事を書いておりますので、さらにこの先を・・・とお思いの方は【足利尊氏と南北朝の年表】>>からどうぞ
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2012年3月 5日 (月)

後白河天皇と今様~大河ドラマ・平清盛、第9回「ふたりのはみだし者」を見て

 

昨日、3月4日放送の大河ドラマ「平清盛」は、第9回「ふたりのはみだし者」という事で、松田翔太くん演じる雅仁(まさひと)親王=後の後白河天皇(法皇)登場の回でしたね。

どこかの芸能ニュースに「ラスボス登場!」と書かれてましたが、まさに平家にとっても源氏にとってもラスボスのような存在・・・敵なのか?味方なのか?はたまた、どーしたいのか?

この先、その動向に目が離せない重要人物となるわけですが、その登場が、あまりにもインパクトあり過ぎて、昨日は、なにやら、主役の清盛さんがおとなしく見えた感じでしたね。

題名は「ふたりのはみだし者」でしたが、もはや、清盛ははみ出して無いような・・・いや、ひょっとして、雅仁親王とともにはみ出してるのは、祝いの席で空気の読めない歌を披露したあげく、妻子ある身で鳥羽院の嫁=待賢門院璋子(たいけんもんいんたまこ)に手を出す佐藤義清(のりきよ=後の西行)(10月15日参照>>)のほうで、はみ出してる二人とは、この二人の事なのか?

とにもかくにも、役者さんが皆さん頑張っておられるので、その個性がビンビンに感じられ、何やら、王家のドロドロでお腹いっぱいになりそうな回でしたが、子供の成長ぶり(冒頭で生まれた清盛の子が後半にサイコロ振ってた)でもお解りのように、実際には、ある程度の年月の出来事を、ドラマでは45分で集約せねばならないのですから、そこンところは致し方ないところで、何でもかんでもすっ飛ばされたアレよりは良いのでは?と、個人的には満足して見ております。

ちなみに、昨日のドラマの段階では、雅仁(まさひと)親王=後の後白河天皇(法皇)は12~13歳くらい、清盛が9歳年上なので、21~2歳くらいでしょうか・・・

その年齢を思えば、あのはみだし皇子ぶりも納得・・・一番はみだしたいお年頃ですからね~大人になってもはみ出してた平成のティッシュ王子よりは、賭け事での負けっぷりも初々しいです。
(双六については11月14日【ギャンブルの歴史】でどうぞ>>

てな事で、ドラマの感想はこのへんにしておいて、本日は、放送の最後で、そのはみだし皇子が、かたつむり相手に歌っていた今様(いまよう)という物について・・・

・‥…━━━☆

Gosirakawahouou600 そもそも、雅仁親王という人は、本来なら天皇の座につく事は無かったお方・・・

以前、その即位のページでも書かせていただきましたが(10月26日参照>>)、第74代鳥羽天皇の次は、その息子の崇徳(すどく)天皇で、その次は、鳥羽天皇と藤原得子(なりこ)との間に生まれた体仁(なりひと)親王(昨日の放送で松雪泰子さんが生んだ赤ちゃんです)が第76代近衛(このえ)天皇となったので・・・

その時点で、すでに天皇候補としては、すっ飛ばされていたわけですが、その近衛天皇が17歳の若さで亡くなってしまったため、その椅子が雅仁親王のところに回って来た・・・

とは言え、その時点でも、
「即位の器量にあらず」
「文にも武にもあらず、能もなく芸もなし」

散々な人物評を書き残されるくらいの、仰せの通りの「はみだし皇子」だったのです。

まぁ、皇位継承の列から外された人としては、もはや、破天荒な生き方をするしか無かったのかも知れませんが、そんな雅仁親王の1番の趣味が今様でした。

今様については、このブログでも何度か出て来ていますので(3月1日後半部分参照>>)、すでに皆様ご存じかも知れませんが、その言葉の意味としては「当世風」という意味で、もともとは、「今ハヤリの歌」という事で、今様歌と呼ばれていた平安後期に流行った歌の事を指します。

和歌の「五七五七七」のような決まった形はありませんが、文芸というよりは歌うための歌で、七五調や八五調の語呂の良い物が一般的で、日本の歌の原点とも言える物・・・

今でも、小学校唱歌や演歌には、七五調や八五調の物が多くありますよね?

