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2012年3月13日 (火)

長宗我部元親、最後の手紙

 

慶長四年(1599年)閏3月13日付けで書かれたと思われる長宗我部元親の書状があります。

・・・・・・・・・

ご存じ、土佐の出来人長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)・・・

元親が亡くなったのは慶長四年(1599年)5月19日なので、この手紙はわずか2カ月前・・・結果的に、これが元親最後の手紙という事になります。

・・・といっても、実は、この手紙自身には、日づけも宛名もありません。

ただ、この手紙と同文の物が『金地(こんち)文書』『土佐国蠧簡集(とさのくにとかんしゅう)なる古文書に収められていて、その日づけが両方ともに慶長四年(1599年)閏3月13日である事から、この現物も同じ時に書かれた物と考えられています。

宛名は『金地文書』では筒屋金地十兵衛(つつやこんちじゅうべえ)という鉄砲鍛冶屋で、『土佐国蠧簡集』では春田五郎兵衛(はるたごろべえ)という香美(かみ)郡岩村の住人・・・この五郎兵衛さんは、いわゆる一領具足(いちりょうぐそく)と呼ばれる春田一族の人であろうと言われています。

一領具足とは、土佐の地に根づいた半農の武士の事で、関ヶ原の後に長宗我部が土佐を没収されても、まだ、抵抗をしたという地元の人たちですね(くわしくは12月5日浦戸一揆参照>>)

なので、おそらく、現存するこの元親最後の書状も、そういった地元に根付いた武士か鍛冶屋の誰かに出した物と推測できます。

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長宗我部元親・書状(高知県立歴史民俗資料館蔵)

・・・で、気になる内容は・・・

「種子島筒(たねがしまづつ)の儀…」
つまり、鉄砲に関しての事が書かれています。

(鉄砲の)製造に関しては、ウチの者なら、どないでも自由にやってもろてええねんけど、他の国の者の製造は、一切禁止やからな。

もし、どっかから発注があるようやったら、必ず上の者に報告する事・・・

万が一、内緒で製造して他国の者に売るような事したら、即刻、討ち首にするからな」
てな感じですね。

ご存じのように、日本に鉄砲が伝来したのは天文十二年(1543年)8月25日(2006年8月25日参照>>)・・・
異説もあります→2009年8月25日参照>>)

それから、またたく間に全国に普及していったわけですが、長宗我部ももちろん、他者に遅れをとる事なく、最新兵器に喰いつきます。

とは言え、最初の使用となるとよくわからないのですが、天文十六年(1547年)の長岡大津城の攻防戦で使用した事が記録に残っているそうなので、少なくとも、その頃には・・・

伝来から、わずか4年かと思うと、いかに猛スピードで普及していったかがうかがえます。

もちろん、元親自身は、まだ初陣も済ませていませんので(初陣は永禄三年(1560年)>>)、お父さんの長宗我部国親(くにちか)が使った・・・という事になるわけですが、

最初の頃は、紀伊(和歌山県)根来(ねごろ)などに注文していた元親も、やがては、鉄砲を国内で生産するようになり、阿波(あわ)の平定(9月21日参照>>)や、讃岐(さぬき)の平定(4月22日参照>>)鉄砲を使用して大きな成果を挙げています。

とは言え、ご存じのように、四国を統一(10月19日参照>>)するも、つかの間で羽柴(豊臣)秀吉の配下となり(7月25日参照>>)、さらに天正十四年(1586年)12月12日戸次(へつぎ)川の戦いにて、息子・信親(のぶちか)を失ってからという物、元親は人が変わってしまったと言われます(12月12日参照>>)

反対した一族や家臣団を死に追いやってまで、強引に四男・盛親(もりちか)後継者に指名したり、家臣の志和勘助(しわかんすけ)が阿波の蜂須賀家政(はちすかいえまさ)からのヘッドハンティングを断ったにも関わらず、ヘッドハンティングの話があったという事だけで寝返りと決めつけて殺してしまったり・・・

しかし、その後継者となった盛親は、後の大坂夏の陣で徳川方に生け捕りにされ、二条城の大木に縛りつけられた時、
「命惜しさ生け捕りにされるとは・・・あの世のオヤジさんも、ゆっくり眠れんなぁ」
と、からかった敵方の兵士に、
「ああ、命は惜しいで!
今の俺に、命と右手さえあったら、家康にひと泡吹かせたる!」

と言ったとか・・・

元親の父の国親も、その死を前にして
「ワシへの供養は、本山を討つ事以外にはないと思え!」
という遺言を残しています。

父にも息子にも共通する「最後まであきらめない」という気質・・・おそらく元親さんも持っていた事でしょう。

この最後の手紙は、国防上の理由から鉄砲の流出を避けようという業務命令のような物なので、ここから、その心の内を垣間見る事はできませんが、もう少し・・・もう少しだけ、元親に時間があれば、息子の死を乗り越えて、再び、夢追いかける熱き姿が見られたのかも知れませんね。
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コメント

「最後の手紙」は直筆ですか?それとも「祐筆」である家臣が代筆したものでしょうか?
ただ、1599年3月なら死の床に入る前なので、自力で書状を書ける余力はあったと思います。
書状に年月日や宛名がないのはまれですね。

投稿: えびすこ | 2012年3月13日 (火) 22時18分

えびすこさん、こんばんは~

直筆かどうかは、ちょっとわかりません。
内容が業務命令なので、右筆かも知れませんね。
同時に、複数書いたみたいですしね。

投稿: 茶々 | 2012年3月14日 (水) 02時00分

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