清盛嫡流の誇りと責任…平維盛の決断
寿永三年(1184年)3月28日、源平争乱の戦線を離脱した平清盛の嫡孫・平維盛が、入水自殺をはかりました。
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平維盛(たいらのこれもり)は、平清盛の長男=平重盛(しげもり)の長男・・・つまり清盛の嫡孫という事になります。
源平の争乱がクライマックスを迎える頃には、すでに清盛も重盛もこの世にはいませんから、まさに、彼=維盛が平家一門を背負って立つ役回りにならねばならない人でした。
ただ、その立場は微妙・・・大河ドラマでご存じの方も多いでしょうが、長男の長男って事は、この維盛さんの祖母は、清盛の最初の奥さんなわけで、未だ平家女人の頂点として健在である清盛の再婚相手=平時子(二位尼)とは別の人なわけです。
ドラマのように、見事にしっくりと、先妻の思いを継いでくれる深キョンのような女性だったら、すべてが丸く納まるでしょうが、実際にはどうだったかはわかりません。
まして、先妻と時子さんでは、実家の身分に天と地との差があり、時子の尽力無くしては清盛の出世も無かったかも知れないほどの影響を与えた人ですから・・・(2月10日参照>>)
実際には先妻が亡くなった記録も無いのですから、悪く考えれば、清盛が、自らの出世のために先妻を捨てて時子に乗り換えた可能性もゼロではありません・・・もちろん、そうは考えたくないですが・・・
さらに悪い事に、治承元年(1177年)5月には、維盛の奥さんの父である藤原成親(ふじわらのなりちか)が、『鹿ヶ谷の陰謀』(5月29日参照>>) の首謀者の一人として逮捕され、備前(岡山県)に流罪となった後に亡くなる(斬られたとも)という事件が・・・
自分の嫁の父親が、自分たち一族を倒そうという策略に加担していたのですから、そりゃ、一門の中で、肩身の狭い重苦しい空気が漂うのは必至・・・
とは言え、なんだかんだで平家の嫡流・・・治承四年(1180年)10月には、挙兵したばかりの源頼朝を討つべく、討伐軍の総大将となって出陣します。
この時、維盛=23歳・・・「桜梅少将(おうばいのしょうしょう)」とのニックネームで呼ばれ、「まるで光源氏のよう❤❤❤」と女官たちを魅了したイケメン維盛、最高潮の大舞台だったわけですが、残念ながら、この富士川の合戦(10月20日参照>>)では、戦わずして撤退するという体たらくを見せてしまいます。
もちろん、そのページにも書かせていただいたように、この年は、西日本一帯が未曽有の大飢饉に襲われていて、兵糧も軍備も訓練もまともに行えなかったと言われており、歴史家の方の中には平家滅亡の1番の原因を「この年の飢饉」と指摘する方も多いわけで、ここは、負けたのではなく、勇気ある撤退だった可能性も大・・・
しかし、その翌年には清盛が亡くなり・・・さらにその翌年、名誉挽回とばかりに、北陸から迫る木曽(源)義仲を討つべく、総大将として加賀へ攻め込んだ維盛(5月3日参照>>)・・・
しかし、こちらも・・・あの倶利伽羅峠で手痛い敗北を喰らってしまうのです(5月11日参照>>)。
この頃から、平氏の主導権は叔父の宗盛(むねもり=清盛の3男)に移っていく事になり、維盛にとっては、いっそう肩身の狭い実家となっていた事でしょう。
それを物語るのが維盛の都落ち・・・やがて、迫る義仲軍に対して、幼き安徳天皇を奉じた平氏が都を後にする事になるのですが、維盛は、平家一門でただ一人、妻子を都に残したまま、一族とともに落ちていくのです(7月25日参照>>)。
やがて、寿永三年(1184年)2月の一の谷…
【鵯越の逆落し】
【忠度の最期】
【青葉の笛】
そして、文治元年(1185年)2月の屋島・・・
【めざせ!屋島~嵐の船出】