・・・で、若い頃から、この今様にハマって3度も声を潰したという雅仁親王は、その後、後白河法皇となって君臨した後も今様を愛し、その集大成と言える『梁塵秘抄(りょうじんひしょう)を残します。

この書物は、今様の歌詞&楽譜集=10巻と、歌唱法などを記した口伝(くでん)集=10巻から成る、まさしく集大成だったわけですが、残念ながら、現在は、第1巻の一部と第2巻と口伝集の第10巻が残るのみ・・

しかし、それでも、そこには540余りの今様が収められているというのですから、後白河法皇の収集マニア度はネ申の領域!!

『梁塵秘抄』「梁塵」とは、
「ひとたび歌を歌うと、その声の響きによって、家の梁(はり)に積もった塵(ちり)が震えるほどの歌の名手がいた」という中国故事からとったもの・・・つまり「塵も落とすほどウマイ歌唱法の秘伝書」という意味ですね。

現存する口伝集には、
「若い時から積み上げて来た今様という一芸ではあるけれど、後の世に伝えるべく弟子がいないので、せめて書物に残して伝えたいと思った」
と、後白河法皇が、この『梁塵秘抄』を残すに至った経緯が書かれていますが、今となっては、よくぞ残してくれたという感じですね。

なんせ、流行歌という物は得てして一過性の物・・・今でこそ、ビデオ&DVDという映像の記録やレコードやCDなどの音声記録が残せますから、懐メロとしても楽しめますが、それこそ、そんな記録媒体も無い時代なら、もはや歴史の彼方に消え去ってたかも知れませんからね~

だって、何と言っても、我が国の民衆歌謡の原型なんですから・・・もちろん、流行した当時にどのように歌われていたかは、まだまだ解明の余地があるわけですが・・・

では、最後に、後白河コレクション=『梁塵秘抄』から代表的な1曲を・・・

♪仏は常に 在(い)ませども
 現
(うつつ)ならぬぞ あはれなる
 人の音せぬ 暁に
 ほのかに夢に 見えたまふ  ♪
「仏様はいつも、自分に身近いらっしゃるのに、それをありありと見る事のできひん人間って哀れやな~
けど、未だ人が目覚める前の夜明けに、ほのかな灯りに包まれた仏様の姿を夢に見る事ってあるよね」

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2012年3月 3日 (土)

赤裸々日記~柳沢信鴻の華麗なる隠居生活

 

寛政四年(1792年)3月3日、大和郡山藩第2代藩主で、郡山柳沢家の第3代当柳沢信鴻が69歳の生涯を終えました。

・・・・・・・・・

時代劇では、何かと悪役寄り・・・性格俳優的な役者さんが演じられる事の多い柳沢吉保(よしやす)・・・第5代将軍・徳川綱吉御側用人として幕閣に君臨した、アノ人ですね(11月2日参照>>)

今回の柳沢信鴻(やなぎさわのぶとき)さんは、その孫にあたります。

父の吉里(よしさと)の時代に大和郡山(やまとこおりやま)への転封となりますが、この大和郡山という場所は、京都や大坂に近い交通の要所として常に重要視された場所で、徳川時代になっても譜代の有力大名が藩主を務め、畿内の雄藩とされていました。

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大和郡山城址・天守台から望む郡山の街並み

しかも、柳沢家は、禁裏(きんり=朝廷)守護や、京都&奈良の火消しの役目も仰せつかっていましたので、その力は、かなりの物だったのです。

ちなみに、名物の金魚は、吉里さんが、甲斐(山梨県)甲府からのお引っ越しの時に、ペットとして大和郡山に持ちこんだ物です。
*大和郡山の城下町については、本家HP:奈良歴史散歩「大和郡山」でどうぞ>>

・・・で、その郡山の2代め藩主となった信鴻は、安永二年(1773年)、50歳にして隠居します。

・・・って、ご本人の紹介で、現役時代をすっ飛ばして、いきなり、隠居してからの話になるのも恐縮なのですが、実は、この方の人生を語るうえでは、現役の頃より、隠居してからの事のほうが、数段オモシロイのです。

と言うのも、この方、マメに日記を書いてます。

公用日記の『幽蘭台年録』から、個人の日記である『宴遊日記』『松鶴日記』・・・その日の天気から政治社会情勢から、「今日何をした」「今日何を食べた」など、克明に記録しているのです。

