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2012年3月11日 (日)

天目山…武田勝頼の最期

 

天正十年(1582年)3月11日、織田・徳川の両軍に追い詰められた武田勝頼が、妻子とともに甲斐・天目山にて自害しました。

・・・・・・・・・・・

武田勝頼自害と武田の滅亡・・・いわゆる天目山の戦いに関して、すでに何度か書かせていただいていますページを時系列で並べますと・・・

まずは、滅亡へのカウントダウンが始まったのが、武田信玄亡きあとに勝頼が奪取した高天神城(5月12日参照>>)を、徳川家康に奪い返されたのが天正九年(1581年)3月・・・(3月22日参照>>)

その後、武田の勢いに陰りが見えた事で、次々と離反者が出て、やがて、翌・天正十年(1582年)1月には、勝頼の妹・真理姫の夫である木曽義昌(きそよしまさ)織田信長に寝返り、続く2月には、依田信蕃(よだのぶしげ)田中城を開城し、家康に降ります(2月20日参照>>)

さらに3月1日には、同族の穴山梅雪(あなやまばいせつ・信君)も・・・(3月1日参照>>)

そして、離反者相次ぐ中でも最後の最後まで勝頼に味方した勝頼の異母弟・仁科盛信(にしなもりのぶ)が命がけの高遠城攻防戦を演じたのが3月2日・・・(3月2日参照>>)

やがて勝頼は、父・信玄以来の重臣だった小山田信茂(おやまだのぶしげ)を頼って、その居城である岩殿山城(山梨県大月市)に向かいますが、城に近い笹子峠にて矢玉が射掛けられた事で、信茂までが、織田・徳川に降った事を悟った勝頼らは、最後は50人ほどとなって、死に場所を求めて天目山へ・・・

そして、わずか5年間の夫婦生活だったにも関わらず、夫とともに死ぬ事を選んだ妻=北条夫人・桂林院(2010年3月11日参照>>)の自害を見届けた後、勝頼自身も天目山にて自刃(2008年3月11日参照>>)したのが天正十年(1582年)3月11日・・・

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天目山勝頼討死図(歌川国綱)

というのが、定説となっています。

これは、武田の一級史料である『甲陽軍鑑(こうようぐんかん)の記述をもとにした物ですが、一方では、その『甲陽軍鑑』にも、誤りとおぼしき記述もあり、異説がある事も確かです。

今日は、そんな異説の一つである『常山紀談(じょうざんきだん)(1月9日参照>>)の中の、勝頼の最期を・・・

・‥…━━━

死に場所を求めて天目山へと向かった勝頼一行をさらに追い詰めるように、各地で一揆が起こります。

そこで、ともに連れだっていた女性たちを、近くの百姓の家の中へと入れ、出入り口を塞いでから、周辺の家よりかき集めた(かや)を積み上げて、そこに火を放ちました。

その後、小高い丘の上に上って、武田家先祖伝来の源義光(みなもとのよしみつ=八幡太郎義家の弟)『小桜葦威鎧(こざくらあしおどしよろい)=別名『盾無鎧(たてなしのよろい)(楯が無くてもやりや刀を通さないと言われる)を、嫡子である信勝(のぶかつ)に身につけさせました。

この時、肩入れの役(鎧を着せかける役)を務めたのは、この最後の戦いで「片手千人斬り」の武勇を誇った土屋昌恒(まさつね)・・・

そうしておいて、勝頼は、今まさに攻め寄せようとする一揆勢に立ち向かおうと、長刀をかざしますが、その様子を見た昌恒が・・・

「御屋形様は、新羅三郎(しんらさぶろう)源義光から数えて28代めの弓矢の家をお継ぎになられたお方・・・
例え、どんなに窮地に立ちましょうとも、一揆勢なんかに御首を渡す事なんて、くやしいです!」