【佐藤嗣信の最期】
【扇の的の後に・・・】
と続くのですが・・・
この一の谷から屋島にかけてのこの間のいずれかの日に・・・
と、ここからは『平家物語』に沿ってお話させていただきますが、
『平家物語』では、一の谷の敗戦後の寿永三年3月15日、維盛は、わずかに3人の供だけを連れて、戦線を離脱してしまうのです。
どうやら維盛さん・・・その身は屋島にあっても、心は都に・・・残して来た妻子の事が気になってならなかったのです。
ただ、妻子の顔を見たさに一族から離れたは良いものの、このまま都に入ってしまっては・・・なんせ、巷では、あの一の谷で生け捕りとなってしまった平重衡(しげひら=清盛の5男)(6月23日参照>>)が、京市中を引き回され、この後鎌倉に贈られるとのもっぱらの噂ですし・・・
そんな中で、自分が安易に都に戻って捕えられでもしたら・・・そう思った維盛は、とりあえず知り合いの僧のいる高野山へと向かいました。
その知り合いとは、三条の斎藤以頼(もちより)の息子で斎藤時頼(ときより)・・・出家して滝口入道と呼ばれていた僧・・・
高野山にて、堂塔を参拝しつつ、その胸の内を滝口に伝える維盛・・・
「ここで出家をさせていただいて、その先は火の中水の中・・・と思っているのですが、ただ熊野に詣でたいという宿願だけは果たそうと・・・」
・・・と、早々に出家をした維盛は、「熊野へお供しましょう」と言ってくれた滝口と、そしてともに出家した従者らとともに熊野参詣を済ませました。
かくして寿永三年(1184年)3月28日、未だ霞がかかった哀愁漂う海に向かって船をこぎ出し、沖へ沖へと進みます。
ここに来ても、まだ妻子の事が気にかかる維盛を、滝口が慰めつつ激しく鐘を鳴らして念仏を勧めると、「今が最善の時!」と悟った維盛は、西に向かって一心に手を合わせ「南無…」という声とともに入水したのでした。
・・・と、ここまでは『平家物語』のお話・・・
平家物語での維盛の入水が「寿永三年の3月28日」となっていますので、本日、ここに書かせていただきましたが、やっぱり、あります生存説・・・
平家の落人伝説が数多く残る紀州(和歌山県)では、維盛は那智の山里に隠れ住んで、そこで再婚して子孫も残っているという伝説の里があったり、やはり、落人伝説の多い阿波(徳島県)では、山に籠って仙人になったという伝説も・・・
また『源平盛衰記』では、無事、都に戻って妻子と再会した後、後白河法皇に助命嘆願したところ、それを伝え聞いた頼朝から、鎌倉へのお呼びがかかったので、鎌倉へと向かいますが、その旅の途中、相模(神奈川県)で病死したという事になっています。
これらの伝説を見てみると、やはり、『平家物語』が一番美しく描かれているように思いますが、私としては、その伝わるお話のほとんどが、もはや伝説の域を越えない物のような気がします。
おそらくは・・・
清盛の嫡流という血筋で光源氏を思わせる美貌の青年が、戦乱という波に呑みこまれ、わずか27歳にしてこの世から姿を消してしまう哀れさに対して、
「もっと長生きさせたい!」
あるいは
「美しく最期を迎えさせてやりたい」
との人々の思いが、様々な伝説を産んでいった・・・という事なのでしょうね。
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コメント
さすが!これもり。さらしものになってはいけないという、誇りがあるんですよね~!!富士川の汚名も、誇りを持って消そうとしましたし..。子の高清を連れて、残党集めて挙兵し、敵討ちをしたいです。落ちうど伝説があるほどの信用もあるんでしょうね!。
投稿: ゆうと | 2012年3月28日 (水) 18時26分
あの、先ほどのことですが、高清と、戦かう味方として、強い残党はいたのでしょうか?