これが、今となっては、当時の生活様式を知る大切な資料となっていて、特に、天明の大飢饉(12月16日参照>>)に至るまでの天候の記録などは、その原因の究明にも役だっているのです。

そんな中で、信鴻・隠居後の生活を綴った『宴遊日記』・・・そこには、華麗なる趣味に生きる殿さまの日々が赤裸々に語られているというわけです。

大事なお仕事の数々は、息子の保光(やすみつ)に譲り、別荘の六義園(ろくぎえん=東京都文京区本駒込)に移り住んだ信鴻さん・・・

そこでは、俳諧園芸読書などの趣味に興じて、のんびりと余生を過ごす日々・・・

いや、そんなにのんびりでもないな・・・
なんせ、他趣味ですから・・・

中でも大好きだったのが観劇・・・

日記によれば、かの別荘から徒歩2時間くらいかかる場所に、朝の7時か8時頃・・・早い時には5時頃に出発し、芝居を終演まで堪能したら大体午後5時頃・・・

その後、お茶屋にて夕食をとってたら、帰るのは午後7時か8時くらいですから、当然、別荘に戻るのは、もはや夜の10時頃になるわけで・・・

これを、なんと、隠居日記の中で119回も見に行ってます。

さらに信鴻の場合、見るだけでは飽き足らず、自ら歌舞伎の脚本を書き、それを奉公人に演じさせる発表会も、自宅で開催していたのです。

しかも、そこには信鴻のシュミ満載・・・

実は、信鴻さん・・・年端もいかないウブな少女が大好きだったのです。

そこで、奉公人の名目で女の子を募集し、自ら面接官となって、好みの女の子を採用し、演技指導などを行いつつ、舞台に立たせる・・・

そう、信鴻さんトコの柳沢家の奉公は、一般の女中奉公と違い、掃除などをチョコッとやる以外は、ほとんど一日中、お芝居の稽古なのです。

考えようによっちゃぁ、隠居したお殿さまの相手をして遊んでいれば、奉公がつとまったのです。

芝居の稽古を「遊ぶ」と表現しちゃうと怒られるかも知れませんが、なんたって、この場合、プロになるための芝居の稽古じゃありませんからね。

あくまで、お殿さまの趣味で、そのゴキゲンを損ねないための芝居の稽古ですから・・・

現に、この噂を聞きつけて、信鴻さんのお屋敷には、奉公希望者がワンサカ訪れたらしいです。

しかし、そうなると、信鴻のほうにも欲が出るわけで、採用にも様々な条件をつける・・・て言っても、三味線が弾けるとか、お琴が上手とか、もちろん美人とか、って条件なんですけどね。

そうなると、もう、またたく間に奉公人は美人揃い・・・まるでアイドルプロダクションのように・・・

そんな中で、特に気に入った少女がいた場合は、ご想像通り、より丁寧な親切指導・・・しかも、それは、お芝居だけに留まらず、一般教養から、普段の立ち居振る舞いまで・・・

こうして、まぶしいほどの一流の女性に育て上げた後、その娘が、やがて16歳頃になると、信鴻さんご自身が、ご賞味されるとの事・・・

こうして、俳諧に遊び、観劇に興じ、ガーデニングに勤しむ隠居生活を送った柳沢信鴻さん・・・3食のメニューまで記録してくれたおかげで、江戸時代の殿さまの生活というのが垣間見え、それはそれでオモシロイ!

それにしても、今ハヤリの「年の差婚」・・・・やはり殿方の永遠の夢なのでしょうかね?
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2012年3月 2日 (金)

足利尊氏・再起~多々良浜の戦い

 

延元元年・建武三年(1336年)3月2日、京都を追われた足利尊氏筑前多々良浜で菊池武敏を破った多々良浜の戦いがありました。

・・・・・・・・・

ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発する足利尊氏(4月16日参照>>)、北条の残党討伐のために東国へ下ったまま京には戻らず、逆に、後醍醐天皇から派遣された新田義貞箱根・竹の下の戦いで破り(12月11日参照>>)新田軍を追討しながら京へ攻め上りました。

途中から参戦した東国の武士たちを加え、大軍となって攻めよせる足利軍に対して、後醍醐天皇は比叡山へと身を隠しますが、ここに来て、あの楠木正成の軍も整い、東北から駆けつけた北畠顕家(あきいえ)なども天皇方に合流・・・一旦は、京都を選挙した尊氏を破って、建武三年(1336年)1月27日天皇方が再び都を奪回しました(1月27日参照>>)

