平家の圧勝~墨俣川の戦い
治承五年(1181年)3月16日、源平争乱の中で数少ない平家の大勝利となった戦い=墨俣川の合戦(洲股合戦)がありました。
(3月10日、あるいは3月11日とも言われますが、とりあえず、本日書かせていただく事にします)
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ご存じの源平の争乱は、この前年の治承四年(1180年)の後半に大きな転換期を迎えます。
治承四年(1180年)4月9日に発せられた以仁王(もちひとおう=後白河法皇の第3皇子)の令旨(りょうじ=天皇家の人の命令)・・・(4月9日参照>>)
この以仁王自身が源頼政(みなもとのよりまさ)とともに挙兵した戦いは失敗に終わったものの(5月26日参照>>)、その令旨を受け取ったうちの二人=伊豆の源頼朝が8月に(8月17日参照>>)、木曽(源)義仲が9月に(9月7日参照>>)と、相次いで挙兵したのです。
義仲の勢力は甲斐(山梨県)源氏を巻き込んで徐々に大きくなり、最初こそ弱かった頼朝も鎌倉に居を定め、再起をはかります(10月6日参照>>)。
そんな時にぶつかったのが、あの富士川の合戦・・・(10月20日参照>>)
この戦いで、平家が、戦わずして撤退してしまった事で、東国の武将たちの中に「平家って大丈夫なん?」てな空気が漂いはじめ、風が源氏に吹き始めます。
この不穏な状況に対して、「今は天皇家を反目してる場合じゃない!」と感じた平清盛は、都を福原から京へと戻し(11月26日参照>>)、対立していた後白河法皇の幽閉を解き、院政の再開を要請して、その承諾を得る事に成功・・・つまり、この源平の戦いにおいて、「平家が官軍」というお墨付きを、後白河法皇から得たわけです。
その直後に行われた12月の南都攻めで、東大寺や興福寺などの反平家の仏教勢力を抑え込む事に成功しますが、仏を焼いた事で、寺院側からは「仏敵」と罵られる事になり、(12月28日参照>>)開けて治承五年(1181年)、清盛は病に倒れます。
南都攻めの直後だった事で、当然、「清盛は仏罰で体を焼かれた」なんて噂がまことしやかに囁かれる中の2月4日、「ただ一つの無念は兵衛佐(頼朝)の首を見れなかった事だ」なんていう遺言にも似た言葉を残して、清盛はこの世を去ります(2月4日参照>>)。
そして翌・3月・・・平重衡(たいらのしげひら=清盛の5男)(3月10日参照>>)を総大将に、3万の軍を率いて、平家は東国へと進撃するのです。
そう、これは亡き清盛の弔い合戦・・・
これを迎え撃つ源氏側は、源行家(みなもとのゆきいえ)が率いる6000・・・
この行家という人は、源為義(ためよし)の十男・・・つまり、頼朝の父=義朝の弟で、かの以仁王の令旨を全国の源氏勢力に届けて回り、挙兵を即した人で、その後も、頼朝配下というよりは、つかず離れず、何かチャンスがあれば独立しようと企てる野心満々の策士でもあります。
かくして治承五年(1181年)3月16日、両者は尾張(愛知県西部)と美濃(岐阜県)の国境付近を流れる墨俣川(すのまたがわ)の両岸に陣を敷き、対峙したのです。
・・・と、ここで、夜陰にまぎれて渡河し、一番乗りを狙う源氏の武将が・・・
それは、この合戦に2000の兵を率いて参戦していた義円(ぎえん)・・・彼は源義朝を父に常盤御前を母に持つ頼朝の異母弟=あの源義経のすぐうえのお兄さんで、常盤御前が清盛のもとに自首した時(1月17日参照>>)に連れていた3人の男の子のうちの真ん中=乙若(おとわか)です。
闇にまぎれての奇襲作戦は一か八か・・・成功すれば無勢でも大きな成果となりますが、そのぶん失敗する確率も大・・・
残念ながら、今回の義円は、渡河した直後に平家側に発見され、またたく間に包囲され、2000の兵は壊滅状態・・・義円も討たれてしまいました。
これで、焦ったのが本隊の行家・・・いや、もちろん、彼の心の内は本人に聞いてみないとわかりませんが、たぶん、焦ったのでしょう。
なんせ、彼は、事あるごとに独立を企む・・・つまり、トップor中心に立ちたい性格と思われ、援軍である義円の軍に抜け駆けされた事は、そのプライドが許さぬはず・・・
