赤裸々日記~柳沢信鴻の華麗なる隠居生活
寛政四年(1792年)3月3日、大和郡山藩第2代藩主で、郡山柳沢家の第3代当主の柳沢信鴻が69歳の生涯を終えました。
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時代劇では、何かと悪役寄り・・・性格俳優的な役者さんが演じられる事の多い柳沢吉保(よしやす)・・・第5代将軍・徳川綱吉の御側用人として幕閣に君臨した、アノ人ですね(11月2日参照>>)。
今回の柳沢信鴻(やなぎさわのぶとき)さんは、その孫にあたります。
父の吉里(よしさと)の時代に大和郡山(やまとこおりやま)への転封となりますが、この大和郡山という場所は、京都や大坂に近い交通の要所として常に重要視された場所で、徳川時代になっても譜代の有力大名が藩主を務め、畿内の雄藩とされていました。
しかも、柳沢家は、禁裏(きんり=朝廷)守護や、京都&奈良の火消しの役目も仰せつかっていましたので、その力は、かなりの物だったのです。
ちなみに、名物の金魚は、吉里さんが、甲斐(山梨県)の甲府からのお引っ越しの時に、ペットとして大和郡山に持ちこんだ物です。
*大和郡山の城下町については、本家HP:奈良歴史散歩「大和郡山」でどうぞ>>
・・・で、その郡山の2代め藩主となった信鴻は、安永二年(1773年)、50歳にして隠居します。
・・・って、ご本人の紹介で、現役時代をすっ飛ばして、いきなり、隠居してからの話になるのも恐縮なのですが、実は、この方の人生を語るうえでは、現役の頃より、隠居してからの事のほうが、数段オモシロイのです。
と言うのも、この方、マメに日記を書いてます。
公用日記の『幽蘭台年録』から、個人の日記である『宴遊日記』『松鶴日記』・・・その日の天気から政治社会情勢から、「今日何をした」「今日何を食べた」など、克明に記録しているのです。
これが、今となっては、当時の生活様式を知る大切な資料となっていて、特に、天明の大飢饉(12月16日参照>>)に至るまでの天候の記録などは、その原因の究明にも役だっているのです。
そんな中で、信鴻・隠居後の生活を綴った『宴遊日記』・・・そこには、華麗なる趣味に生きる殿さまの日々が赤裸々に語られているというわけです。
大事なお仕事の数々は、息子の保光(やすみつ)に譲り、別荘の六義園(ろくぎえん=東京都文京区本駒込)に移り住んだ信鴻さん・・・
そこでは、俳諧や園芸、読書などの趣味に興じて、のんびりと余生を過ごす日々・・・
いや、そんなにのんびりでもないな・・・
なんせ、他趣味ですから・・・
中でも大好きだったのが観劇・・・
日記によれば、かの別荘から徒歩2時間くらいかかる場所に、朝の7時か8時頃・・・早い時には5時頃に出発し、芝居を終演まで堪能したら大体午後5時頃・・・
その後、お茶屋にて夕食をとってたら、帰るのは午後7時か8時くらいですから、当然、別荘に戻るのは、もはや夜の10時頃になるわけで・・・
これを、なんと、隠居日記の中で119回も見に行ってます。
さらに信鴻の場合、見るだけでは飽き足らず、自ら歌舞伎の脚本を書き、それを奉公人に演じさせる発表会も、自宅で開催していたのです。
しかも、そこには信鴻のシュミ満載・・・
実は、信鴻さん・・・年端もいかないウブな少女が大好きだったのです。
そこで、奉公人の名目で女の子を募集し、自ら面接官となって、好みの女の子を採用し、演技指導などを行いつつ、舞台に立たせる・・・
そう、信鴻さんトコの柳沢家の奉公は、一般の女中奉公と違い、掃除などをチョコッとやる以外は、ほとんど一日中、お芝居の稽古なのです。
考えようによっちゃぁ、隠居したお殿さまの相手をして遊んでいれば、奉公がつとまったのです。
芝居の稽古を「遊ぶ」と表現しちゃうと怒られるかも知れませんが、なんたって、この場合、プロになるための芝居の稽古じゃありませんからね。
あくまで、お殿さまの趣味で、そのゴキゲンを損ねないための芝居の稽古ですから・・・
現に、この噂を聞きつけて、信鴻さんのお屋敷には、奉公希望者がワンサカ訪れたらしいです。
しかし、そうなると、信鴻のほうにも欲が出るわけで、採用にも様々な条件をつける・・・て言っても、三味線が弾けるとか、お琴が上手とか、もちろん美人とか、って条件なんですけどね。
そうなると、もう、またたく間に奉公人は美人揃い・・・まるでアイドルプロダクションのように・・・
そんな中で、特に気に入った少女がいた場合は、ご想像通り、より丁寧な親切指導・・・しかも、それは、お芝居だけに留まらず、一般教養から、普段の立ち居振る舞いまで・・・
こうして、まぶしいほどの一流の女性に育て上げた後、その娘が、やがて16歳頃になると、信鴻さんご自身が、ご賞味されるとの事・・・
こうして、俳諧に遊び、観劇に興じ、ガーデニングに勤しむ隠居生活を送った柳沢信鴻さん・・・3食のメニューまで記録してくれたおかげで、江戸時代の殿さまの生活というのが垣間見え、それはそれでオモシロイ!