その勢いのまま、天皇方は、西へと撤退する足利軍を追い2月6日には、豊島河原(てしまかわら=箕面市から池田市・伊丹市へ流れる箕面川下流の河原)で遭遇戦を展開(2月6日参照>>)・・・劣勢ながらも、なんとか危機を脱した足利軍は、さらに兵庫(神戸方面)へ撤退します。

さらに追い打ちをかけようとする義貞でしたが、ここらあたりから、両者に水軍が加勢しはじめます。

天皇方には土居・徳能の水軍、足利方には大友・厚東(こうとう)・大内の水軍・・・

こうして戦いは、更なる展開を見せるかに見えましたが、尊氏の加勢に現われた大友貞宗(おおともさだむね)が、度重なる敗戦で意気消沈する尊氏に進言します。

「このまんまの状況やと、とても勝てるとは思えんなぁ。
どや? 幸いな事に、軍船はよーけあるさかいに、ここは一つ、九州へと撤退してみたらどやろ?

九州には少弐貞経(しょうにさだつね)っちゅー味方もおりますさかいに、ソイツの声かけにによって多数の者が加勢してくれるはずです。

そうなったら、大軍を編成して、またまた京に攻め上る事もできますよって…」
と・・・

彼の提案に納得した尊氏は、早速、大友の用意した船に乗り込み、一路、筑紫へ・・・

『尊氏卿は福原の京をさへ追ひ落とされて
長汀
(ちょうてい)の月に心を痛ましめ
曲浦
(きょくほ)の波に袖を濡らして
心尽くし
(筑紫)に漂泊し給へば…』(太平記より)

福原京(神戸)さえ追い出される事になった尊氏の心は、長い砂浜を照らす月の光の中で痛み、曲がりくねった海岸に打ち寄せる波を見ては涙するという様々な思いに揺られながら・・・・

やがて2月2日、尊氏が去った京の町に後醍醐天皇が戻り、多くの捕虜を従えた新田義貞が、天下の大軍司令官として、花の都を凱旋したとか・・・

ここで、後醍醐天皇は「建武は縁起が悪い」として、元号を延元に変更・・・って、「建武も自分がつけたんちゃうんかい!」って突っ込んでおく・・・

こうして、九州へと向かった尊氏は、まもなく筑前多々良浜(たたらはま=福岡県東区)の港に上陸しますが、この時、従う将兵は、わずかに500未満・・・

なんせ、いくら船がたくさんあると言っても、何千何万という軍勢の全員が乗れるほどにはありませんから、多くの兵士を、あの神戸の港に置いてきちゃったわけで・・・

早速、少弐貞経が駆けつけて、軍を整えようとする尊氏でしたが、この事態を聞きつけた肥後(熊本県)菊池武敏(きくちたけとし)が、間髪入れず、貞経のいる大宰府を攻撃・・・未だ準備整わぬまま、貞経が自刃に追い込まれてしまいます。

さらに、その勢いで足利軍を撃滅しようとする菊池軍・・・そこに、天皇方に味方する九州の諸将が加わり、その大軍は2万にも膨れ上がったとか(たぶん盛ってます)

一方の足利軍は、わずかに2000ほど・・・なんせ、少弐氏が準備してくれた援軍のほとんどが、先の大宰府の攻撃の時にヤラれちゃってますから・・・

しかし、やって来る敵は迎え撃つしかありません!

かくして建武三年(延元元年・1336年)3月2日筑前多々良浜にて合戦となります。

多勢に無勢・・・おそらく、結果は明らか・・・と思いきや、菊池の大軍は武略に長けた足利軍に翻弄されっぱなし!

実は、先頭に立ってる菊池さんはともかく、他の九州の諸将という人たちは、
「今のところ天皇方が優勢みたいやから、こっちに参戦しとこ」
てな感じの、言わば日和見での参戦の者がほとんどだったのです。

そんな彼らだって武士・・・
誰だって、今ハヤリの「王家の犬」ではいたくないわけで、
後醍醐天皇が推進する公家中心の政治には、何かと不満があったわけで、
むしろ、ホンネとしては、武士のための政治をしてくれそうな尊氏に味方したいわけで・・・

ほとんど本気を出さずに戦っていたところ、
「なんだか、目の前の戦いは、軍略に長けた足利方が有利だゾ」
ってな展開になれば、その気持ちは一気に足利側に傾くわけです。