と、涙ながらに訴えると、

勝頼は
「もっともや・・・わかった」
と鎧を脱ぎ、昌恒に介錯をさせて、その命を終えました。

それを見て、その場にいた息子や従者たちが次々と刺し違えて勝頼に殉じ、それら全員の最期を見届けてから、昌恒も、自ら自刃した、と・・・

・‥…━━━

『常山紀談』の筆者である湯浅常山(ゆあさじょうざん)は、自ら、地元の人々の言い伝えを調べて、この話を記しているので、
「勝頼が斬り死にしたと書いてある『甲陽軍鑑』は後の人に誤って伝わったのだろう」
と高らかに、「こっちが正しい」宣言をしちゃってますが、

一方で、同じ『常山紀談』に、ぜんぜん違う話も書いています。

それによると、

伊東伊右衛門(いえもん)という者が、天目山に落ちて行こうとしていた落人たちの一団に攻め入り、ある武将の首を討ち取りますが、それが誰かわからず、そのへんの溝に捨ててしまっていたところ、その溝の前を通る百姓たちが、皆、平伏して、礼をしながら通って行く・・・

「なんで、そんな事するんや?」
と、問いただすと
「溝の中に御屋形様の首がございます」

って事で、その首が勝頼の物だという事がわかったと・・・

って事で、結局は、
討たれたのか?切腹したのか?
斬られたのか?介錯されたのか?

そもそもは、百姓たちが勝頼の顔を認識できるほど、見る機会があったのか?というところも微妙ですが、おそらく影武者もいただろうし、敵方の中で勝頼を見た事がある人がいるのかも怪しいですしね。

まぁ、今日のところは、
「そんな説もある」という事でお許しをm(_ _)m・・・

この後の出来事としては、信長による戦後の論功行賞と新領地への訓令発布(3月24日参照>>)、武田ゆかりの寺=恵林寺への攻撃(4月3日参照>>)があります。
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戦国・安土~信長の時代」カテゴリの記事

コメント

深沢七郎の「笛吹川」という小説を読みました。映画化されています。武田家の盛衰を五代の貧農の一家の目から、描いています。

投稿: やぶひび | 2012年3月11日 (日) 19時58分

やぶひびさん、こんばんは~

貧農一家の目線からですか…
なかなか興味深いですね。

投稿: 茶々 | 2012年3月12日 (月) 01時24分

茶々様、こんにちは。
いろいろな話があるとは知りませんでした。

投稿: いんちき | 2012年3月12日 (月) 11時41分

いんちきさん、こんにちは~

ホントですね。
歴史は点と点を結びつけてる線のような物でしょうか?

様々な説の中から、専門家の方が吟味した物が定説とされますが、それも永遠ではなく、新たな発見によってくつがえされる。

それがおもしろいとこなのでしょう。

投稿: 茶々 | 2012年3月12日 (月) 17時54分

うちの藩にも、武田の旧臣は居るなぁ。
青沼氏
武田滅亡後、一時上杉景勝に使えた後戸田家の臣となった訳だが、元首相由起夫ちゃんの祖先の一人だね。

でー、木下惠介の「笛吹川」をご覧になっておられないなら是非、是非、ご視聴下さいませませ。

溝口健二の「山椒大夫」と共にお気に入りの一作です・・・と言うと傾向映画のように受け止められ手忌避されてしまうかもしれませんが、あの加藤泰の傑作「真田風雲禄」だって'60年安保のエレジーである訳だし感慨は百花繚乱千差万別、投じられた一石に心が揺らげばそれで良しと思う次第で、はい。

投稿: 野良猫 | 2012年3月12日 (月) 19時59分

訂正
受け止められ"手" → 受け止められ"て"
おそまつ

投稿: 野良猫 | 2012年3月12日 (月) 20時02分

野良猫さん、こんばんは~

やはりオススメですか~
チェックしときますです!

投稿: 茶々 | 2012年3月12日 (月) 22時30分

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