投稿: ゆうと | 2012年3月28日 (水) 18時37分
ゆうとさん、こんばんは~
平景清と、そのお兄さんなんかがイイんじゃないでしょうか?
投稿: 茶々 | 2012年3月29日 (木) 02時07分
ありがとうございます。
投稿: ゆうと | 2012年3月29日 (木) 03時40分
維盛の子供はどうなったのか…
投稿: | 2013年1月 7日 (月) 13時16分
維盛の子供=六代(高清)さんについては、そのご命日の2月5日のページ>>に書かせていただいておりますので、ご覧いただければ幸いです。
投稿: 茶々 | 2013年1月 7日 (月) 14時20分
奈良県野迫川村の平家の郷に2度行ってきました。
何とはなく惹かれるものがあり、2度も行ってきました。
長閑で密やかなところでした。
現代に生きる私にはその昔のから恐ろしい風景
(政治的な事、男色も常、といった社会)
が密やかな中にも濃厚なものを感じました。
現代というともっとオープンですから、あっけらかんと受け取れるのですがね。
退職したらまた、歴史の旅にたびたび行きたいです。
投稿: なおさん | 2015年8月16日 (日) 21時42分
なおさんさん、こんばんは~
古に人々に思いを馳せて旅するのは良いですね~
私も、ここのところ忙しく、なかなか史跡巡りには行けてませんが、余裕ができたら、また行きたいです。
投稿: 茶々 | 2015年8月17日 (月) 03時05分
こんにちは^^
初めまして。
平維盛は、実は伝わっている人物像と、実際の人物像はかなり違っているのではないかと言われていますね。
あまり知られていませんが、宇治川の戦い(以仁王・源頼政の挙兵)と墨俣川の戦いでは、平重衡とともに敵を打ち破って活躍しているんです。
墨俣川では維盛の部隊は74人の首級をあげたとされています(ただ、重衡の方は213人なので、それと比べると見劣りしますがというか重衡が凄い気がしますが…)。
ですが、どちらの戦いでも維盛の名前はカットされていることが多いんです。
また、宇治川では重衡と一緒に血気盛んな態度をしていたために伊藤忠清にたしなめられていますし、富士川でも本人には戦意があったけど忠清達に「無理です。」と言われて撤退したそうです(一方で源氏の使者を斬り捨てた忠清はいろいろとどうかと思いますが^^;)。
倶利伽羅峠でも小松家と別流(平家主流)の武将達(平盛俊等)と上手くいかなかったために敗北したという話もあります。
さらに、愛妻家とされていますが、妻の建春門院新大納言は、実は結婚した当時からずっと密通(不倫)を続けていて、都落ちの際はこれに気付いていた維盛の方から縁を切ったらしいんです。
その時に家小松家の家督を弟の資盛に譲った(唐皮の鎧や血継ぎの槍という宝物を譲った)そうで、そういういろいろな理由で都落ちが遅れたんだそうです。
ただ、入水自殺の報せ(噂)が広まった時に、もう一人の妻(側室・妾)の建春門院新中納言(平親宗娘)がショックのあまり亡くなってしまった(憂死)そうですので、愛妻家というのは間違いないかもしれません。
そして、入水自殺は宗教的に考えられないのだそうです。
維盛は真言宗でしかも入信して間もなかったため、天台宗の補陀落渡海は許されないのが普通で、生き残るために入水自殺の噂を流しただけに過ぎないのだそうです。
そのため、生存説の可能性も高いそうです。
もしかしたら実際はとてもたくましい人かもしれません。
ですが、いろいろと運の悪い人ですよね。
(==;)
投稿: セラフィックロア | 2015年10月 6日 (火) 12時41分
セラフィックロアさん、こんにちは~
そうですね。
源平の合戦の事は軍記物による所が多いので、どうしてもカッコ良く、見応えのある話にスポットが当たり、維盛さんが目立たない感じになってる部分もあるでしょうね。
敗者である平家の事はウヤムヤになってる事も多々ありますが、だからこそ魅力的なのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2015年10月 6日 (火) 16時09分