足利尊氏・再起~多々良浜の戦い
延元元年・建武三年(1336年)3月2日、京都を追われた足利尊氏が筑前多々良浜で菊池武敏を破った多々良浜の戦いがありました。
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ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発する足利尊氏は(4月16日参照>>)、北条の残党討伐のために東国へ下ったまま京には戻らず、逆に、後醍醐天皇から派遣された新田義貞を箱根・竹の下の戦いで破り(12月11日参照>>)、新田軍を追討しながら京へ攻め上りました。
途中から参戦した東国の武士たちを加え、大軍となって攻めよせる足利軍に対して、後醍醐天皇は比叡山へと身を隠しますが、ここに来て、あの楠木正成の軍も整い、東北から駆けつけた北畠顕家(あきいえ)なども天皇方に合流・・・一旦は、京都を選挙した尊氏を破って、建武三年(1336年)1月27日、天皇方が再び都を奪回しました(1月27日参照>>)。
その勢いのまま、天皇方は、西へと撤退する足利軍を追い、2月6日には、豊島河原(てしまかわら=箕面市から池田市・伊丹市へ流れる箕面川下流の河原)で遭遇戦を展開(2月6日参照>>)・・・劣勢ながらも、なんとか危機を脱した足利軍は、さらに兵庫(神戸方面)へ撤退します。
さらに追い打ちをかけようとする義貞でしたが、ここらあたりから、両者に水軍が加勢しはじめます。
天皇方には土居・徳能の水軍、足利方には大友・厚東(こうとう)・大内の水軍・・・
こうして戦いは、更なる展開を見せるかに見えましたが、尊氏の加勢に現われた大友貞宗(おおともさだむね)が、度重なる敗戦で意気消沈する尊氏に進言します。
「このまんまの状況やと、とても勝てるとは思えんなぁ。
どや? 幸いな事に、軍船はよーけあるさかいに、ここは一つ、九州へと撤退してみたらどやろ?
九州には少弐貞経(しょうにさだつね)っちゅー味方もおりますさかいに、ソイツの声かけにによって多数の者が加勢してくれるはずです。
そうなったら、大軍を編成して、またまた京に攻め上る事もできますよって…」
と・・・
彼の提案に納得した尊氏は、早速、大友の用意した船に乗り込み、一路、筑紫へ・・・
『尊氏卿は福原の京をさへ追ひ落とされて
長汀(ちょうてい)の月に心を痛ましめ
曲浦(きょくほ)の波に袖を濡らして
心尽くし(筑紫)に漂泊し給へば…』(太平記より)
福原京(神戸)さえ追い出される事になった尊氏の心は、長い砂浜を照らす月の光の中で痛み、曲がりくねった海岸に打ち寄せる波を見ては涙するという様々な思いに揺られながら・・・・
やがて2月2日、尊氏が去った京の町に後醍醐天皇が戻り、多くの捕虜を従えた新田義貞が、天下の大軍司令官として、花の都を凱旋したとか・・・
ここで、後醍醐天皇は「建武は縁起が悪い」として、元号を延元に変更・・・って、「建武も自分がつけたんちゃうんかい!」って突っ込んでおく・・・
こうして、九州へと向かった尊氏は、まもなく筑前多々良浜(たたらはま=福岡県東区)の港に上陸しますが、この時、従う将兵は、わずかに500未満・・・
なんせ、いくら船がたくさんあると言っても、何千何万という軍勢の全員が乗れるほどにはありませんから、多くの兵士を、あの神戸の港に置いてきちゃったわけで・・・
早速、少弐貞経が駆けつけて、軍を整えようとする尊氏でしたが、この事態を聞きつけた肥後(熊本県)の菊池武敏(きくちたけとし)が、間髪入れず、貞経のいる大宰府を攻撃・・・未だ準備整わぬまま、貞経が自刃に追い込まれてしまいます。
さらに、その勢いで足利軍を撃滅しようとする菊池軍・・・そこに、天皇方に味方する九州の諸将が加わり、その大軍は2万にも膨れ上がったとか(たぶん盛ってます)。
一方の足利軍は、わずかに2000ほど・・・なんせ、少弐氏が準備してくれた援軍のほとんどが、先の大宰府の攻撃の時にヤラれちゃってますから・・・
しかし、やって来る敵は迎え撃つしかありません!
かくして建武三年(延元元年・1336年)3月2日、筑前多々良浜にて合戦となります。
多勢に無勢・・・おそらく、結果は明らか・・・と思いきや、菊池の大軍は武略に長けた足利軍に翻弄されっぱなし!
実は、先頭に立ってる菊池さんはともかく、他の九州の諸将という人たちは、
「今のところ天皇方が優勢みたいやから、こっちに参戦しとこ」
てな感じの、言わば日和見での参戦の者がほとんどだったのです。
そんな彼らだって武士・・・
誰だって、今ハヤリの「王家の犬」ではいたくないわけで、
後醍醐天皇が推進する公家中心の政治には、何かと不満があったわけで、
むしろ、ホンネとしては、武士のための政治をしてくれそうな尊氏に味方したいわけで・・・
ほとんど本気を出さずに戦っていたところ、
「なんだか、目の前の戦いは、軍略に長けた足利方が有利だゾ」
ってな展開になれば、その気持ちは一気に足利側に傾くわけです。
もちろん、尊氏はそれを見越していました。
宙ぶらりんの彼らの前で、カッコイイ戦いを見せつけて寝返りを誘う・・・絶対に勝てない人数を相手に戦うには、相手を寝返らせるのが一番手っ取り早いのです。
この作戦は、大成功・・・次から次へと大量の裏切り者が出たために、菊池軍は、やむなく深山の奥に敗走する事となりました。
一方の天皇方・・・
尊氏追悼の勅命(ちょくめい=天皇の命令)を受けて西へと向かった新田義貞が迫る播磨(はりま・兵庫県南西部)・・・
ここで足利方の一人として踏ん張っていた赤松則村(あかまつのりむら・円心)は、新田軍の攻撃が始まると、
「天皇さんから、播磨守護職の辞令をいただきたいわぁ」
と言って、交渉を持ちかけます。
もちろん、これ、時間稼ぎです。
交渉中の間にも、来たる戦いに備えて支城を構築する一方で、尊氏に上京を勧めるといった具合・・・
とは言え、そんな時間稼ぎは、そんなに時間が稼げないわけで・・・
いよいよ、尊氏が九州からやって来る事になるのですが、そのお話は4月26日のページでどうぞ>>
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コメント
いつも楽しみに読ませていただいています。ありがとうございます。
箕面川で、池田市と伊丹市を流れる、とありますが、両市を流れるのは猪名川で、箕面川は、豊島河原の瀬川あたりでは箕面市を流れていると思います。
箕面市出身です。歴史で箕面が出てくるのが、豊島河原の瀬川と赤穂浪士の萱野くらいなので御連絡しました。
投稿: 石澄 | 2012年3月 7日 (水) 21時58分
石澄さん、こんばんは~
あぁ、そうですね。
「箕面市から池田・伊丹へ流れる」
としたほうが良かったですね。
ご指摘ありがとうございます。
訂正させていただきます。
投稿: 茶々 | 2012年3月 7日 (水) 23時11分