もちろん、尊氏はそれを見越していました。

宙ぶらりんの彼らの前で、カッコイイ戦いを見せつけて寝返りを誘う・・・絶対に勝てない人数を相手に戦うには、相手を寝返らせるのが一番手っ取り早いのです。

この作戦は、大成功・・・次から次へと大量の裏切り者が出たために、菊池軍は、やむなく深山の奥に敗走する事となりました。

一方の天皇方・・・

尊氏追悼の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を受けて西へと向かった新田義貞が迫る播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・

Akamatunorimura600 ここで足利方の一人として踏ん張っていた赤松則村(あかまつのりむら・円心)は、新田軍の攻撃が始まると、
天皇さんから、播磨守護職の辞令をいただきたいわぁ
と言って、交渉を持ちかけます。

もちろん、これ、時間稼ぎです。

交渉中の間にも、来たる戦いに備えて支城を構築する一方で、尊氏に上京を勧めるといった具合・・・

とは言え、そんな時間稼ぎは、そんなに時間が稼げないわけで・・・

いよいよ、尊氏が九州からやって来る事になるのですが、そのお話は4月26日のページでどうぞ>>
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2012年3月 1日 (木)

武田を裏切った穴山梅雪…その運命の分かれ道

 

天正十年(1582年)3月1日、武田方の駿河江尻城主・穴山梅雪が徳川家康に降りました

・・・・・・・・・・

穴山梅雪(あなやまばいせつ)・・・

本名は、穴山信君(のぶただ・のぶきみ)ですが、出家後の梅雪の名が有名なので、本日は梅雪さんでいきます。

Anayamabaisetu400 梅雪さんの穴山氏は、甲斐(山梨県)南部の穴山河内の一部を領地に持つ一族で、もとをただせば、あの武田信玄武田家と祖先が同じ・・・・ 

って事で、梅雪の時代にも、武田氏とは深い関係を結んでいました。

なんせ、梅雪のお母ちゃんは、信玄の姉・南松院で、梅雪自身の奥さんも、信玄の娘・見性院(けんしょういん)ですから・・・

そんなこんなで、梅雪も武田の配下として三方ヶ原の戦いの時(10月14日参照>>)重要な位置で活躍し、信玄亡き後も、後を継いだ武田勝頼のもと、長篠の合戦にも出陣し、親族衆の中でも一目置かれる存在でした。

ところが、その長篠の戦い・・・ご存じのように、武田の分が悪い戦いでした。

この時、戦況をいち早く読んだ梅雪は、鳶ヶ巣山砦が陥落したと見るや本格的な戦いを開始する前に撤退し、江尻城へと戻ってしまうのです(5月21日参照>>)

戦後は、この勝手な戦線離脱を咎められ、武田の家臣たちの中から「切腹させろ!」なんて声も出ますが、勝頼が、それを押しとどめたと言います。

それだけ、武田家によって重要な親族の一人だったのです。

ただ、それからしばらくの一時期、梅雪の妻子が勝頼のもとに人質として捕らわれていたようなので、勝頼も、彼の内通を危険視していた事は確かですが・・・

しかし、その後も、どうも勝頼と意見が合わない梅雪・・・一方で、石山本願寺との戦いに終止符を打って(11月24日参照>>)、心おきなく武田との抗戦に力を注げるとばかりに甲斐への侵攻(2月9日参照>>)をたくらむ織田信長からは、徳川家康を通じて内通のお誘いが・・・

かくして天正十年(1582年)3月1日・・・家康との交渉の結果、穴山&河内の旧領の安堵とともに、勝頼亡き後は、梅雪の息子・勝千代が武田家宗家を継ぐことを条件に、梅雪は、徳川方に降ったのです(2013年3月1日参照>>)

この交渉中には、すでに梅雪の心も決まっていたとみえ、仲間の依田信蕃(よだのぶしげ)に、「田中城を家康に明け渡すように」説得役をかって出たりなんぞしてます(2月20日参照>>)

寝返りから2日後の3月3日・・・梅雪は、甲斐に侵入する家康の先導者となって勝頼に相対する事となりました。

そして、ご存じのように、その1週間後の3月11日・・・勝頼は妻子、残ったわずかな家臣とともに、天目山にて自刃を遂げ、ここに武田家は滅亡するのです。
●『甲陽軍鑑』ベースの最期(2008年3月11日参照>>)
●『常山紀談』ベースの最期(2012年3月11日参照>>)