それにしても、今ハヤリの「年の差婚」・・・・やはり殿方の永遠の夢なのでしょうかね?
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コメント
「今日何を食べた」の点では、芸能人も自分のブログに書く人がいますね。
「食べ歩きブログ」や「レシピ専用ブログ」として書いている料理評論家もいますね。
江戸時代の正月料理などのレシピ(イラスト付き)もちゃんと残っていて、黄門様は朝廷の儀式の解説書(これもイラスト付き)などを残しています。
投稿: えびすこ | 2012年3月 3日 (土) 22時08分
現在に生きていたら、芸能プロダクションを立ち上げそうですね。六義園は、今も人々を紅葉で楽しませてくれますね。
投稿: やぶひび | 2012年3月 4日 (日) 09時52分
柳沢48ですな。やはり、譜代には遊び人が多いですよ。
投稿: レッドバロン | 2012年3月 4日 (日) 11時02分
えびすこさん、こんにちは~
詳細に残っているレシピは、歴史好きとしてはウレシイ遺産ですね。
投稿: 茶々 | 2012年3月 4日 (日) 13時22分
やぶひびさん、こんにちは~
ガーデニングにも、相当、力を入れておられたようなので、六義園もステキなお庭なんでしょうね~
いつか、行ってみたいです。
投稿: 茶々 | 2012年3月 4日 (日) 13時24分
レッドバロンさん、こんにちは~
江戸時代は、ある意味平和な時代でしたから…そのぶん文化も華やかになって、殿さまの生活は華麗でおもしろいです。
投稿: 茶々 | 2012年3月 4日 (日) 13時25分
この人の跡を嗣いだ保光は、真田信之の血を引いており、現存する信之子孫は、保光の子孫だけみたいです。
投稿: サクラ | 2012年3月 6日 (火) 21時33分
サクラさん、こんばんは~
柳沢信鴻さんの奥さんは真田信弘の娘ですもんね。
本家のほうは、ウマイ事、徳川からの婿養子に入られちゃいました。
投稿: 茶々 | 2012年3月 6日 (火) 23時32分
お邪魔します。
その後、真田本家は戊辰の際、徳川と縁を切るため、宇和島藩から養子を取りました。
真田本家現当主は、片倉重長女系の伊達吉村の血を引いているので、最終的に真田本家は、伊達と片倉にとって変わられたと言えますね。
投稿: サクラ | 2012年3月31日 (土) 15時19分
サクラさん、こんにちは~
やはり、男系男子での継承はなかなか難しいですね。
投稿: 茶々 | 2012年3月31日 (土) 17時06分
お久しぶりです。
最近、気づいたのは、信之存命中の柳澤氏は、数百石取りの陪臣に過ぎず、吉保一代で真田氏より格上の大名家に、のしあがったことです。
第二次上田合戦時に、信之と吉保の先祖は、秀忠隊に属していたので、顔見知りの可能性もありますね。
多分、信之は己の血筋が、柳澤氏に取り込まれてしまう未来を、予想すらしていなかったでしょう。
投稿: サクラ | 2012年8月18日 (土) 00時24分
サクラさん、こんばんは~
柳沢は、ご落胤説まで出るくらいに出世しましたからね~
投稿: 茶々 | 2012年8月18日 (土) 01時24分