壮絶な籠城…南北朝・金崎城攻防戦
延元二年・建武四年(1337年)3月6日、新田義貞率いる南朝方の籠る越前金崎城が落城・・・恒良親王が生け捕りにされ、尊良親王が自害しました。
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越前(福井県)金崎(かねがさき)の戦いと言えば・・・
戦国好きなら、浅井・朝倉の挟み撃ちを恐れた織田信長が、決死の撤退を試みる『金ヶ崎の退き口』(4月27日参照>>)で有名な手筒山・金ヶ崎城の攻防戦(4月26日参照>>)を思い出しますが、本日の話題は、南北朝時代の金崎の戦い・・・(太平記の表記では「ヶ」の文字は入りません)
舞台となった金崎城は、平安末期に平家一門の平通盛(たいらのみちもり)が、北陸から京を目指して攻め上った木曽義仲(源義仲=みなもとのよしなか)(5月3日参照>>)に対抗するために、敦賀湾に突き出た小高い丘に城を構築したのが最初と言われ、以来、何度か歴史の舞台となりました。
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ともに鎌倉幕府を倒したものの(5月22日参照>>)、後醍醐(ごだいご)天皇の行った建武の新政(6月6日参照>>)に反発して京へ攻め上った足利尊氏(12月11日参照>>)・・・
一旦、足利軍に占領された京の町を奪回し、尊氏を敗走させた(1月27日参照>>)天皇方でしたが、九州に落ち延びて態勢を整え(3月2日参照>>)、再び攻め上った尊氏に湊川の戦い(2007年5月25日参照>>)で破れ、主力の一人であった楠木正成(くすのきまさしげ)(2011年5月25日参照>>)を失います。
京都合戦(6月20日参照>>)に敗退した後醍醐天皇は比叡山へと逃れた後、尊氏とかりそめの和睦を結ぶ(11月2日参照>>)一方で、新田義貞(にったよしさだ)に皇太子の恒良(つねよし・つねなが)親王と異母兄の尊良(たかよし・たかなが)親王を預け、北陸へと落ち延びさせたのです。
多くの凍死者を出しながらも極寒の木ノ芽峠を越え(10月13日参照>>)、敦賀に入った義貞らが越前金崎城へと入城したのは、延元元年(建武三年・1336年)10月13日の事でした。
ここで義貞は全軍を分散する作戦に・・・
総司令官となる自らは、恒良親王と尊良親王を守るべく金崎城に留まり、息子の義顕(よしあき)を越後に、弟の脇屋義助(わきやよしすけ)を瓜生(うりゅう)兄弟の守る杣山城(そまやまじょう=福井県南越前町)へと派遣します。
そうこうしているうちに足利の大軍が金崎城を包囲・・・その後しばらく、一進一退の攻防が繰り広げられます。
この間に後醍醐天皇は幽閉先から脱出し吉野へと逃れ(12月21日参照>>)、そこには、散り々々になっていた楠木正行(まさつら=正成の嫡男)らの忠臣も続々と・・・
一方、足利軍の攻撃を受ける金崎城では、籠城も時間の問題となって来ます。
海に面した金崎城では、はじめのうちは、入り江で魚を釣ったり、海藻を採って飢えをしのいでいましたが、籠城も半年以上続いた今となっては、もはや、そんな少量の粗食では、やっていけないほどの飢餓状態に陥っていたのです。
やがて、皇族用の馬や武将たちの愛馬まで、涙を呑んで朝夕の食糧にあてる日々・・・
まもなくの落城が見えたある日、新田義貞&義助の兄弟は、密かに金崎城を脱出し、かの杣山城へと支援の要請に向かいます。
しかし、金崎城の包囲以来、義助の息子・義治(よしはる)が大将となって瓜生兄弟とともに、何とか金崎城を支援すべく動いていた杣山城とて、その戦いの中で長兄の瓜生保(うりゅうたもつ)を失い(1月12日参照>>)・・・
今となっては、杣山城に残っている兵を入れても、その数は500余騎ほど・・・10万の兵(たぶん盛ってますが)に囲まれた金崎城を救援できるほどの戦備も無かったのです。
この間にも金崎城では、もはや馬も食べつくし、絶食に次ぐ絶食で餓死寸前の状態・・・
かくして建武四年(延元二年=1337年)3月6日、その飢餓状態を見越した足利軍が、金崎城へ、怒涛のごとく攻め込んだのです。
金崎城を守るのは、杣山城へ向かった父の代行として総司令官を務める事になった長男の新田義顕・・・
彼のもとに刻々と戦況が伝えられます。
「城中の兵は、ここ数日間の疲労のため、矢をまともに撃つ事もできません」
「敵が、第1・第2の城門を突破し、コチラに向かってます!」
「もはや、どう考えても、応戦はムリです!」
しかし、義顕の戦況報告をする彼らでさえ、報告をを終えて引き下がろうとする瞬間に足をふらつかせるほどの疲労困憊状態だったのです。
「こうなったからには、親王様たちを何とか脱出させ、残りの者は一つ所で自害しよう」
という事になります。
一方、その間だけでも、第2城門の侵入口で、なんとか敵の攻撃を食い止めようと考えた河野備後守(こうのびんごのかみ)は、なんと、第2城門の脇で射殺されて息絶えていた兵士の太ももの肉を切り取り、20人余りの兵士たちとともに、一口ずつ食し、力をつけたと言います。
想像もしたくない地獄の光景ですが、これも、「何とか主君の自害を敵に妨げられたくない」という武士の思い・・・常識ではあり得ない状態での行為ですから・・・
そのおかげで、河野らは、その後1時間ほど、攻め込む敵を防いだ後、ほぼ全員が深手を負ったのを見届けて、侵入口を一歩も退かぬまま、その場で壮絶な自刃を遂げたと言います。
その間、城内では義顕が自害の覚悟を告げ、二人の親王に脱出を勧めますが、この時、尊良親王だけは、
「同胞を見捨てて逃げる事は出来ない」
と言って、かたくなに義顕らとともに散る事を望んだと言います。
そのため、恒良親王一人だけ、気比社の大宮司であった気比斉晴(けひなりはる)が小舟に乗せて海を渡り、蕪木の浦(かぶらぎのうら=福井県南条郡)の漁夫に預けられたとか・・・まぁ、恒良親王は皇太子ですからね、それこそ、その身は自分一人の物ではありませんから・・・
やがて恒良親王が去った城内・・・その覚悟はあるものの、自害の仕方がわからない尊良親王が義顕に尋ねると、
「こうします」
と言って、義顕は壮絶な割腹を・・・
その姿を見た尊良親王は、自ら、義顕が果てた刀を手に取り、自身の胸を突いて自害を遂げました。
二人の様子を見ていた将兵たちも次々と彼らに殉じ、金崎城は、足利軍の手に落ちたのです。
一方、そうして城を脱出した恒良親王ではありましたが、まもなく、足利軍に捕らえられてしまいます。
合戦後、新田軍の首実検を行った足利軍は、義貞&義助兄弟の首が無い事を恒良親王に問いただしますが、親王は
「昨夜、覚悟を決めて自刃したので、我々が火葬にした」
と、キッパリと答えたのだとか・・・
さすがは後醍醐天皇の息子・・・親王様でも肝が据わってますね。
とは言え、この先、まだまだ続く南北朝は、始まったばかり・・・すでにいくつかの出来事を書いておりますので、さらにこの先を・・・とお思いの方は【足利尊氏と南北朝の年表】>>からどうぞ
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