現に、このあと、行家は、相手が渡河して来るのを待てずに、全軍を渡河させて決戦に挑んでしまうのです。
川を挟んだ決戦の場合、相手が川を渡って来るのを待って、川辺で迎え撃つほうが、圧倒的に有利です。
後の戦国時代でも、あの武田信玄と上杉謙信が、川中島で何度も対峙しておきながら、まともにぶつかったのが第4次の1回くらいというのも、お互い、どちらが川を越えるかの探り合いだったからで、「勝算がなければ、川を渡らない」というのが鉄則なわけです。
その勝算というのが、一つには相手の不意を突く奇襲であり、もう一つの正攻法では渡る側が大量の兵力を持っている事・・・一般的には、相手の5倍以上の兵力が必要だなんて言われてます。
しかし、この時の行家は、逆に、平家の5分の1の兵力しか持っておらず、奇襲はすでに義円がやってしまって、相手にバレています。
素人の私でも知っているのですから、プロの行家たるもの、そんな事はとうにお見通しのはず・・・にも関わらず渡河作戦を決行します。
(なので、焦っていたのではないかと…(゚ー゚;)
川に入った行家軍は、激しい流れに足を取られ、あちこちに身動きが取れない者が続出・・・そこに、対岸からは、雨のように矢が撃ち込まれます。
必死のパッチで何とか対岸にたどり着いた者も、もはや馬も兵も疲れ果て、まともに戦う事なんてできません。
あれよあれよという間に、全軍が壊滅状態となり、多くの源氏の勇将が討ち取られてしまいました。
結果は、平家の圧勝・・・ただし、行家自身は、うまく戦場を逃れていますが・・・
その後は、平家も少しは追撃しますが、頼朝率いる源氏本隊の出撃の噂もあり、あまり深追いする事なく撤退しました。
こうして、清盛亡き後の面目を保った平家・・・しかし、北陸では間もなく、あの義仲が、怒涛のごとき進撃を開始するのです。
北陸での戦いは6月14日:横田河原の合戦でどうぞ>>
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コメント
ありがとうございます。平家の勇姿を見せてくれて。平氏好きの僕は、最高の気分です。
投稿: ゆうと | 2012年3月16日 (金) 17時52分
ゆうとさん、こんばんは~
私は義仲も好きですが、重衡も好きです。
投稿: 茶々 | 2012年3月16日 (金) 21時07分
おはようございます。
平家=弱いやられっぱなし というイメージがあるんですが、実は結構頑張ってるんですよね。
マイナーな合戦ですが、墨俣の戦いの前の近江攻防(近江源氏・延暦寺1vs平氏)、美濃の戦い(美濃源氏・尾張源氏vs平氏)では平氏は圧勝してますし、九州の反乱は2年がかりで鎮圧しています。
義仲が都に攻め入るのは横田河原合戦から2年以上経過してからのこと。
平家は各地での反乱勃発から実は3年近く都に居座っています。
しかも高倉上皇という支えと大黒柱清盛が死んでからというハンデ付きの条件で、です。
後白河法皇が院政を復活させたのは、それまで院政をとってた高倉上皇が崩御されたからやむを得ず復活ということだったようです。その後白河法皇が密かに頼朝や寺社勢力と接近するなどのことがあっても数年間都にい続けた、これって実は凄いことじゃないですか?
その平氏を清盛亡き後4年支えた宗盛さんをもっと評価してあげていいのではないかと私は思ってます。勿論闘将重衡さんもですけどね。
PS.今まで無視されがちな甲斐源氏を出してくれてありがとうございます。
頼朝、義仲に続く東国の第三勢力ですものね。(北条、上杉、武田の拮抗がその数百年前に存在してたんです)
投稿: さがみ | 2012年3月17日 (土) 06時34分
さがみさん、こんにちは~
そうですね。
平家物語の影響なのか、ドラマなどでは「清盛=悪人」「宗盛=無能」のように描かれる事が多いですね。
各合戦の事も、一般的な書籍ではなかなかお目にかかれません。
今年の大河で、少しは、平家の評価も上がるのでしょうか?
投稿: 茶々 | 2012年3月17日 (土) 13時01分