独立国家・九州南朝で強気外交…懐良親王の野心
弘和三年・永徳三年(1383年)3月27日、父の後醍醐天皇から征西大将軍を任じられ、九州に一大勢力を築いた懐良親王が亡くなりました。
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有名な建武の新政(6月6日参照>>)を断行した後醍醐(ごだいご)天皇が、自らの第7皇子である懐良(かねよし・かねなが)親王を征西大将軍に任命したのは延元元年(建武三年・1336年)9月だったと言われています(諸説あり)。
後醍醐天皇の新政に反発した足利尊氏(あしかがたかうじ)が、建武二年(1335年)に東国で挙兵して上洛し(12月11日参照>>)、一旦京を制圧した事で、事実上建武の新政は崩壊・・・
翌・建武三年(1336年)1月に、天皇配下の新田義貞(にったよしさだ)が京を奪回(1月27日参照>>)するも、九州へと落ち延びて態勢を立て直した(3月2日参照>>)尊氏が、今度は西から上洛し、あの湊川の戦い(5月25日参照>>)に勝利したのが5月・・・
この湊川で楠木正成(くすのきまさしげ)を失った後醍醐天皇は、自らは比叡山に籠り、皇子たちを地方へと落ち延びさせます。
いや、落ち延びるというよりは、自らの分身である息子たちを地方に派遣し、その地方の天皇派の兵力を結集して、新たなる援軍を引き連れて戻って来る事を期待していたのでしょう。
すでに書かせていただいていますが、10月には第4皇子の恒良(つねよし・つねなが)親王に皇位を譲り、第2皇子の尊良(たかよし・たかなが)親王とともに、新田義貞を護衛につけて、こちらは北国(福井・石川方面)へ向かわせています(10月13日参照>>)。
残念ながら、北国へ落ちたコチラの皇子たちは、足利軍の追撃隊によって、翌年の3月に生け捕り&自害するという結果になってしまいますが・・・(3月6日参照>>)
つまり、上記の二人の皇子が北国へ行く1ヶ月前に、本日の主役=懐良親王が九州に向かったというワケです。
結果を先に申し上げますと・・・
この懐良親王・・・上記の二人の兄の轍は踏まず、見事、九州を制圧します。
ご存じのように、南北朝時代を通じて、京都やその周辺では、ほぼ北朝有利・・・ほとんどが足利配下の室町幕府となる中で、懐良親王が制圧した九州は独立国家のようになって、約12年間に渡って抵抗し続けるのです。
この懐良親王の成功の影には、もともと南朝方だった肥後(熊本県)の菊池氏と阿蘇宮司の阿蘇氏・・・そして、九州に向かう段階で味方につけた熊野水軍や伊予水軍などの力が大きく働いていたのです。
菊池氏や阿蘇氏の思惑は、当時、大宰府を支配していた少弐氏にとって代わる事・・・今も昔も外国との貿易の拠点である大宰府を制すれば、そこに巨万の富が生まれますから・・・
・・・で、そうなると、大宰府に着いた交易品を瀬戸内海を使って運ぶのは・・・そう、瀬戸内の海運を掌握している水軍にとって、大宰府を制した者と手を組む事は当然の結果なわけで・・・
もちろん、そこには、観応元年(正平五年・1350年)の観応の擾乱(じょうらん)(10月26日参照>>)という内輪モメがあって、北朝が、ちょっとばかりゴタゴタしてる間に、コチラの南朝勢力が力をつけての大宰府制圧でもあったわけですが・・・
おかげで、しばらくの間は、幕府が派遣する九州探題が、海路を阻まれて九州に入れないという状況になっています(8月6日参照>>)。
ちょうどこの頃ですね・・・
当時の中国を支配していた元(げん)を倒して明(みん)を起こした洪武帝(こうぶてい)が、周辺諸国に建国の報告とともに貢物を出して、その傘下に入る事を要求する使者を送って来たのは・・・
以前、義満の日明貿易のページ(5月13日参照>>)で、チョコッと書かせていただきましたが、この時、大宰府に上陸した明の使者は、その地で政権を掌握していた懐良親王を日本の国王とみなして、彼に国書を送っちゃいます。
当時の室町幕府将軍は第3代・足利義満(あしかがよしみつ)・・・なのに、明が「日本国王良懐」(明の記録で名前が反対になってます…間違えたのか?)なんてお墨付きを発行しちゃったモンだから大慌て・・・
早速、義満も明に使節を送るものの、すでに懐良親王を国王とみなしている明は断固拒否・・・やむなく義満は、南北朝合一を果たして明から「日本国王源道義」と認めてもらうまでのしばしの間、「良懐」の名義でペコペコ外交するしか無かったのです。
(よくワカランが、良懐なんて人はいないから、その名義も使い放題なのか?)
おもしろいのは、「良懐」の名義を使ってまでペコペコ外交して交易を結ぼうとした義満と対照的な態度だった、この時の懐良親王・・・
明からの使者を受けた彼は、早速、如瑤(じょよう)という僧に400名の決死隊をつけて明へと派遣・・・その貢物として巨大なロウソクを持たせるのですが、
その巨大なロウソクの中には、刀剣と火薬が仕込んであり、かの地の皇帝に謁見する際に、「その場で刺し殺せ」との命令を出していたとか・・・『日本海賊史』
残念ながら、手を下す前に、事が露呈して失敗に終わったと言いますが・・・強気外交もここまで行くと、ホンマかいな?って感じですね~(たぶん盛ってます)
とは言え、やがて、四国の細川氏や周防(山口県)の大内氏が北朝についた事から、九州探題として派遣された今川貞世(いまがわさだよ)によって九州を平定されてしまった懐良親王・・・
応安六年(1373年)には、兄=後村上天皇の皇子である良成(よしなり・ながなり)親王に征西大将軍の座を譲った後、晩年には病におかされ、弘和三年(永徳三年・1383年)3月27日、筑後(福岡南部)矢部にて、静かにその生涯を閉じたと言います。
思えば、暦応二年(1339年)に父=後醍醐天皇が亡くなって(8月16日参照>>)からの30余年・・・
父と兄の成しえなかった夢を、その一身に受け止め、天皇親政の日々を夢見て、九州に一大勢力を築いた日々・・・
ひょっとしたら、父・後醍醐天皇の高貴なプライドと不屈の精神と負けん気の強さという特異な血筋を、最も受け継いでいたのは、この懐良親王だったのかも知れませんね。
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コメント
仲間の武光は、日本を守った武士の一人、武房の子孫!どちらもすごい人ですよね
投稿: ゆうと | 2012年3月27日 (火) 18時56分
ゆうとさん、こんばんは~
この頃の武家は鎌倉を生き抜いて来た人たちの家系ですからね~
これが一転するのは、戦国も後半に入ってからですね。
投稿: 茶々 | 2012年3月27日 (火) 19時07分