龍造寺四天王~それぞれの沖田畷
天正十二年(1584年)3月24日、肥前島原半島の領有権をめぐって龍造寺氏と島津氏が争った沖田畷の戦いがありました。
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この沖田畷(おきたなわて)の戦いで命を落とす肥前(佐賀県)の戦国大名・龍造寺隆信(りゅうぞうじたかのぶ)・・・
豊後(大分県)の大友宗麟(そうりん)、薩摩(鹿児島県西部)の島津義久と並んで「九州三強の一角」と呼ばれ、頂点の頃は『肥前の熊』と恐れられる存在だった隆信さんの生涯については、古い記事ではありますが2007年の11月26日に>> 、今回の沖田畷の戦いの経緯についても昨年=2011年の3月24日に>>書かせていただいておりますので、本日は、その隆信最後の戦いで、主君とともに散った『龍造寺四天王』についてご紹介させていただきたいと思います。
昨年のページでも書かせていただきましたが・・・
晩年の隆信は酒におぼれ、「肥前の熊」と呼ばれた面影も無く、手は震えて馬にも乗れず、家臣との信頼も崩れて、まともな作戦も無いままに沖田畷に突入したために、大量の兵を擁しながらも少数の島津に討ち取られてしまったのだと言われます。
しかし、それも勝てば官軍・・・合戦での負け組には、その弁解の余地もないのが歴史の常で、今回の四天王に代表される多くの重臣たちが、主君とともに、この合戦で散る事を選んだ事実を見れば、龍造寺主従の絆は、なかなかに深い物であったのではないか?と思います。
さて、肝心のその四天王ですが・・・
成松信勝(なりまつのぶかつ)
百武賢兼(ひゃくたけともかね)
江里口信常(えりぐちのぶつね)
円城寺信胤(えんじょうじのぶたね)
木下昌直(きのしたまさなお)・・・て、5人おるやないか~い!
そうなんですね~賤ヶ岳の七本槍しかり、利休七哲しかり・・・こういう場合に「人数が合わない場合」もありなんです。
なんせ、文献が複数ありますから・・・龍造寺の場合も、最初の3人はほぼ確定ですが、記録によって円城寺と木下が入れ替わったり、四天王ではなく「四本槍」と紹介される事もあります。
いずれにしても、彼らは重臣と言えど、ものすご~~くエライ・・・言わば、常に主君の隆信のそばについてるような家臣ではなく、合戦となれば先陣を切って駆け抜けて行くという武闘派の旗本中堅クラスの家臣たちなのです。
●成松信勝
四天王の筆頭とも言うべき信勝は、比較的早い段階から隆信の近侍となった家臣で、あの今山の戦い(8月20日参照>>)では、いち早くスパイを放って大友勢の動きを把握し、奇襲作戦成功に一役買いました。
今回の沖田畷では、軍奉行として出陣し、隆信本陣の防衛にあたっていましたが、混乱の中で隆信が討ち取られた事を知ると、「我こそは、先年、大友八郎(親貞=宗麟の弟)を討ち取りし成松遠江守なり!」と、戦場に響き渡るような名乗りを挙げ、100人ばかりの島津勢の真っただ中に突入して果てました。
●百武賢兼
賢兼は、もとは戸田という苗字でしたが、永禄十二年(1569年)に起こった佐賀多布施(たふせ)口の戦いに初参戦して以来、百戦錬磨の活躍を見せた事から、隆信より「百武」の姓を賜ったのだとか・・・
沖田畷では、やはり、隆信の本陣の防衛にあたっていましたが、本陣が島津勢の急襲に遭った際、隆信の盾になるがごとくその前に立ちふさがって奮戦、主従40名とともに防波堤となって討死しました。
●江里口信常
もとは小城(おぎ=佐賀県小城市)の千葉氏の家臣だった信常は、後に鍋島信房(のぶふさ=直茂の兄)に仕え、隆信の最盛期の頃に軍団に加わります。
