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2012年3月29日 (木)

三木の干殺し~別所長治の籠城戦

 

天正六年(1578年)3月29日、織田信長に反旗を翻した別所長治の居城・三木城を、配下の羽柴秀吉が攻撃・・・この先2年の長きに渡る三木城・籠城戦が開始されました。

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・・・て事ですが、
三木城の攻防戦の流れについては、5年前の記事ではありますが、2007年にすでに書かせていただいており(2007年3月29日参照>>)、内容がかぶる部分もあるのですが、本日は、その三木城で踏ん張る別所長治(べっしょながはる)を中心に書かせていただきたいと思います。

Bessyonagaharu500 長治の別所氏は、播磨(はりま=兵庫県)の守護であった赤松氏の支族で、長治から数えて4代前の則治(のりはる)の時代には播磨東部の3郡の守護代を務めていましたが、その後、赤松氏が衰退するの見て、則治の孫(つまり長治のお祖父ちゃん)就治(なりはる・村治)の時代に赤松氏から独立・・・

戦国大名としての名乗りを挙げるとともに、勢力を拡大して行き、長治の父・安治(やすはる)の頃には東播八郡=美嚢郡・明石郡・加古郡・印南郡・加西郡・加東郡・多可郡・神東郡を支配するまでに成長・・・最盛期を迎えていました。

そんな中で、あの織田信長が、第15代室町幕府将軍・足利義昭(よしあき)奉じて上洛して来ると、安治はいち早く賛同し、三好氏の撃退(9月29日参照>>)どに加勢しました。

しかし、そんな父・安治は、信長の上洛から、わずか2年後に病死・・・未だ10代前半の少年だった長治が、叔父たちを後見役として別所氏の家督を継いだのです。

もちろん、長治が当主となっても、父が信長と結んでいた同盟は継続中で、長治も、父と同様に、信長配下として先鋒を務めたり、年始の挨拶に上洛したりしておりました。

しかし、信長の中国攻めがいよいよ本格的になった天正五年(1577年)・・・信長が配下の羽柴(後の豊臣)秀吉を、中国攻めの総司令官に相当する役職に抜擢した時、長治は、いきなりの離反を決行するのです。

この突然の離反については、昔から、様々な説が飛び交ってます。

まず言われるのは、なんだかんだで由緒正しき赤松の血をひく別所氏であるだけに、成り上がり者の秀吉の指揮のもとで合戦する事をプライドが許さなかった・・・というもの。

また、信長や秀吉が、なんだかんだと別所氏を冷遇した事から、不満を持った一族の中から離反の声が上がり、当主の長治が、その進言に従って決定した・・・とか、

もちろん、一族の声と同時に、あの毛利からも離反のお誘いがあったでしょうし、長治の奥さんの実家である丹波(京都中部と兵庫県東北部)波多野秀治(はたのひではる)が、すでに天正四年(1576年)の時点で信長に反旗をひるがえしています(1月15日参照>>)ので、そこからのお誘いもあった事でしょう。

さらに、その波多野氏の離反を見てもわかるように、この頃の中国地方一帯の武将たちの間で、一旦支持した信長に反旗をひるがえす=反信長の風が吹いていた事も確かです。

なんせ、この2~3年、あの西国の雄・毛利氏の全面バックアップのもと、一大勢力を誇る石山本願寺が、信長を悩ませていたのですから・・・(7月13日参照>>)

なんとなく「信長、ヤバいんじゃないの?」という空気・・・この長治の三木城籠城中には、あの荒木村重(12月16日参照>>)あんな近くで離反しちゃってますからね。

かくして、東播磨一帯から約7500の国人(地元に根付く武士)が集結し、三木城に籠城・・・そこを、天正六年(1578年)3月29日約2万の秀吉の軍勢が包囲したわけです。

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このイラストは位置関係をわかりやすくするために趣味の範囲で製作した物で、必ずしも正確さを保証する物ではありません。

とは言え、大軍を擁してもなかなか落ちない三木城・・・秀吉は、本城を後回しにして周囲の支城を攻め落とし、三木城を孤立化して兵糧攻めとしました(4月3日参照>>)

この間には、一番東の三木城が離反した事で孤立化してしまった上月城が落とされたり(5月4日参照>>)谷大膳衛好(だいぜんもりよし)討ち死にしたり(9月10日参照>>)竹中半兵衛が帰らぬ人となったり(6月13日参照>>)・・・

しかしながら、いくら強固な城と言えど、長引けば、そのうち兵糧は尽きるもの・・・

飢餓状態に陥った城内を見て、
「もはや、籠城の継続はムリ」と判断した当主・長治は、残っていた少量の食料でささやかな宴会を開いて兵たちの苦労をねぎらった翌日の天正八年(1580年)の1月17日正室&重臣たちとともに自刃して果てたのです。

「三木の干殺(ひごろ)し」と呼ばれる約2年間の籠城戦・・・

さすがの秀吉にとっても、この戦いは心身ともに疲れたのでしょう・・・
この後の天正九年(1581年)の鳥取城の兵糧攻め(7月12日参照>>)では、一刻も早く兵糧が尽きるように、事前に画策しています。

こうして、三木城攻防戦を終えた秀吉は、この後、播磨宍粟郡に侵攻しますが、そのお話は【秀吉の播磨平定~宇野祐清の最期】でどうぞ>>
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