梅雪のとった寝返りは、裏切り行為として、その後の汚名となった事は言うまでもありませんが、一方では、この時、同時に武田家を見限った他の離反者とは一線をおく別物との見方もあります。

なんせ、世は戦国・・・親族と言えど穴山氏を名乗ってる以上、梅雪は、穴山氏のトップとして、穴山氏の事を一番に考えるのは当然で、穴山氏が、その後も存続するためと考えれば、いたって正統な行為であるという事・・・

また、ご存じのように、勝頼は、父・信玄が滅ぼした諏訪頼重(すわよりしげ)(6月24日参照>>)の娘で諏訪御料人(すわごりょうにん)と呼ばれた女性の子で、一時は諏訪の後継ぎとされた人物です。

それに比べ、梅雪は武田の親族で嫁が信玄の娘・・・つまり、梅雪の奥さんの見性院にすれば、「我が子=勝千代こそが武田を継ぐべき」と思っていた可能性もあり、だからこそ、内通の条件に、「息子が武田家宗家を継ぐ」という内容が盛り込まれていたとの見方もできるわけです。

とにもかくにも、ここで、徳川方に降った梅雪・・・

彼が、家康とともに信長に会いに、安土へとやって来たのは、天目山から2ヶ月後の5月15日・・・

信長に謁見した梅雪は金貨を献上・・・反対に、信長からは、旧領の安堵と新領地を与えられ、この日の酒宴は大いに盛り上がったと言います。

この酒宴の準備をしたのが、あの明智光秀・・・とスルドイ方は、お解りですね?

この時の宴会で、光秀が用意した魚が腐ってたのなんのって信長さんが激怒して、光秀を殴り倒すシーンがドラマでは多いですが、もちろん、あれはフィクション・・・しかし、例のアノ日は刻々と近づいてるわけで・・・

とは言え、その後、能や舞の見物などして数日間安土に滞在した梅雪と家康は、21日に京都へ行き、京都見物をした後に29日にへ移動して堺を見物・・・

と、この堺見物真っ最中に起こったのが、あの本能寺の変(6月2日参照>>)です。

思えば、この時、中国にいた羽柴(豊臣)秀吉よりも、北陸にいた柴田勝家よりも、はるかに本能寺に近い場所にいた梅雪&家康・・・

信長死すの一報を受けた家康は、はじめは京に上る事を主張しますが、なんせ、今は兵を持たず、堺見物のわずかな手勢のみという事で家臣に説得され、逆に、明智の落武者狩りに遭わぬよう、決死の伊賀越えで、三河へ帰る事になります(6月4日参照>>)

ここで、運命の分かれ道・・・

東大阪の飯盛山から枚方を抜けた家康に対して、梅雪は、少し北のルート=木津川河畔を通るという別行動をとります。

結局、そのために梅雪一行は、落武者狩に遭い、この木津川河畔(京都府京田辺市)で、天正十年(1582年)6月2日・・・命を落としたのです。

なぜ、梅雪は、家康と別れて行動したのか???

もちろん、真相はわかっておらず、様々な憶測が飛び交います。

梅雪自身が、家康の事を疑っており、ここで袂を分かつ事になった・・・

梅雪一行が、多くの金品を持っていたため、逃亡の道中で、それを家康の家臣に奪われる事を恐れた・・・

また、逆に、家康が梅雪を疑い、暗殺した・・・などとも言われます。

真相もわからぬまま、信長死すの大混乱の中で、命を落としてしまった梅雪・・・思えば、武田の滅亡から、わずか3ヶ月の事でした。

結局、息子の勝千代は、穴山氏は継ぐものの、旧武田の領地は大幅カット・・・しかも、この5年後に、わずか16歳で、疱瘡で急死してしまうため、これも断絶・・・

その後に、家康が、自分の5男・信吉(のぶよし)を送り込んで穴山武田家を継がせるあたりは、なんとも・・・

ただ、こうして、夫にも息子にも先立たれた梅雪の奥さん・見性院が、後に、2代将軍・徳川秀忠の隠し子・保科正之(12月18日参照>>)を、どんなに正室のから反対されようとも、しっかりと守り育てる気丈さを持ち続けてくれていた事が、戦国を生きた武田の女性らしくて、少しホッとします。
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