沖田畷では、隆信が死んだと聞くやいなや、味方で討死していた者の首を切り取り、複数の首をひっさげて「大将に分捕りの首を見参!!」と叫びながら、敵陣深く入り込んで敵の大将・島津家久(いえひさ)の間近まで迫り、いきなり、家久に首を投げつけながら「江里口藤七兵衛!!」と名乗りを挙げて馬上の家久に斬りかかり、太ももに重傷を負わせて落馬させるという快挙をやってのけます。
ただ、悲しいかな、たった一騎・・・すぐに、敵の馬廻りの者たちに取り囲まれてしまいますが、その時、家久が
「ソイツは無双のツワモノや!殺すな!助けろ!」
と叫びますが間に合わず・・・後に、家久は「信常に子孫がいるなら養子にしたい」と言っていたとか・・・
●円城寺信胤
小城の千葉氏の支流の出身と言われる信胤は、隆信譜代の家臣である鹿江兼明(かのえかねあき)の娘を妻に娶っていた事もあって、数々の合戦で武功を挙げています。
沖田畷では、軍奉行として本陣にあり、(たぶんわざと)隆信と同じ威(おどし)毛の甲冑を身につけていたと言い、本陣急襲の際には、「我こそは龍造寺山城守隆信なり!」との名乗りを挙げながら敵陣に突入し、壮絶な斬り死にをしたという事です。
●木下昌直
もともとは京都出身ですが、龍造寺の家臣である木下覚順の養子となって隆信に仕えたとされる昌直は、龍造寺四天王の中で、唯一、生存説のある武将です。
沖田畷の時は、山の手に布陣していた鍋島直茂(当時は信生)(10月20日参照>>)の一団に属していた事から、隆信戦死の報を聞いて退却する直茂軍の殿(しんがり)を務め、直茂が無事に引き上げるのを確認してから陣中で戦死した・・・とも言われますが、
一方では、隆信の死を知った直茂隊や龍造寺政家(隆信の息子)隊が退却を考慮している時、隆信の死が本当の事かどうかを確認するために本陣へ向かい、無事生還して、主君の死を報告して彼らの退却を見守った後、船にて帰還したとの生存説があります。
以上、
5人いる四天王のそれぞれの沖田畷を見て参りましたが、冒頭にも書かせていただいた通り、彼らの忠誠心溢れる戦いぶりを見る限り、晩年の隆信が酒におぼれた暴君であったとは、とても信じがたいのです。
命を懸けて主君に報いたいと思う姿は、同じ戦場にいる兵士たちを、敵味方の区別なく感動させる・・・だからこそ、敵である家久が「殺すな!」と叫び、その様子を目にした兵士たちが、後の世に語り継ぐわけで・・・
そこには、やっぱり、しっかりとした主従の絆ができていたと思いたいですね。
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コメント
龍造寺四天王の百武さん、はて、どっかで聞いたことのある姓?
そうだ、先の大戦でソロモン方面第一四軍司令官をなさった百武晴吉中将がご子孫か?と勢い込んだら、違ってたようです。でも、佐賀藩出身なので、何かご縁があるのかも?
こちらの百武兄弟はすべて陸海軍大将まで昇っております。この辺は昔から武将、軍人さんの産地なのですね。
投稿: レッドバロン | 2012年3月28日 (水) 12時58分
レッドバロンさん、こんにちは~
へぇ、そうなんですか?
恥ずかしながら、近代史が弱いので、そのソロモン方面の方は存じませんでしたが…
直系ではないにしろ、何かしらつながっているのかも知れませんね。
投稿: 茶々 | 2012年3月28日 (水) 14時04分
百武中将は嫡流ではないが分家であり、子孫で間違いないようです。鍋島藩で存続した百武氏は本家と分家があったようです。本家では満州事変の際、戦車部隊を率いた百武俊吉陸軍大尉がいます。
隆信と賢兼のエピソードで生まれた「百武」の名が数百年後の近代戦場でも活躍してるというのは不思議な感じがしますね。
投稿: 名無し | 2012年4月20日 (金) 16時38分
名無しさん、情報ありがとうございます。
やはり、つながりがあるのですね。
歴史を結ぶ糸を感じますね。
投稿: 茶々 | 2012年4月20日 (金) 18時44分